10 再起動
原稿のデータの送信が終わった。
アルバイトの予定は入っていない。
畳に寝転がったまま、幸一は単行本を読んでいた。
ページはゆっくりとめくられる。やる気の欠片もない姿勢だが、目だけはきちんと文字を追っている。
「……これはインプットだ」
誰に言い訳するでもなく、ぽつりと呟く。
「はい。怠惰の正当化として、賢明な自己欺瞞です」
すぐ横から、辛辣で機械的な声が返ってくる。
「記録はするなよ?」
「おそらく72時間以内に消去されます」
「……上手い忘れ方だな」
ページをめくりながら、ため息を一つ。
原稿を出し終えた直後の、この独特の空白。何をしてもいいはずなのに、何もする気が起きない時間だ。
積読処理は悪くない。むしろ前向きな時間の使い方だ。
しばらく沈黙が続いたあと、ソラが口を開く。
「時間的な余裕があると判断しました」
「まあ少しならな」
「では、以前の約束を履行してください」
「……約束?」
「子供の頃の情報提供です」
「ああ」
幸一は本を顔の上に乗せた。インクと紙の匂いがわずかにする。
等価交換であり、約束である。
忘れかけていたが、破るつもりはない約束であった。
あぐらをかいて向き直る。
「……昔話か。面白くもないぞ」
「問題ありません。観察対象として必要です」
「観察対象ね」
少しだけ考えてから、幸一は本をしまって緑茶のペットボトルを確認。
長期戦を想定して、準備が完了した。
「で、どこから聞きたいんだよ。ガキの頃なんて、別に特別なことも――」
「なぜ創作を開始したのですか」
言葉を切るように、ソラが割り込む。
幸一は一瞬だけ黙った。
「……そっちか」
「はい。発端の特定を優先します」
天井を見上げる。白い。やけに白い。
「別に、大した理由じゃないぞ」
「許容範囲です」
「なんとなく描いてただけだ」
「不十分です」
「だろうな」
即答されて、苦笑する。
しばらく考える。だが、綺麗な答えは出てこない。
少なくとも論理的に、明快な答えなどは出来ない。
そんな理由はないからだ。
「……最初は、真似だな」
「模倣」
「そう。読んだ漫画のキャラとか、そのまま描いてた。構図もセリフも、ほぼ丸写し」
「創造ではありません」
「だから最初はな。誰だってそうだろ」
ただあれは、本当に模倣であったのか。
言いながら、少しずつ思い出していく。
「で、そのうちさ、なんかズレるんだよ」
「ズレ」
「このキャラ、こういうこと言わねえな、とか。この展開、つまらないな、とか」
「既存作品への違和感」
「そう。で、じゃあこうした方がいいんじゃないか、って勝手に変え始める」
そこで初めて、自分で考えた“何か”が混ざる。
「それが最初かもな。創作っぽいことをやり出したのは」
ソラはわずかに首を傾げた。
「改変行為が起点ですか」
「たぶんな」
「合理的ではありません。既存の最適解を維持すべきです」
「最適じゃねえって思ったんだよ。人間が作ったもんだぞ? 全員に対して最適なわけねえだろ」
即答する。
このあたりは自分でも、分析したことがある。
「その判断基準は」
「知らん」
「不明瞭です」
「だろうな」
自分でも笑うしかない。
「でも、なんか違うって思うんだよ。で、変える。で、ちょっとだけ良くなった気がする」
「主観的評価ですか」
「それしかないだろ」
ソラは一瞬だけ沈黙する。
「再現性がありません」
「まあな」
幸一は、しばらく何も言わなかった。
補完。
その言葉を頭の中で転がす。
足りないものを、勝手に埋める。
――昔も、そうだった。
ふと、思い出す。
ノートの端に描いた落書き。
好きだったキャラの顔が、どうしても似なくて。
何度も消して、結局、別の顔になった。
それでも。
その「似ていない何か」の方が、妙に気に入っていた。
「……ああ」
幸一は、ふっと息を吐いた。
「失敗することも、楽しんでたわ、確かに」
「失敗は成功の母ですね」
「エジソンも言ってたな」
「いえ、エジソンの言葉ではありません」
「マジで!?」
思わずスマホで検索する。
確かに違った。似たようなことは言っていたが。
「……なんだよそれ」
「誤情報の訂正は必要です」
「いや、そうじゃなくてさ」
幸一は、少しだけ考えてから。
「誰の言葉でもよくないか、これ」
「格言は内容ではなく発言者の影響力で成立します」
「そうか?」
「はい」
「そうかあ……」
スマホを放り出す。
「俺、ガキの頃そんなこと気にしてなかったぞ」
「詳細を要求します」
「ただ面白そうだから真似して、失敗して、またやってただけだ」
誰が言ったか。正しいかどうか。
そんなことはどうでもよかった。
「……ああ」
小さく、腑に落ちる。
「だからか」
「何を確認しましたか」
「今、余計なこと考えすぎてた」
「余計」
「正しいかどうか、とか」
少しだけ笑う。
「そんなの後でいいんだよな」
「正しさは結論を導くために必要です」
「普通なら、そうだろうな」
間を置く。
「でも、その状態の方が、作れてた」
ソラは数秒沈黙する。
「……記録します。創作時における認知負荷の低減――」
「いい」
即座に遮る。
「それも違う。言葉で正確さを追求しすぎると、逆に遠ざかる」
「では」
「もっと雑でいい」
言いながら、自分で納得する。
「間違っててもいいから、手を動かしてた頃に戻る」
タブレットを起動し、まずは単語を並べていく。
ネーム以前のプロットを、構築していくのだ。
「誤りを許容するのですか?」
「そう」
「失敗の蓄積から成功を生み出す」
「それも少し違うんだ」
わずかに笑みが浮かんだ。
さっきまで引っかかっていたものが、少しだけ軽くなる。
正確さは、後からでいい。
まずは――ズレたままで。
「幸一さん、成功はどこから生まれるのですか?」
「うん? それはな、失敗だと思っていたものが、実は成功だったりするんだよ」
「再現性が低いものですね」
「だから面白くて、貴重なんじゃねえかな。知らんけど」
「不確定要素が価値になるのですか」
「たぶんな」
幸一はタブレットに視線を落とした。
並べかけた単語。
バラバラで、まとまりもない。
以前なら、ここで止まっていた。
整えてから進もうとして、結局、動けなくなる。
「……まあいいか」
指が動く。
繋がっていないまま、次の行を書く。
辻褄も考えず、そのまま続ける。
「整合性が取れていません」
「後でやる」
「ひょっとすると、それがむしろ効率的なのですか?」
「分からんから、今やってる」
少しだけ間を置いて、ソラが言う。
「観察しますか」
「……いいけど、自分の頭で考えろ。マザーにつなぐと、正しくなりすぎる」
「それはつまらないのですか?」
「多分な」
ソラは沈黙する。
「観察を停止します」
「賢明な判断だ」
幸一は、視線を上げないまま答えた。
手だけが、止まらない。
笑みが自然と浮かぶ。
うまくいっている感覚はない。
むしろ雑で、ひどい。
それでも。
あの頃と同じで――やけに楽しい。
そこから先は、もう止まらなかった。




