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2/10

冷徹な大公閣下の、優しい嘘

朝は、蝉の声で目が覚めた。


窓の外では、もう、降るような蝉時雨が始まっている。


王城にいた頃は、こんな時間まで眠ることなど許されなかった。


けれど、この屋敷では誰もわたしを急かさない。


寝台のそばの椅子に、いつのまにかジークヴァルト様が座っていた。


「起こしてしまったか」


「いえ……あの、いつから、そこに」


「さあ。君の寝顔は、時を忘れさせる」


さらりと言われて、わたしは慌てて布団を引き上げた。


冷徹と恐れられる大公が、こんな顔で笑うなんて、誰が信じるだろう。


社交界で聞いた噂では、この人は感情を持たない氷の人だった。


逆らう者を眉ひとつ動かさず切り捨てる。そんな話ばかりが囁かれていた。


けれど、わたしの前にいる人は、まるで別人だ。


「顔色が、だいぶよくなったな」


ジークヴァルト様の指が、わたしの前髪をそっと払う。


「食べたいものはあるか。菓子でも果物でも、この屋敷にないものなら取り寄せる」


「そんな、もったいのうございます。わたし、いただくばかりで、なにもお返しができません」


「返すもの?」


彼は、少し不思議そうに首を傾げた。


「君がここにいる。それ以上のものが、この世にあるものか」


その言葉が本気なのだと、瞳を見ればわかってしまう。


だからこそ、わたしはいたたまれなくなった。


こんなに大切にされる理由が、ひとつも思い当たらなかったから。


   * * *


その日の午後、ジークヴァルト様は、小さな箱を差し出した。


なかには、髪に挿す銀の飾りが収まっていた。


細工の花びらの一枚一枚に、淡い青の石が嵌まっている。


「わたしに、ですか」


「君の目の色に、合うと思った」


「こんな高価なもの、いただけません」


「いらぬなら、庭に捨てるだけだ」


そう言って、彼は本当に窓のほうへ歩き出そうとする。


わたしは、慌ててその袖を掴んだ。


「待ってください! ……いただきます。大切に、します」


「では、つけてやろう」


彼の指が、わたしの髪をすくう。


冷たいと噂される手は、驚くほど優しく、あたたかかった。


鏡のなかで、銀の花が、わたしの黒髪に咲いた。


「よく似合う」


耳もとで囁かれて、頬が熱くなる。


数日が、夢のように過ぎていった。


朝は庭を歩き、昼は書架の本を読み、夜はテラスで星を眺める。


昼のあいだは、蝉が耳を塞ぎたくなるほど鳴いた。


けれど日が落ちると、蝉はぴたりと鳴きやみ、夏の夜は嘘のように静まりかえる。


その静けさのなかでだけ、あの風鈴は、鳴るのだった。


ジークヴァルト様は、いつもそばにいた。


けれど、優しくされるほどに、胸の奥がちくりと痛んだ。


この人は、まだ知らないのだ。


わたしが、どんな罪で城を追われたのかを。


いつかそれを知ったとき、この温もりは、すべて消えてしまうのではないか。


そう思うと、こわかった。


   * * *


そんな日々のなかで、一度だけ、別の顔を見た。


昼下がり、庭を歩いていたときのことだ。


一騎の早馬が、館の門をくぐってきた。


泥にまみれた使者が、ジークヴァルト様に一通の書状を手渡す。


それに目を落とした瞬間、彼の横顔が、すっと温度を失った。


淡い青の瞳が、冬の湖のように凍てつく。


「……そうか。ご苦労だった」


低い声には、わたしの知らない硬さがあった。


噂に聞いた、冷徹な大公。逆らう者を切り捨てる、氷の人。


その面影が、たしかにそこにあった。


使者が下がると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。


そして、わたしと目が合った瞬間、その氷は嘘のように溶けた。


「すまない。待たせたな」


もう、いつもの優しい人だった。


「お仕事、ですか」


「ああ。片づけねばならないことが、少しな」


「片づける……」


「気にするな。君は、なにも知らなくていい」


その微笑みがあまりに穏やかで、わたしはそれ以上聞けなかった。


書状に、なんと書かれていたのか。


彼が、なにを「片づけて」いるのか。


――そのときのわたしは、想像すらしなかった。


   * * *


だから、ある夜、わたしは意を決して口を開いた。


「ジークヴァルト様。あの、聞いていただきたいことがあります」


「なんだ」


「わたしは、罪を得て城を追われた身です。令嬢を一人、階段から突き落とそうとした、と」


言いながら、指先が震えた。


「もちろん、身に覚えはありません。けれど、証人も証拠もあると言われて。世間は、わたしをそういう娘だと信じています」


「知っている」


ジークヴァルト様の声は、少しも揺れなかった。


わたしは、顔を上げた。


「……ご存じ、なのですか」


「ああ。君がなにをしたと言われているかも、誰が君を告発したかも、みな知っている」


「では、どうして。こんな娘を、屋敷に置いてくださるのですか」


彼は、わたしの手を両手で包んだ。


「言っただろう。おれには関係ない」


「関係、ない……」


「君が本当はなにもしていないと、おれは知っている。それでじゅうぶんだ」


その言葉に、目の奥がじわりと熱くなった。


誰も信じてくれなかった。


父も、殿下も、かつての友人たちも、みなわたしから離れていった。


なのに、出会ったばかりのこの人だけが、わたしを信じてくれる。


「……ありがとう、ございます」


声が、掠れた。


ジークヴァルト様は、わたしの頬を指の背でそっと拭った。


「泣くな。もう、君を泣かせるものは、この世にひとつも残さない」


奇妙な言い回しだった。


残さない、という言葉が、ほんの少しだけ耳に引っかかる。


けれど、そのときのわたしは、ただ救われた思いでいっぱいだった。


その小さな違和感を、胸の隅に押しやってしまった。


   * * *


翌日の夜も、テラスに出た。


夏の風はなく、空気は生あたたかく凪いでいる。


軒の風鈴は、みな静かに垂れていた。


紅茶を運んできてくれたのは、マレナという年かさの侍女だ。


初日にわたしを出迎えてくれた、あの人だった。


「マレナ。ひとつ、聞いてもいい?」


「なんでございましょう」


「わたし、ずっと気になっていることがあるの」


わたしは、膝の上で手を組んだ。


「わたしを陥れた娘がいるの。リーゼ、という名の子。……あの子は今、どうしているのかしら」


その名を口にした、瞬間だった。


ちりん、と。


軒の風鈴が、ひとつ、澄んだ音を立てた。


風は、なかった。


葉の一枚も動いていない。


わたしは、はっとして風鈴を見上げた。


昨夜と、同じだ。


誰も触れていないのに、そのひとつだけが、たしかに鳴った。


そして、もっと奇妙なことに。


紅茶を注いでいたマレナの手が、その音でぴたりと止まっていた。


「マレナ?」


「……ああ、いえ。失礼を、いたしました」


彼女は、そそくさと茶器を置いた。


けれど、その顔から血の気が、少し引いている。


「あの娘は――リーゼお嬢さまは。今ごろ、きっと……」


そこまで言って、マレナは口をつぐんだ。


まるで、言ってはならないことを言いかけてしまったかのように。


「今ごろ、なに?」


わたしが尋ねると、老侍女は深く頭を下げた。


「いいえ。なんでもございません。……どうか、お忘れくださいませ」


そして、逃げるようにテラスを去っていった。


残されたわたしは、鳴りやんだ風鈴をじっと見上げた。


風もないのに、鳴る風鈴。


その音のたびに、口をつぐむ人々。


――ねえ。この屋敷は、いったい、なにをわたしに隠しているの。


銀の花の飾りが、夜気のなかで、ひやりと冷たくなった気がした。


夏の夜が、静かに更けていく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


二話は、ひたすら甘い回――に見せかけて、少しずつ「歯車の音」を混ぜてみました。ジークヴァルト様の「泣かせるものは、ひとつも残さない」という台詞、書きながら少しだけ、背筋が寒くなりました。彼はきっと、本気で、そう思っているのです。


銀の髪飾りは、これから何度か出てきます。どうか、覚えておいてやってください。


マレナは、この屋敷でいちばん長く彼に仕えている人です。だから、いちばん知っています。彼女が最後まで言えなかった言葉を、あなたはもう半分くらい、想像できてしまったかもしれませんね。


セラフィーナは幸せです。これからも、ずっと。それだけは変わりません。


次話も、どうぞおつきあいくださいませ。

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