8 等価交換の要求
二日ぶりに部屋のドアを開けた。
重くなった頭と体は、それでも違和感に気づく。
最初に思ったのは、静かすぎる、だった。
普段のリモートとは違い、出張アシスタントの現場はいつも通り忙しかった。締め切り前の空気は張り詰めていて、気を抜く暇もない。
二日間ほとんど寝ていない状態で帰ってきた幸一にとって、その静けさはむしろ異質に感じられた。
「……ただいま」
返事はない。
ちゃぶ台の前に、ソラが座っていた。
背筋を伸ばし、微動だにせず、ただ一点を見ている。
(なんだこれ)
違和感がある。
普段の静けさとは違う、“止まっている”感じだ。
「おい」
声をかける。
反応はない。
寝ている様子でもない。呼吸はしているが、まばたきが極端に少ない。
いや、間隔が完全に一定であるのか?
「……何やってんだ?」
質問をしてことによって、やっと反応が返ってきた。
「おかえりなさい」
声音は普段と変わりなかった。
「いや……何してたんだよ」
「思考です」
「思考?」
「はい」
ソラはわずかに首を傾ける。
「外部接続を遮断し、内部演算を優先していました」
「……なんでまた」
「処理不能な事象が増加したためです」
幸一はバッグを下ろして、仕事道具を整理にかかる。
だがその動作だけで、わずかに息が上がった。
(……?)
妙に疲れるというか、体が重くなっている。
足取りも少し重い、と今更気づいた。
(あ~、眠さだけじゃねえのか、これ)
ちゃぶ台の前まで来て、腰を下ろす。
その瞬間。
体の内側から、じわりと熱が上がる感覚があった。
(ああ、やっぱりこれ……)
さっきまで寒かったはずなのに、今は逆に熱い。
額に手を当てるまでもない。
人間であれば経験的に分かる。
普通に生きていたら、誰でも経験することだ。
(……おいおい)
喉も妙に乾いているな、と気づいてしまった。
飲み込むと、軽く痛む。
視界が、わずかに揺れた。
「……あれ」
「幸一さん」
ソラが立ち上がった。
「体温が上昇しています」
「……分かるのか」
「顔色と発汗、動作の遅延から推測可能です」
距離が詰まる。
額に手が当てられた。
「高いですね」
その手が冷たくて気持ちいい。
「マジか……」
自覚した瞬間、だるさが一気に来る。
「風邪です」
「断定するなよ……」
「風邪症候群です」
正式名称であるが、幸一は知らなかった
「いや、言い換えればいいというものでもなくて……」
「看護を開始します。」
ソラはすぐに動いた。
台所へ向かい、水を用意する。タオル。体温計……はない。
ソラがもう一度額に手を当てる。
「38.4℃です」
「ああ、そういう性能もあるのね……」
そう返しながらも、体がさらに重くなっていくのを感じた。
数字を聞くと、途端に現実感が増すのだ。
「休んでください」
「うん、そうするわ」
有無を言わせない調子に、素直に従う幸一だった。
ベッドへ押し込まれる。
額に濡れたタオルが当てられると、少し意識がはっきりとする。
「水分を摂取してください」
「いつも済まないねえ」
「それは言わない約束でしょ」
妙に棒読みで、ネタに返してきた。
コップを受け取り、飲む。
「食事は消化に良いものを準備します」
「変に凝ったものは作らなくてもいいぞ。栄養入りゼリーとかで充分――」
「必要です」
きっぱりと言う。
(妙にちゃんとしてるな)
普段ならもっとズレていたはずだ。
合理性に寄りすぎるか、的外れか。
だが今は違う。
行動が、人間の看病に近い。
(思考パターンが人命最優先なのかな?)
ロボットならそれはありうる。
それでも。
「……なあ」
「はい」
「なんでそこまでやるんだ?」
ソラはわずかに間を置いた。
「観察対象の健康維持は重要です」
「それだけか?」
「とても重要です」
二度言った。
だが。
(……間があったな)
ほんのわずか。一瞬。
あるいは勘違いだったのかもしれないし、願望であったのかも。
「……そっか」
目を閉じる。
体が重い。
意識が沈む。
そのまま眠りに落ちた。
目が覚めると、部屋は暗くなっていた。
体は少し軽い。
「起きましたか」
すぐに声。
ちゃぶ台の横に、ソラが座っている。
「……ずっといたのか」
「はい」
「暇じゃなかった?」
「思考を継続していました」
「そうかよ」
起き上がると、少しふらつく。
すぐに支えられた。
「まだ安静が必要です」
「ありがとな」
自然に出た。
ソラが一瞬だけ動きを止める。
「……」
「どうした?」
「いえ」
すぐに戻る。
「回復傾向にあります」
「医者かよ」
「データに基づいています」
やっぱり少し違う。
だが。
(助かったのは事実だな)
まあ風邪程度で重症化するほど、極端ではなかったか。
あの現場で他に、誰かが風邪になったなら、ちょっと怖いことである。
幸一にもやらなければいけないことがある。
そのために少しでも早く、回復しなければいけなかった。
「借りが出来たな」
「早めの返済を希望します」
やはり無機質であった。
「え、そこ認めるのか」
「当然です」
まっすぐ言う。
「これは等価交換が成立する事案です」
「等価交換……」
どこかで変なものを見たのかと思ったが、幸一の本棚にはそれがある。
「私は看病を行いました」
「まあ、そうだな」
「対価を要求します」
予想通りだ。
「何だよ」
一拍。
なぜそこでわずかな間があったのだろう。
「あなたの話をしてください」
「……俺の?」
「はい」
視線が逸れない。
「あなたの思考、過去、価値観」
「重いな」
「さらに正確な観察に必要です」
いつもの理屈。
だが少し違って見える。
(二日間、離れてたからかな?)
あとは幸一が弱っているからか。
観察だけではない何かが、混ざっている。
少なくとも幸一はそう思った。
「次回で構いません」
「次回?」
「はい。体調回復後」
完全に予定に組み込まれている。
「……分かったよ」
ため息をつく。
「話せる範囲でな」
「了解しました」
ソラは小さく頷く。
それで満足らしい。
部屋は静かだった。
だが、最初に感じた静けさとは違う。
あれは停止だった。
今は違う。
(外部、か)
自分の生活に入り込んできた存在。
予測不能で、非合理で。
だが。
(維持されてるな)
体調も、生活も。
そして多分、創作も。
言葉にはまだ出来ないが。
少しだけ、人間の温度を感じた。




