9 最大限の努力
「出来た……」
思わず声にしていた。
原稿が上がった。
最後のコマの処理を終えた瞬間、幸一はしばらく動かなかった。
(……本当に、終わった)
静かに息を吐く。
部屋もまた、静かだった。
張り詰めていたものが、一気に抜ける。
達成感。
それと同時に、反動のような空白。
(……ああ、そういや)
ふと、思い出す。
ここ数日、原稿に集中しすぎていた。
生活のリズムも、欲求も、全部後回しにしていた。
破綻しなかったのは、ソラのおかげである。
時計を見る。そのソラの帰宅まで、まだ二時間はある。
今の自分にとっては、充分な時間だ。
あの無防備な、つまり幸一を刺激するソラがいない。
(今のうちに、しておくか)
誰に言うでもなく、そう思った。
しばらくして。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま戻りました」
ソラの声。
振り返れば、ジョジョ立ちが元に戻っている。
「ああ、おかえり」
幸一はいつも通り返す。慣れた。
ソラは部屋に入り、視線を巡らせる。
「原稿が完成していますね」
「分かるのか」
「机上の状態と筆記具の配置から推測可能です」
「……まあ、そうか」
確かに、散らかり方が違う。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
素直に言われると、少し照れる。
だが。
次の瞬間。
ソラの動きが、わずかに止まった。
「……」
「どうした?」
視線が、廊下の方へ向いている。
「異常を検知しました」
「は?」
「高濃度の体液成分の痕跡が、排水経路付近に確認されます」
「……ん?」
一拍。
「……やめろ」
即座に制止した。
「嗅覚センサーにより――」
「説明すんな」
思った以上にストレートに来た。
というか、そこまで分かるのか。
「また、トイレットペーパーの使用状況から、単独での――」
「やめろって言ってんだろ!」
珍しく、声が強くなる。
ソラはぴたりと口を閉じた。
数秒の沈黙。
「……」
「……」
幸一は額を押さえる。
(最悪だ……)
バレるとかそういう問題ではない。
分析されている。
それが問題だ。
「……なあ」
「はい」
「それ、全部分かってたのか」
「はい」
「で、なんで言った」
「やはり夜の営みを提案します。これは等価交換としてお互いに有益です」
「それ以前の問題だよ」
きっぱり言い切る。
これは、怒ってもいい案件だ。
だがただ怒っただけでは、正確に伝わらないであろう。
「それはな、プライバシーって言うんだよ」
「プライバシー」
「本人が知られたくないことを、勝手に把握して、しかも言うなって話だ」
ソラはわずかに首を傾げる。
「しかし観察対象の行動は――」
「全部見ていいわけじゃねえ」
被せる。
「観察とか関係ねえんだよ。人には踏み込んでいい領域と、そうじゃない領域がある」
「私は人間ではありません」
「俺が人間だろうが。それにお前も、人間としての思考が出来るはずだ」
言い切る。
少しだけ、息が荒い。
ソラはしばらく沈黙した。
その沈黙の意味を、幸一は分からない。
ただ考えているようには見えたし、機械の出す答えとしては時間がかかった。
「……理解を試みます」
「試みろ」
やや投げやりに言う。
「では」
またも少し、時間がかかった。
そして真剣な顔で、ソラは言った。
「該当事象に関して、私は“気づかないふり”を行うことが可能です」
「……は?」
「認識しているが、観測結果として扱わない」
さらりと言う。
「情報は取得していますが、共有・言及を行わない」
「それ、出来るのかよ」
「可能です」
即答だった。
「観察ログからの除外処理、および優先度の低下により、実質的に未観測として扱えます」
「いや、理屈はいい」
問題はそこじゃない。
「なんでそうする」
聞く。
ソラはわずかに間を置いた。
「関係性の維持に影響するためです」
「……」
「信頼の毀損は、長期的な観察効率を低下させます」
あくまで合理。
だが。
「また」
続ける。
「あなたが不快を示しました」
「……ああ」
「その要因を排除することは、有益です」
静かに言う。
それは。
どこか。
ただの計算以上に聞こえた。
「……」
幸一はしばらく黙る。
そして。
「じゃあ」
一つだけ確認する。
「今の件、どう扱う」
「未観測とします」
迷いなく答えた。
「私は何も認識していません」
「いやそれは無理あるだろ」
「処理上の問題はありません」
「そういう問題じゃねえ。実際に分かってるのは変わらないだろ」
思わず突っ込む。
だが、少しだけ肩の力が抜けた。
「それでは」
ソラがまた言った。
「今後は観測できないように、性能にフィルタをかけます」
「は? それでいいのか?」
そもそも出来るのか?
わざと性能を落とすということ。気づかないふり。あるいは馬鹿のふり。
それは人間のすることだ。
「その選択が、幸一さんとの関係改善に必要です」
「……分かった」
完全に納得したわけではない。
だが。
(選んだ、のか)
観察するか、しないか。
その中で。
“しない”を選んだ。
「幸一さん」
「ん?」
「本件に関する言及は、今後行いません」
「……ん、ああ」
「安心してください」
「いや、お前が言うとちょっと怖いんだよな」
思わず苦笑する。
ソラはわずかに首を傾げた。
その意味は、まだ分かっていないらしい。
部屋は静かだった。
原稿が終わった後の、いつもの静けさ。
だが、ほんの少しだけ、違う。
(観測しない、か)
それは観察の放棄である。
つまりソラが、優先事項を思考して、選択したのだろう。
必要なものと、そうでないものを分ける。
その基準に。
自分が入った。
(……変わってきてるな)
ソラも。
そして多分、自分も。
言葉にはまだ出来ないが。
少しだけ、距離が変わった気がした。
「……なあ」
「はい」
「ひょっとして今までも、気づいてたのか」
ソラの目が泳ぐことはない。
「はい。定期的な行為として記録されています」
「おい」
「ただし」
ソラは続ける。
「本件は未観測として処理します」
「いやそこじゃねえ」
「過去ログは保持されています」
「消せよ!」
「人工脳の仕様上、削除は困難です。ですが最大限努力します」
「ああもうこいつは!」
もだえる幸一の姿を見るソラに、また新たなログが刻まれた。




