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3/10

風もないのに、鳴る

その朝、ジークヴァルト様は、めずらしく新聞を手にしていた。


わたしが席につくと、彼はそれを静かに畳んだ。


「ひとつ、君の耳に入れておこうと思ってな」


「なんでしょう」


「モルガン男爵家が、傾いたそうだ」


その名に、わたしの手が止まった。


モルガン。


それは、リーゼの生家の名だった。


「傾いた、と申しますと」


「不正な取引が、いくつも明るみに出たらしい。爵位の返上は、まず免れまい」


彼は紅茶に口をつけながら、そう続けた。


まるで天気の話でもするような口ぶりだった。


「あの娘は。リーゼは、どうなるのでしょう」


「あの家の令嬢が、この先どう扱われるか。君にも、想像はつくだろう」


「では、あの子は。もう、社交の場には戻れないのですか」


「戻れまい。あの夜、君にしたことを思えば、当然の報いだ」


「わたしは、あの子に、仕返しなど、していないのに」


「ああ。君は、なにもしていない。……なにも、しなくていい」


その言葉が、どこか、遠い約束のように聞こえた。


わたしは、うまく言葉が出てこなかった。


リーゼは、わたしを陥れた娘だ。


あの子のついた嘘のせいで、わたしは城を追われ、なにもかもを失った。


だから、ざまをみろと思ってもいいはずだった。


かつて夜会の隅で、わたしの手を取って笑った、あの日の顔さえなければ。


けれど胸に広がったのは、勝ち誇る心地ではなく、寒々しいなにかだった。


「……自業自得、なのでしょうか」


「そう思うか」


「わかりません。ただ、少しだけ、こわい気がして」


ジークヴァルト様は、そんなわたしをじっと見ていた。


淡い青の瞳の奥が、なにかを確かめるように揺れた。


「優しいな、君は」


彼は、ふとそう呟いた。


「自分を陥れた娘の不幸にすら、胸を痛める。……だから、君でなければならなかった」


「え?」


「なんでもない。食べなさい。冷めるぞ」


彼は微笑んで、それきり話を終わらせた。


だから、君でなければ。


その言葉の続きを、わたしは聞きそびれてしまった。


けれど、なぜだろう。


やわらかな声のはずのそれが、いつまでも、耳の奥に残った。


   * * *


その夜もテラスに出ると、いつものように風はなかった。


昼じゅう鳴きしきっていた蝉も、今は声をひそめている。


生あたたかい夜気だけが、じっと庭に淀んでいた。


マレナが、音もなく紅茶を運んでくる。


わたしの胸には、昼のことが、まだ小さな棘のように刺さっていた。


「マレナ。人が不幸になるのを、少しでも安堵してしまうのは、いけないことよね」


「さあ。わたくしには、むずかしいことはわかりかねます」


老侍女は、いつものように、多くを語らなかった。


わたしは、夜空を見上げてつぶやいた。


「わたしを嗤ったのは、リーゼだけではなかったの」


言葉が、するすると口をついて出た。


「偽りの証言をした侍女もいた。夜会でわたしを指さして笑った令嬢も。ヴァネッサ様、というお方」


ヴァネッサ、と口にした瞬間だった。


ちりん、と。


軒の風鈴が、ひとつ鳴った。


わたしは、口をつぐんだ。


そして、おそるおそる、続けてみる。


「偽証をした侍女は……たしか、ノラ、という名の子だったわ」


ちりん、と。


また、鳴った。


今度は、はっきりと聞こえた。


風は、ない。


葉の一枚も動いていない。


なのに、わたしが誰かの名を口にするたび、風鈴はひとつずつ鳴る。


まるで、その名を、どこか遠くへ書き留めているみたいに。


背筋を、冷たいものが伝った。


「マレナ。いまの音、聞こえたでしょう」


「いいえ。わたくしには、なにも」


老侍女の声は、少しだけ硬かった。


その手が、茶器の縁を握ったまま、動かなくなっている。


わたしは、それ以上、誰の名も口にできなくなった。


きっと、気のせいだ。


夏の夜の、ただのいたずらだ。


そう自分に言い聞かせて、冷めかけた紅茶を一口だけ飲んだ。


風鈴は、それきり静かになった。


まるで、もう聞くべき名を、すべて聞き終えたかのように。


   * * *


翌日の午後、わたしは書斎にいた。


窓の外では、蝉が狂おしいほど鳴いている。


締めきった部屋は、じっとりと暑く、うなじに汗が滲んだ。


好きに使っていい、とジークヴァルト様が言ってくれた部屋だ。


高い天井まで届く書架には、数えきれない本が並んでいる。


読みかけの一冊を戻そうと、わたしは奥の棚に手を伸ばした。


指先が、隣の本の背に触れる。


その一冊が、ことりと傾いた。


本の陰から、麻紐で束ねた紙の束が、するりと滑り出てくる。


床に落ちたそれを、わたしは何気なく拾い上げた。


そして、表に記された文字に、目を奪われた。


『セラフィーナ・アーデンフェルト嬢の罪状について』


心臓が、大きく跳ねた。


震える指で、麻紐をほどく。


なかにあったのは、幾枚もの証言書だった。


わたしが令嬢を階段から突き落とそうとした、という、あの偽りの告発。


見覚えのない証人の署名。


わたしの筆跡を真似た、偽の手紙の写し。


一枚を、そっと手に取ってみる。


そこには、わたしが令嬢を口汚く罵ったという、覚えのない言葉が並んでいた。


筆跡は、たしかにわたしのものによく似ている。


けれど、文字のはねの一つひとつが、わたしの癖とは、わずかにちがった。


誰かが、時間をかけて、わたしの字をなぞる稽古をしたのだ。


そうとしか、思えなかった。


これほど手の込んだ偽りを、いったい誰が、なんのために用意したのだろう。


わたしを断罪するために使われた、そのすべてが。


なぜか、この屋敷の書斎の奥に、そろって眠っていた。


どうして。


どうして、ジークヴァルト様が、これをお持ちなの。


これは、王城で、殿下の手もとにあったはずのもの。


けっして外へ出るはずの、ないものだ。


指先が、氷のように冷たくなっていく。


そのとき、背後で、扉の開く音がした。


「――探しものかい、セラフィーナ」


穏やかな声が、わたしの名を呼んだ。


いつもと、なにも変わらない声だった。


なのに、わたしは、証言書の束を握りしめたまま。


どうしても、振り返ることが、できなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


三話は、いよいよ「風鈴が、なにを数えているのか」が、輪郭を持ちはじめる回です。名前を呼ぶたびに鳴る音――ぞくり、としていただけたら、書いた甲斐があります。


朝の食卓で、ジークヴァルト様が「だから、君でなければならなかった」と言いかけて、やめる場面。彼の本音が、いちばん漏れてしまった瞬間かもしれません。彼にとって、セラフィーナの“優しさ”は、とても大切な条件なのです。……なぜ条件なのかは、どうか、この先で。


そして、書斎の証言書。セラフィーナは、たぶん、いちばん見てはいけないものを見つけてしまいました。次話、彼はなんと答えるのでしょう。


セラフィーナは幸せです。それだけは、何があっても変わりません。


次話も、どうぞおつきあいくださいませ。

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