風もないのに、鳴る
その朝、ジークヴァルト様は、めずらしく新聞を手にしていた。
わたしが席につくと、彼はそれを静かに畳んだ。
「ひとつ、君の耳に入れておこうと思ってな」
「なんでしょう」
「モルガン男爵家が、傾いたそうだ」
その名に、わたしの手が止まった。
モルガン。
それは、リーゼの生家の名だった。
「傾いた、と申しますと」
「不正な取引が、いくつも明るみに出たらしい。爵位の返上は、まず免れまい」
彼は紅茶に口をつけながら、そう続けた。
まるで天気の話でもするような口ぶりだった。
「あの娘は。リーゼは、どうなるのでしょう」
「あの家の令嬢が、この先どう扱われるか。君にも、想像はつくだろう」
「では、あの子は。もう、社交の場には戻れないのですか」
「戻れまい。あの夜、君にしたことを思えば、当然の報いだ」
「わたしは、あの子に、仕返しなど、していないのに」
「ああ。君は、なにもしていない。……なにも、しなくていい」
その言葉が、どこか、遠い約束のように聞こえた。
わたしは、うまく言葉が出てこなかった。
リーゼは、わたしを陥れた娘だ。
あの子のついた嘘のせいで、わたしは城を追われ、なにもかもを失った。
だから、ざまをみろと思ってもいいはずだった。
かつて夜会の隅で、わたしの手を取って笑った、あの日の顔さえなければ。
けれど胸に広がったのは、勝ち誇る心地ではなく、寒々しいなにかだった。
「……自業自得、なのでしょうか」
「そう思うか」
「わかりません。ただ、少しだけ、こわい気がして」
ジークヴァルト様は、そんなわたしをじっと見ていた。
淡い青の瞳の奥が、なにかを確かめるように揺れた。
「優しいな、君は」
彼は、ふとそう呟いた。
「自分を陥れた娘の不幸にすら、胸を痛める。……だから、君でなければならなかった」
「え?」
「なんでもない。食べなさい。冷めるぞ」
彼は微笑んで、それきり話を終わらせた。
だから、君でなければ。
その言葉の続きを、わたしは聞きそびれてしまった。
けれど、なぜだろう。
やわらかな声のはずのそれが、いつまでも、耳の奥に残った。
* * *
その夜もテラスに出ると、いつものように風はなかった。
昼じゅう鳴きしきっていた蝉も、今は声をひそめている。
生あたたかい夜気だけが、じっと庭に淀んでいた。
マレナが、音もなく紅茶を運んでくる。
わたしの胸には、昼のことが、まだ小さな棘のように刺さっていた。
「マレナ。人が不幸になるのを、少しでも安堵してしまうのは、いけないことよね」
「さあ。わたくしには、むずかしいことはわかりかねます」
老侍女は、いつものように、多くを語らなかった。
わたしは、夜空を見上げてつぶやいた。
「わたしを嗤ったのは、リーゼだけではなかったの」
言葉が、するすると口をついて出た。
「偽りの証言をした侍女もいた。夜会でわたしを指さして笑った令嬢も。ヴァネッサ様、というお方」
ヴァネッサ、と口にした瞬間だった。
ちりん、と。
軒の風鈴が、ひとつ鳴った。
わたしは、口をつぐんだ。
そして、おそるおそる、続けてみる。
「偽証をした侍女は……たしか、ノラ、という名の子だったわ」
ちりん、と。
また、鳴った。
今度は、はっきりと聞こえた。
風は、ない。
葉の一枚も動いていない。
なのに、わたしが誰かの名を口にするたび、風鈴はひとつずつ鳴る。
まるで、その名を、どこか遠くへ書き留めているみたいに。
背筋を、冷たいものが伝った。
「マレナ。いまの音、聞こえたでしょう」
「いいえ。わたくしには、なにも」
老侍女の声は、少しだけ硬かった。
その手が、茶器の縁を握ったまま、動かなくなっている。
わたしは、それ以上、誰の名も口にできなくなった。
きっと、気のせいだ。
夏の夜の、ただのいたずらだ。
そう自分に言い聞かせて、冷めかけた紅茶を一口だけ飲んだ。
風鈴は、それきり静かになった。
まるで、もう聞くべき名を、すべて聞き終えたかのように。
* * *
翌日の午後、わたしは書斎にいた。
窓の外では、蝉が狂おしいほど鳴いている。
締めきった部屋は、じっとりと暑く、うなじに汗が滲んだ。
好きに使っていい、とジークヴァルト様が言ってくれた部屋だ。
高い天井まで届く書架には、数えきれない本が並んでいる。
読みかけの一冊を戻そうと、わたしは奥の棚に手を伸ばした。
指先が、隣の本の背に触れる。
その一冊が、ことりと傾いた。
本の陰から、麻紐で束ねた紙の束が、するりと滑り出てくる。
床に落ちたそれを、わたしは何気なく拾い上げた。
そして、表に記された文字に、目を奪われた。
『セラフィーナ・アーデンフェルト嬢の罪状について』
心臓が、大きく跳ねた。
震える指で、麻紐をほどく。
なかにあったのは、幾枚もの証言書だった。
わたしが令嬢を階段から突き落とそうとした、という、あの偽りの告発。
見覚えのない証人の署名。
わたしの筆跡を真似た、偽の手紙の写し。
一枚を、そっと手に取ってみる。
そこには、わたしが令嬢を口汚く罵ったという、覚えのない言葉が並んでいた。
筆跡は、たしかにわたしのものによく似ている。
けれど、文字のはねの一つひとつが、わたしの癖とは、わずかにちがった。
誰かが、時間をかけて、わたしの字をなぞる稽古をしたのだ。
そうとしか、思えなかった。
これほど手の込んだ偽りを、いったい誰が、なんのために用意したのだろう。
わたしを断罪するために使われた、そのすべてが。
なぜか、この屋敷の書斎の奥に、そろって眠っていた。
どうして。
どうして、ジークヴァルト様が、これをお持ちなの。
これは、王城で、殿下の手もとにあったはずのもの。
けっして外へ出るはずの、ないものだ。
指先が、氷のように冷たくなっていく。
そのとき、背後で、扉の開く音がした。
「――探しものかい、セラフィーナ」
穏やかな声が、わたしの名を呼んだ。
いつもと、なにも変わらない声だった。
なのに、わたしは、証言書の束を握りしめたまま。
どうしても、振り返ることが、できなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
三話は、いよいよ「風鈴が、なにを数えているのか」が、輪郭を持ちはじめる回です。名前を呼ぶたびに鳴る音――ぞくり、としていただけたら、書いた甲斐があります。
朝の食卓で、ジークヴァルト様が「だから、君でなければならなかった」と言いかけて、やめる場面。彼の本音が、いちばん漏れてしまった瞬間かもしれません。彼にとって、セラフィーナの“優しさ”は、とても大切な条件なのです。……なぜ条件なのかは、どうか、この先で。
そして、書斎の証言書。セラフィーナは、たぶん、いちばん見てはいけないものを見つけてしまいました。次話、彼はなんと答えるのでしょう。
セラフィーナは幸せです。それだけは、何があっても変わりません。
次話も、どうぞおつきあいくださいませ。




