嵐の夜に、拾われて
「セラフィーナ・アーデンフェルト。貴様との婚約を、破棄する」
真夏の夜会で、王太子殿下はそう言い放った。
大広間の楽の音が、ぴたりと止む。
数百の視線がいっせいにわたしへ向いたのが、肌でわかった。
真夏の広間は、燭台の火と人いきれで、むせ返るように暑い。
うなじを、汗が一筋、伝った。
「まあ……あのアーデンフェルトの姫が」
「では、あの噂は本当だったのね」
さざなみのように、ひそめ声が広間に広がっていく。
殿下の腕には、一人の令嬢が縋りついている。
いつも夜会の隅で、ひとりぼっちで立っていた娘だった。
わたしが手を引いて、輪のなかへ入れてやっていた。
その娘が、涙に濡れた目でわたしを指さす。
「わたくし、こわくて。セラフィーナ様は、いつも陰でわたくしを……」
「――待って。わたしが、あなたに、なにをしたというの」
「ほら、そうやって睨むの。いつも、そう」
娘の声が、震えて裏返る。
嘘だ、と叫びたかった。
けれど、その一言は、どうしても声にならなかった。
――あれは、まだ春の名残のある頃。
夜会の隅で、この娘はいつも、ひとりで壁ぎわに立っていた。
誰も、その手を取ろうとはしなかった。
「よろしければ、こちらへ。あちらのお菓子が、とても美味しいの」
わたしが声をかけると、娘は驚いたように顔を上げた。
「わたくしなど、ご一緒しては、ご迷惑では」
「そんなこと。あなたが隅にいると、こちらまでさびしくなってしまうもの」
あのとき、はにかんで笑った顔を、わたしは今でも覚えている。
その同じ顔が、いま、殿下の腕のなかで、わたしを罪人だと指さしている。
――どうして、と問うことすら、もう、意味をなさなかった。
「殿下。どうか、お聞きください。わたしはこの娘を、庇っていたのです」
「見苦しいぞ、セラフィーナ」
殿下の声は、氷のように冷たかった。
「証人もいる。証拠の手紙もある。この期に及んで、まだ白を切るのか」
「その証人を、こちらへ。手紙を、わたしに検めさせてください」
「いらぬ」
たったひとことで、わたしの弁明は封じられた。
証人として引き出された使用人の顔に、わたしは見覚えがなかった。
証拠だと掲げられた手紙の筆跡も、わたしのものではなかった。
すべてが、あらかじめ用意されていた。
まるで、今夜この瞬間のために、誰かが半年もかけて、丁寧に舞台を組み上げていたかのように。
――もっとも、そんなことを思う余裕は、あのときのわたしにはなかったけれど。
「殿下、せめて調べを。証人を一人でも問い質せば、すぐに」
「もうよい。連れていけ」
殿下は、こちらを見もせずに手を振った。
その手が、次には隣の娘の髪を、そっと撫でている。
わたしを断罪する声よりも、その仕草のほうが、ずっと優しかった。
ああ、と、わたしは胸のうちで思う。
この城のどこにも、もう、わたしの居場所はないのだ、と。
* * *
その夜のうちに、わたしは薄いドレス一枚で、城の裏門から追い立てられた。
真夏だというのに、風は刃のように冷たかった。
遠くの空で、雷が低く唸っている。
嵐が近づいていた。
行く当てなど、あろうはずもない。
アーデンフェルトの家は、殿下の不興を買った娘を、二度と迎えはしないだろう。
わたしは街道の端に蹲り、膝を抱えた。
やがて、大粒の雨が落ちてきた。
一滴、二滴と数えるまもなく、雨は驟雨に変わってわたしを叩いた。
髪もドレスも、みるみる重くなっていく。
雷が光るたび、白く照らし出される街道には、人の影ひとつなかった。
――このまま、朝が来る前に、消えてしまうのかもしれない。
そう思うと、不思議なことに涙は止まっていた。
もう、誰にも「要らない」と言われずに済むのなら。
それも、そう悪くはないのかもしれない、と。
そんなことをぼんやり考えていた、そのとき。
雨音のなかに、蹄の音が混じった。
顔を上げると、雷光の下に一台の馬車が停まっていた。
漆黒の車体に、見たこともない紋章。
その扉が、静かに開く。
降りてきたのは、背の高い男の人だった。
銀灰の髪が、雨に濡れて額に張りついている。
冬の湖のように淡い、青の瞳。
その人は、傘もささずに、まっすぐわたしの前まで歩いてきた。
そして、雨に濡れそぼつわたしを見下ろして――ふ、と目もとを緩めた。
「――ようやく、迎えに来られた」
低く、穏やかな声だった。
わたしは、幻を見ているのだと思った。
「あの……わたしを、ご存じなのですか」
「ああ。よく知っているよ」
「けれど、わたしたち、お会いしたことは」
「あるさ。君が覚えていないだけだ」
男の人はそう言って、自分の外套を脱いだ。
そして、それを震えるわたしの肩に、そっとかけた。
雨の匂いに混じって、乾いた布のあたたかな匂いがした。
「立てるか。……いや、いい。無理をするな」
言うが早いか、その人はわたしの背と膝の下に腕を回し、軽々と抱き上げてしまった。
「あの、待ってください。わたし、濡れて……お召し物が」
「濡れてかまわない。おれのものは、みんな、そのためにある」
「そのため、とは」
「君を、あたためるためだ」
理屈になっていない言葉を、その人はまるで当たり前のことのように言った。
抱き上げられたまま、わたしは馬車へと運ばれる。
雷が、また遠くで鳴った。
その音が、なぜか、これまでよりずっと遠くに聞こえた。
「あなたは、どなたなのですか」
わたしが尋ねると、その人は前を見たまま静かに答えた。
「ジークヴァルト・ヴェルンハルト。大公位を預かっている」
大公。
その名を、わたしは知っていた。
王家に次ぐ権勢を持ちながら、社交界には決して姿を見せず、冷徹と恐れられる――噂だけの人だ。
その噂の人が、いま、わたしを抱いている。
「どうして、こんなわたしを、お助けに」
「こんな、とは言うな」
ジークヴァルト様は、そこで初めてわたしを見下ろした。
淡い青の瞳の奥に、名前のつけられない光がちらついた気がした。
「君を、あんなところに置いていく道理が、どこにある」
その声があまりに静かで、あまりに確信に満ちていたので。
わたしは、それ以上なにも言えなくなってしまった。
「どちらへ、向かうのですか」
「おれの屋敷だ。夏のあいだは、誰も来ない」
「誰も、来ない……」
「ああ。君のほかは、な」
その答えが優しいのか、さびしいのか。
わたしには、まだわからなかった。
「眠っていい。着く頃には、雨もあがる」
言われて初めて、瞼が鉛のように重いことに気づいた。
わたしは、抗うすべもなく、目を閉じた。
* * *
馬車に揺られて、どれほど経った頃だろう。
雨脚が弱まり、雷の音が遠ざかっていく。
窓の外に、明かりの灯る館の影が見えてきた。
夏の離宮、とでも呼ぶのだろうか。
白い石壁に蔦の這う、静かな屋敷だった。
馬車を降りると、使用人たちがいっせいに頭を垂れた。
まるで、わたしが来ることをずっと前から知っていたかのような、迷いのない出迎えだった。
「お帰りなさいませ、閣下。……そして、ようこそ、お嬢さま」
年かさの侍女が、深く腰を折る。
「お部屋の支度は、とうに整えてございます」
「とうに……? わたしが来ると、ご存じだったのですか」
「さあ。閣下が、そう仰せでしたから」
侍女はやわらかく微笑むだけで、それ以上は語らなかった。
とうに、という言葉が、少しだけ引っかかった。
けれど、疲れきったわたしは、それを問い返す気力もなかった。
温かい湯を使わせてもらい、乾いた寝間着に着替えると、ようやく人心地がついた。
不思議なことに、誂えられたそれは、寸分の狂いもなくわたしの背丈に合っていた。
袖を通しながら、鏡のなかの自分を見た。
昨日までは王太子の婚約者だった娘。
今日は罪人として城を追われた娘。
その娘がたった一晩で、見知らぬ大公の屋敷で寝間着を着ている。
まるで、この結末がはじめから決まっていたかのように。
用意された部屋には、わたしの好きな白い花が生けてあった。
書架には、幼い頃に読んだ物語までさりげなく並んでいる。
偶然と思うには、あまりに多くのものが揃いすぎていた。
けれど疲れきった頭は、その意味を深く追わなかった。
「こちらへ。夜風が気持ちのいい時分だ」
ジークヴァルト様に導かれて、わたしはテラスへ出た。
嵐は、すっかり去っていた。
洗われた夜空に、夏の星がいくつも滲んでいる。
けれど、雨が流し去ったはずの熱気は、もう夜気のなかへ戻りはじめていた。
真夏の夜は、生あたたかく肌にまとわりつく。
テラスの軒には、硝子の風鈴がいくつも吊るされていた。
淡い月の光を受けて、それらは静かに、揺れずに垂れている。
「きれいな風鈴ですね」
わたしが言うと、ジークヴァルト様は小さく頷いた。
「夏のあいだだけ、吊るしている。……もう、じきによく鳴るようになる」
「よく、鳴る。今夜は、こんなに凪いでいるのに」
「風のことは、わからないものだよ」
その言葉の意味を、わたしはうまく掴めなかった。
だって、風はなかったから。
嵐が去ったあとの夜は、嘘のように凪いでいた。
葉の一枚も、動かない。
――なのに。
ちりん、と。
軒の端で、風鈴がひとつ、澄んだ音を立てた。
わたしは、思わずそちらを見た。
風など、どこにも吹いていない。
ほかの風鈴は、みな揺れずに垂れたままだ。
ただ、そのひとつだけが、いま、たしかに鳴った。
「いま……風もないのに、鳴りました」
「ああ、鳴ったな」
「どうして」
「夏の夜には、こういうこともある」
ジークヴァルト様は、風鈴のほうを静かに見上げた。
その横顔に、月の光が淡く落ちている。
「気にすることは、なにもないよ。セラフィーナ」
初めて名を呼ばれて、わたしの胸が小さく跳ねた。
「わたしの名を」
「ずっと、呼びたかった」
さらり、と告げられたその一言に、頬が熱くなる。
けれど、それ以上に。
いま、誰も触れていない風鈴が、ひとつだけ鳴ったことのほうが。
なぜだか、ずっと、頭の隅に残った。
その夜、王城では――わたしを指さして泣いた、あの娘の名が、社交界の名簿から静かに消えたことを。
わたしは、まだ知らない。
ただ、軒の風鈴が、月明かりのなかで、もう一度だけ、ちりん、と鳴った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
蜜月 憂の、少しだけ長い物語です。ふだんは読み切りばかり書いているので、続きものは初めての挑戦になります。
冷たい人だと噂される大公さまが、雨のなかで「ようやく」と言う――その一言だけは、書きはじめる前から決めていました。彼が、いつから彼女を見ていたのか。それは、これから少しずつ、風鈴とともに明かされていきます。
セラフィーナは、これから、とても幸せになります。それだけは、お約束します。
……ただ、風もないのに鳴る風鈴が、なにを報せているのかは。どうか、彼女より少しだけ早く、あなたが気づいてしまいませんように。
次話も、どうか、おつきあいくださいませ。




