冷徹な大公閣下の、優しい嘘
朝は、蝉の声で目が覚めた。
窓の外では、もう、降るような蝉時雨が始まっている。
王城にいた頃は、こんな時間まで眠ることなど許されなかった。
けれど、この屋敷では誰もわたしを急かさない。
寝台のそばの椅子に、いつのまにかジークヴァルト様が座っていた。
「起こしてしまったか」
「いえ……あの、いつから、そこに」
「さあ。君の寝顔は、時を忘れさせる」
さらりと言われて、わたしは慌てて布団を引き上げた。
冷徹と恐れられる大公が、こんな顔で笑うなんて、誰が信じるだろう。
社交界で聞いた噂では、この人は感情を持たない氷の人だった。
逆らう者を眉ひとつ動かさず切り捨てる。そんな話ばかりが囁かれていた。
けれど、わたしの前にいる人は、まるで別人だ。
「顔色が、だいぶよくなったな」
ジークヴァルト様の指が、わたしの前髪をそっと払う。
「食べたいものはあるか。菓子でも果物でも、この屋敷にないものなら取り寄せる」
「そんな、もったいのうございます。わたし、いただくばかりで、なにもお返しができません」
「返すもの?」
彼は、少し不思議そうに首を傾げた。
「君がここにいる。それ以上のものが、この世にあるものか」
その言葉が本気なのだと、瞳を見ればわかってしまう。
だからこそ、わたしはいたたまれなくなった。
こんなに大切にされる理由が、ひとつも思い当たらなかったから。
* * *
その日の午後、ジークヴァルト様は、小さな箱を差し出した。
なかには、髪に挿す銀の飾りが収まっていた。
細工の花びらの一枚一枚に、淡い青の石が嵌まっている。
「わたしに、ですか」
「君の目の色に、合うと思った」
「こんな高価なもの、いただけません」
「いらぬなら、庭に捨てるだけだ」
そう言って、彼は本当に窓のほうへ歩き出そうとする。
わたしは、慌ててその袖を掴んだ。
「待ってください! ……いただきます。大切に、します」
「では、つけてやろう」
彼の指が、わたしの髪をすくう。
冷たいと噂される手は、驚くほど優しく、あたたかかった。
鏡のなかで、銀の花が、わたしの黒髪に咲いた。
「よく似合う」
耳もとで囁かれて、頬が熱くなる。
数日が、夢のように過ぎていった。
朝は庭を歩き、昼は書架の本を読み、夜はテラスで星を眺める。
昼のあいだは、蝉が耳を塞ぎたくなるほど鳴いた。
けれど日が落ちると、蝉はぴたりと鳴きやみ、夏の夜は嘘のように静まりかえる。
その静けさのなかでだけ、あの風鈴は、鳴るのだった。
ジークヴァルト様は、いつもそばにいた。
けれど、優しくされるほどに、胸の奥がちくりと痛んだ。
この人は、まだ知らないのだ。
わたしが、どんな罪で城を追われたのかを。
いつかそれを知ったとき、この温もりは、すべて消えてしまうのではないか。
そう思うと、こわかった。
* * *
そんな日々のなかで、一度だけ、別の顔を見た。
昼下がり、庭を歩いていたときのことだ。
一騎の早馬が、館の門をくぐってきた。
泥にまみれた使者が、ジークヴァルト様に一通の書状を手渡す。
それに目を落とした瞬間、彼の横顔が、すっと温度を失った。
淡い青の瞳が、冬の湖のように凍てつく。
「……そうか。ご苦労だった」
低い声には、わたしの知らない硬さがあった。
噂に聞いた、冷徹な大公。逆らう者を切り捨てる、氷の人。
その面影が、たしかにそこにあった。
使者が下がると、彼はゆっくりとこちらを振り返る。
そして、わたしと目が合った瞬間、その氷は嘘のように溶けた。
「すまない。待たせたな」
もう、いつもの優しい人だった。
「お仕事、ですか」
「ああ。片づけねばならないことが、少しな」
「片づける……」
「気にするな。君は、なにも知らなくていい」
その微笑みがあまりに穏やかで、わたしはそれ以上聞けなかった。
書状に、なんと書かれていたのか。
彼が、なにを「片づけて」いるのか。
――そのときのわたしは、想像すらしなかった。
* * *
だから、ある夜、わたしは意を決して口を開いた。
「ジークヴァルト様。あの、聞いていただきたいことがあります」
「なんだ」
「わたしは、罪を得て城を追われた身です。令嬢を一人、階段から突き落とそうとした、と」
言いながら、指先が震えた。
「もちろん、身に覚えはありません。けれど、証人も証拠もあると言われて。世間は、わたしをそういう娘だと信じています」
「知っている」
ジークヴァルト様の声は、少しも揺れなかった。
わたしは、顔を上げた。
「……ご存じ、なのですか」
「ああ。君がなにをしたと言われているかも、誰が君を告発したかも、みな知っている」
「では、どうして。こんな娘を、屋敷に置いてくださるのですか」
彼は、わたしの手を両手で包んだ。
「言っただろう。おれには関係ない」
「関係、ない……」
「君が本当はなにもしていないと、おれは知っている。それでじゅうぶんだ」
その言葉に、目の奥がじわりと熱くなった。
誰も信じてくれなかった。
父も、殿下も、かつての友人たちも、みなわたしから離れていった。
なのに、出会ったばかりのこの人だけが、わたしを信じてくれる。
「……ありがとう、ございます」
声が、掠れた。
ジークヴァルト様は、わたしの頬を指の背でそっと拭った。
「泣くな。もう、君を泣かせるものは、この世にひとつも残さない」
奇妙な言い回しだった。
残さない、という言葉が、ほんの少しだけ耳に引っかかる。
けれど、そのときのわたしは、ただ救われた思いでいっぱいだった。
その小さな違和感を、胸の隅に押しやってしまった。
* * *
翌日の夜も、テラスに出た。
夏の風はなく、空気は生あたたかく凪いでいる。
軒の風鈴は、みな静かに垂れていた。
紅茶を運んできてくれたのは、マレナという年かさの侍女だ。
初日にわたしを出迎えてくれた、あの人だった。
「マレナ。ひとつ、聞いてもいい?」
「なんでございましょう」
「わたし、ずっと気になっていることがあるの」
わたしは、膝の上で手を組んだ。
「わたしを陥れた娘がいるの。リーゼ、という名の子。……あの子は今、どうしているのかしら」
その名を口にした、瞬間だった。
ちりん、と。
軒の風鈴が、ひとつ、澄んだ音を立てた。
風は、なかった。
葉の一枚も動いていない。
わたしは、はっとして風鈴を見上げた。
昨夜と、同じだ。
誰も触れていないのに、そのひとつだけが、たしかに鳴った。
そして、もっと奇妙なことに。
紅茶を注いでいたマレナの手が、その音でぴたりと止まっていた。
「マレナ?」
「……ああ、いえ。失礼を、いたしました」
彼女は、そそくさと茶器を置いた。
けれど、その顔から血の気が、少し引いている。
「あの娘は――リーゼお嬢さまは。今ごろ、きっと……」
そこまで言って、マレナは口をつぐんだ。
まるで、言ってはならないことを言いかけてしまったかのように。
「今ごろ、なに?」
わたしが尋ねると、老侍女は深く頭を下げた。
「いいえ。なんでもございません。……どうか、お忘れくださいませ」
そして、逃げるようにテラスを去っていった。
残されたわたしは、鳴りやんだ風鈴をじっと見上げた。
風もないのに、鳴る風鈴。
その音のたびに、口をつぐむ人々。
――ねえ。この屋敷は、いったい、なにをわたしに隠しているの。
銀の花の飾りが、夜気のなかで、ひやりと冷たくなった気がした。
夏の夜が、静かに更けていく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
二話は、ひたすら甘い回――に見せかけて、少しずつ「歯車の音」を混ぜてみました。ジークヴァルト様の「泣かせるものは、ひとつも残さない」という台詞、書きながら少しだけ、背筋が寒くなりました。彼はきっと、本気で、そう思っているのです。
銀の髪飾りは、これから何度か出てきます。どうか、覚えておいてやってください。
マレナは、この屋敷でいちばん長く彼に仕えている人です。だから、いちばん知っています。彼女が最後まで言えなかった言葉を、あなたはもう半分くらい、想像できてしまったかもしれませんね。
セラフィーナは幸せです。これからも、ずっと。それだけは変わりません。
次話も、どうぞおつきあいくださいませ。




