痛み
視界が、暴力的な速度で反転した。ポチの絶叫と、体の中で、硬いものが砕けるような音。肺が潰れ、喉の奥から鉄の味がせり上がる。
「――っ、が、あ……っ!」
投げ出された僕の指先から、久世からもらった熱が、剥がれ落ちた。数メートル先。ポチが狂乱のまま、僕という荷物を捨てて森の闇へと消えていく。僕は、ただの「肉」として、冷たい地面に放置された。
◇
少し前――
久世が、巨大な化け物を斬り伏せるのを、僕はポチの背に乗って見ていた。
距離があった。安全な距離だと思った。
青い蔦を纏ったそれが、悲鳴のような音を立てて崩れ落ちる。
久世は血一つ浴びていない。
いつものように、正確で、冷静で、――完璧だった。
「……ほらな」
誰に言うでもなく、僕は小さく息を吐いた。
やっぱり久世は強い。僕の執事なのだから。
その瞬間だった。
ポチの体が、びくりと跳ねた。
耳が伏せられ、嘶きが漏れる。
手綱を引くより早く、地面が後ろへ流れた。
視界が揺れる。
制御が、効かない。
「ポチ!? 待て! 待てって――!」
蹄がアスファルトを叩く音が、狂ったように重なる。
風が顔を打つ。
久世の姿が、一瞬、遠ざかる。
――まずい。
そう思った時には、もう遅かった。
◇
最初はただ、全身の細胞が沸騰しているような、不快な熱だけが、意識を支配していた。
痛みは、あとから追ってきた。
背中。腕。脚。
どこが、どれだけ壊れているのか、分からない。
その時だった。
視界の中に、異物が咲いた。
青い。
瞬きが、できない。
青色が、広がっていく。
「……なに、これ……」
左の目の奥が、凍るように痛い。
頭の内側から、針で掻き回されてるみたいだ。
視界の中心で、花が開いた。
花弁が、脈打つ。
視界と一緒に、呼吸しているように。
理解した瞬間、悲鳴が出た。
声にならない、喉の奥だけの悲鳴。
「――――っ!!」
涙が流れる。
でも、花は揺れるだけで、消えない。
むしろ、僕が流した涙を吸ったのか、より鮮やかに発光し始めた。
その向こうで、久世が僕の方に振り返った。
僕を見つけた瞬間、あの男の顔が、初めて、崩れた。
「……怜央、様!」
駆けてくる。
迷いなく。
必死に。
その姿を見て、胸の奥で、何かが、ぐちゃりと音を立てた。
――来るな。
そう思ったのに、口から出たのは、違う感情だった。
「……っ、来るな……!」
声が震える。
怒りか、恐怖か、自分でも分からない。
「お前が……!」
視界が滲む。
青い花の向こうで、久世が駆け寄る。
鼻腔を突く、あの品のいい金属の香り。さっきまで安らぎだったそれが、今は僕を異形へと作り変えた元凶の匂いにしか思えない。
お前が、僕を――こんな風にしたんだ。
痛い。痛い。痛い。もういやだ。
痛みで、思考が途切れる。
世界が、青く侵されていく。
僕は、青い光を放ちながら、人の形を捨てていく自分の右腕を、左手で呪うように掴んだ。




