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異世界の言葉が壊れている ~女子高生ミサは、失われた世界の常識を取り戻す~  作者: 伝説の男前


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記録室の沈黙

# 第十四話 記録室の沈黙


朝。王宮東翼の部屋。


ミサは机に座っている。羊皮紙が三枚、並んでいる。一番上の一枚には、昨夜書き留めた三行がある。


『治す=傷が消える(本来)/時間がかかる(現在)』

『加護=誰かの選択(本来)/推薦と寄付(現在)』

『魔法=コスト以上の何か(未確認)』


三行目の「何か」が、まだ埋まっていない。筆先で凹みをつけた痕跡だけが、羊皮紙の表面に残っている。


ミサはインク壺を開け、指先で固まりかけたインクを溶かす。筆に含ませる。窓の外では、塔の青白い光が規則正しく明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍。七拍。八拍。


止まる気配はない。けれど、四拍目が少しだけ遅い。羊皮紙に書けば、消えない。


ミサは目を離した。


ドアがノックされた。三回。一定の間隔で。


「どうぞ」


扉が開いた。一人ではなかった。二人の護衛——昨日と同じ顔——と、その中央に、エレノア・アルヴェイン。


灰色の外套を纏っている。表情は変わらない。けれど、昨日より少しだけ、目の下の影が深い。肩の落つ方が、昨日とは違う。


「記録室に、行ける」


声は落ち着いている。断定だ。「調べさせてほしい」ではなく、「行ける」。許可が出たことを伝える言葉。


ミサは鞄——羊皮紙の束と筆とインク壺——を抱えて立った。


「……ありがとう」


エレノアは何も言わなかった。うなずいただけ。護衛が先導する。ミサはエレノアの半歩後ろに立った。石畳の廊下を、一定の間隔で歩く。足音が、壁に返ってくる。


窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍。七拍。八拍。規則正しい。けれど、四拍目が少しだけ遅い。いつもと違う。あるいは、気のせいだ。


気のせいではない。羊皮紙に書けば、消えない。


*


神殿の外観は、王宮とは違った。


石造りの壁が、より厚く、より古い。苔が隙間に詰まっている。門柱の石には、風化で文字が削られている——あるいは、最初から磨り落とされたのか、見分けがつかない。ミサは「神殿」という言葉の意味を、今まさに目の前で確認している。異世界小説では、神殿は「奇跡が起きる場所」だった。ここでは、記録が保管される場所らしい。


門を通り抜けた先、中庭の石畳に足音が響く。護衛が左右に開いた。エレノアが先へ出た。ミサはその後ろを歩く。


記録室の扉は、想像より小さい。木製で、鉄の蝶番が二つ。ノックする前に、内側から開かれた。


「許可書は」


声は低い。四十代くらいの女性。銀髪を一つに結い、顔には疲れた影がある。着ているのは無地の白と灰の長衣で、胸元に紋章はない。手には燭台——灯っていない——を持つ。


エレノアが王女の印を押した文書を見せた。神官はそれを読み、短くうなずいた。


「加護関連、この十年分。それ以外は、お読みにならないでください」


声に感情はない。怒りでもない。習慣だ。繰り返してきた説明の自動性。


ミサはうなずき、中へ入った。


記録室は、想像より狭く、暗い。窓が一つしかなく、午後の光が斜めに差し込んでくるだけだ。長い机の上に、羊皮紙の巻物が三列に並んでいる。神官の机には燭台が一つ——灯っていない——と、インク壺と筆。


ミサは鞄から自分の羊皮紙と筆を取り出した。神官は一瞥し、何も言わなかった。


十年分の登記簿を開く。


三つの列。左:受給者の名と家系。中央:推薦状の格式——貴族名、神官名、寄付額。右:受給日。


ミサは一行、一行と読み進める。


金持ちが先。人脈がある者が先。同じ病で倒れても、推薦状がない者は三か月待った記録がある。「待たされた」のではない。「届かなかった」。その表現の違いが、羊皮紙の上で重く沈む。


ミサは筆を走らせた。小さく、しかしはっきりと。


「殿下」ミサは言った。「これ、全部、同じ言葉を使ってますよね。『加護を受給する』」


神官が冷たく返した。


「はい。加護は神の意志です。記録は、その意志が誰に届いたかを示すものです」


ミサは筆を止めた。


「意志が、届いた、か」


一拍。


「じゃあ届かなかった人は——」


神官の目が細くなる。怒りではない。確認だ。繰り返してきた説明の次に来る、定型句。


「届かなかった人は、届かなかったのです」


沈黙が落ちた。窓から差し込む斜光が、巻物の縁を白く浮かべているだけだ。ミサは筆を握ったまま、指先が少しだけ力を込める。インクの先端が、羊皮紙に一滴も落とさない程度に、震えている。


神官はもう一度巻物を開いた。古い年代の記録——百年以上前。


ミサは次のページをめくった。


そこには、推薦状の列がない。寄付額の列もない。三つの列が、二つに減っている。いや、一つに。ただ、一行。


『祈りを捧げ、加護を得る』


それだけ。


ミサの声が少し震える。


「百年前は、祈るだけで——」


神官が巻物を閉じた。指先で縁をなぞり、平らに置いた。


「そのページは、火事で損傷しました。残りは、先ほどお見せした通りです」


声は変わらない。怒りではない。習慣だ。繰り返してきた説明の自動性。けれど、巻物を閉じる動作が——ほんの一瞬だけ——速かった。


ミサは「火事」という言葉を舌の上で転がす。


火事。火による事故。火が広がって建物が焼けること。この世界でも、同じ意味で使われているのか。確認しようとした。口を開きかけた。


「あの——」


声が、止まる。記録室の空気はそれを許さない。神官の机の上の燭台。灯っていない。けれど、灯せるものがある場所だ。火が来る場所だ。「火事」という言葉を、ここで確認することは——


ミサは口を閉じた。


*


記録室を出たとき、王都の街で煙が上がっていた。


遠い。塔の方向ではない。南東。住宅街の方角。薄く、白い。台所の煙突から漏れたものかもしれない。あるいは、違う何か。


ミサは立ち止まった。


「……今の」


護衛が答えた。二拍遅れて。


「南東の住宅街。台所の火が移ったらしい」


ミサは振り返った。記録室の扉。木製。鉄の蝶番。今から二、三分前に閉められたものだ。神官の声がまだ耳に残っている。「そのページは、火事で損傷しました」。


火事。


火事。


この世界で「火事」は本当に、火が原因の事故を意味しているのか。それとも、別の何かの——


ミサは言葉を探した。見つけられなかった。舌の上で転がしても、形にならない。「火事」という語の定義を確認するには、誰かに聞く必要がある。けれど、ここにいるのは護衛と王女だ。神殿の神官に「あなたの言う『火事』とは何ですか」と聞くことは——


塔の光が、規則正しく明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍。七拍。八拍。


ミサは視線を街から外した。煙はもう見えない。あるいは、消えたのではなく、ただ遠いだけだ。


「……分かった」エレノアが言った。「戻ろう」


声に感情はない。けれど、「戻ろう」という言葉の重さが、昨日と少し違う。ミサはうなずき、足を出した。


*


通りすがりに、バルトがいた。


王宮への帰路の途中、石畳の道の角で、宮廷書記官が羊皮紙の束を抱えて立っていた。眼鏡の奥の目が、一瞬だけミサと交差する。


「……異国の娘」バルトは言った。「報告書を持参した。停電の第三例を確認した。先月も三か所、今月も三か所。累計六か所だ」


声に感情はない。事実を列挙しているだけだ。けれど、「累計六か所」という数字が、羊皮紙の上で重く沈む。ミサはうなずいた。バルトはさらに何も言わず、別の方向へ歩いていった。足音が、一定の間隔で遠ざかる。


ミサは塔の方を見た。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。けれど、四拍目が半拍だけ遅い。消えない。羊皮紙に書けば、消えない。


残り、四日。


*


夜。王宮東翼の部屋。


ミサは机に向かっている。烛台——今日は灯っている——の光が、羊皮紙の上を淡く照らしている。三行がある。『治す』、『加護』、『魔法』。三行目の「何か」が、まだ埋まっていない。


ミサは筆を執った。インクを含ませる。指先が少し震える。三行の横に——いや、四行目に——書き始めた。


『加護=祈りで与えられる(百年前)/推薦と寄付(現在)——その間の百余年の記録が「火事」で消失』


筆を置いた。


窓の外では、塔の光が明滅している。規則正しい。けれど四拍目が、半拍だけ遅い。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍。七拍。八拍。止まる気配はない。


ミサは枕元のスマートフォンを握った。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。けれど今夜は、光を帯びていない。ただの点。影かもしれない。石畳の部屋の暗がりに紛れた、ただの微かな凹凸。


ミサはそれを指先でなぞった。触れると、ただの黒い点のままだった。昨日のように、微かに光を帯びる気配もない。周期があるのか、まだ未知数だ。


目を閉じた。


(……まだ、違う)


呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。


(何が、違う。言葉が、違う。それだけなら、まだ、説明がつく。「加護」の意味が変わった。「治す」の意味が変わった。魔法のコストが変わった。全部、言葉の問題だ。説明できる)


指先が、羊皮紙の縁をなぞる。ざらついた感触。インクの匂い。烛台の火が、静かに揺れている。


(説明が、つかない何かが、まだ、見える)


何が? 言葉の意味が変わったことではない。意味が変わったこと自体は、説明がつく。誰かが変えた。いつか変えた。その「誰」も「いつ」も分からないけれど、構造としては理解できる。


けれど、記録が「火事」で消えていること。百年間の記録が、一言で閉じられていること。確認しようとして、空気がそれを許さなかったこと。


それらは、説明がつかない。


ミサは羊皮紙を閉じた。四行が並んでいる。指先で縁をなぞる。一度、二度、三度。


扉の外で、足音がした。エレノアの足音だ。廊下の石畳を、一定の間隔で。一拍。二拍。三拍。四拍——遅い。消える。


ミサは目を閉じたまま、スマートフォンを掌に載せた。冷たい。黒い点が、ただの点のまま。


窓の外では、塔の光が明滅している。規則正しい。けれど、四拍目が少しだけ遅い。いつもと違う。


あるいは、気のせいだ。


羊皮紙に書けば、消えない。

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