滞在の理由
# 第十三話 滞在の理由
朝の光が、まだ青い。
王宮東翼の廊下を歩く足音が、石畳に規則正しく響く。ミサは護衛の騎士二人に挟まれながら、前方の扉を目指している。その先で待たされているのは、王国評議会の臨時審問だ。
「……異国の者」
左側の騎士が、小声で言った。名前は聞いていない。声だけだと、バルトと区別がつかない。淡々としている。感情の色がない。
「何か、失礼なことを言いましたか」ミサは尋ねた。
「いいえ」騎士は答えた。「ただ、確認です。審問では、殿下の保護対象としてお名前をお尋ねになります。正式名称で」
「……ミサ・カーター」
「……そのままでよろしいですか」
「うん」
騎士は何も言わなかった。けれど、その沈黙の中に、何かがある。異世界の人間が、この名前に意味を見出せない。それだけのことだ。けれど、それだけで十分だった。
扉の前に着くと、もう一人の騎士が手を伸ばした。扉が開く。
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審問の間は、想像より狭かった。長い机が一つ。向こう側に五人。こちら側にミサと、その背後にエレノア。
評議会の長——灰色の髪を後ろで束めた老女——が、最初に口を開いた。
「異国の者、ミサ・カーター」
名を呼ばれるたびに、胸の奥が少しだけ縮む。自分の名前なのに、この世界では誰にも届かない音だ。
「王国暦四百二年、春第一日、王都セレスティア西方の街道にて発見された」老女は続けた。「異世界人であることは、宮廷医と神殿の両者が確認している。質問はあるが、まずは一つ聞かせてほしい」
一拍。
「なぜ、我々の世界に来たのか」
ミサは答えた。
「……分かりません」
正直だった。本当に分からない。昨日も今朝も、答えは同じだ。スマートフォンに映った記号の意味を「知ったつもり」で理解した——それが正しいのかどうかも、自分では判断できない。
評議会の一人が呟いた。「神殿の記録には、異世界人の来訪に関する前例がない」
「ないですね」老女はうなずいた。「つまり、対応の基準がない。我々は、基準なくして人を扱えない」
ミサの背後で、エレノアの指先が机の縁に触れていた。冷たい石の上で、その指が一度だけ動いた。
「殿下」老女が向けた。「この者の滞在について、貴殿はどのような立場を取られるのか」
エレノアは答えた。声は落ち着いている。けれど、ミサには分かる。あの声を維持するために、王女がどれだけの重さを持っているか。
「保護者としてです」
一拍。
「我々の世界の制度では、異世界人という分類が存在しません」老女は続けた。「つまり、滞在の根拠が——」
「あります」エレノアが割り込んだ。声に、普段ない硬さがある。「王国法第四十二節。発見された者の一時保護と調査。私は王族として、その責任を引き受けます」
評議会の五人が、一斉に静かになった。
老女は長く目を閉じた。それから、開いた。
「……期限は」
「一週間です」エレノアは答えた。「先日の審問で決定された通り。春第八日までに、この者の帰還手段を確認するか、あるいは——」
「退去させる」老女が完成させた。
退去。
ミサの胃の奥が、少しだけ重くなった。
「ただし」エレノアは続けた。「その間に、この者が我々の世界に害を及ぼす兆候が見られた場合、即時——」
「即時退去」また老女が完成させた。
評議会は散会した。五人の足音が廊下へ消えていく。机の上に、羊皮紙の一枚だけが残されている。ミサの名前と、日付。それから、「異世界人」という三文字。
ミサはそれを見た。そして、何も言わずにエレノアの隣で立ち尽くしていた。
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評議会の間を出ると、廊下が長かった。石壁が両側に続き、天井の白樺板が遠くまで続いている。窓から差し込む光が、床の上に細い帯を作っている。
ミサは歩いた。エレノアも歩いた。二人の間隔は、常に一拍分だけ空いていた。
「……殿下」ミサが言った。「退去、って」
「うん」
「……春第八日」
「うん」
沈黙が、数秒続いた。足音だけが廊下に響く。石の冷たさが、靴底から伝わってくる。
「私はね」ミサは歩きながら言った。「この世界が——おかしいって、思ってる」
エレノアは足を止めた。ミサも止まった。王女は振り返り、正面から見つめていた。表情は変わらない。けれど、瞳の奥に何かがある。探しているのだ。答えを。昨日の「だが」の続きを。
「おかしい」エレノアが繰り返した。「具体的には?」
「全部」ミサは言った。少しだけ声が大きくなる。「魔法があるのに馬車が走ってる。加護があるのに老人が三時間待ってる。治癒があるのにポーションが補助的だ。塔の光が——」
窓の外を見た。雷鳴の塔。青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。
「……一拍、遅いんだ」ミサは続けた。「四拍目。いつもと違う。気のせいかもしれない。でも、羊皮紙に書けば消えない」
エレノアは何も言わなかった。塔の光を見ていた。一拍。二拍。三拍——四拍。
確かに、少しだけ遅い。半拍。けれど、確かに。
「……分かっている」エレノアが言った。声は低かった。「我々も、知っている」
ミサは息を呑んだ。
「雷鳴の塔の魔力供給は、先月三か所で停電があった。その原因は、未だに特定されていない」王女は続けた。「魔法学院の報告書には『回路の整合性欠如』とだけ書いてある。けれど、回路が何と整合しないのか、誰にも説明できない」
「……つまり」
「つまり」エレノアはミサを見た。「我々も、同じことを思っている。この世界の仕組みが——どこかで、本来のものから離れている、と」
廊下の窓の外では、塔の光が明滅を続けている。規則正しい。けれど、四拍目が半拍だけ遅い。心拍のように。止まる気配はない。
ミサは鞄——いや、この世界では羊皮紙の束——から筆を取り出した。インク壺を開ける。指先で固まったインクを溶かす。
「殿下」ミサは言った。「退去させられる前に、一つだけ調べさせてほしい」
「何を?」
「『加護』の意味」ミサは羊皮紙に書き始めた。「神殿で祈願する。推薦状がある者が優先される。寄付を積んだ者も——。つまり、人脈とお金。異世界じゃなくても、現実でも、『加護』は、誰かが先に手を差し伸べてくれることだよね? 神の恩寵じゃなくて、誰かの選択」
エレノアは何も言わなかった。けれど、ミサが書きながら続ける間、その瞳から目を離さなかった。
「つまり」ミサは筆を止めた。「『加護』の意味が、本来と違うんじゃないかって、思うんだ」
一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。
「……調べてほしい」エレノアが言った。声に、普段ない重さがある。「だが、神殿は我々とは別の権限を持つ。調べたいだけではない。調べさせることが——」
「分かってる」ミサはうなずいた。「だから殿下に頼んでる。退去の期限があるなら、その中で何ができるかを教えてほしい」
エレノアは長く目を閉じた。窓の外では、塔の光が明滅している。心拍のように。けれど、四拍目が半拍だけ遅い。
「……明日、神殿の記録室に行けるように手配する」王女は言った。「ただし、一人で行くのではない。護衛を付ける」
「うん」
「そして」エレノアが続けた。「ミサ」
「はい?」
「お前の言う『おかしい』は、我々にとっては『当たり前』だ」王女の声は、少しだけ柔らかくなった。「それを疑うことは、この世界に生まれた者全員を——」
「否定してるんじゃない」ミサは即答した。声に、先ほどの硬さがない。「ただ、本来ならそうじゃないはずのことが、なってる。それだけ」
沈黙が落ちた。
廊下の窓の外では、塔の光が明滅している。規則正しい間隔で。心拍のように。けれど——四拍目。半拍の遅れ。確かに。消えない。羊皮紙に書けば、消えない。
ミサは筆を置き、羊皮紙を閉じた。三行が並んでいる。
*治す=傷が消える(本来)/時間がかかる(現在)*
*加護=誰かの選択(本来)/推薦と寄付(現在)*
*魔法=コスト以上の何か(未確認)*
三行目の「何か」が、まだ埋まっていない。筆先で凹みをつけた痕跡だけが、羊皮紙の表面に残っている。
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夜になった。
王宮東翼の部屋は、また暗い。窓の外では、王都の灯りが数百点光っている。馬車の音。誰かの笑い声。遠くで鐘が鳴る。塔の青白い光が、規則正しく明滅している。心拍のように。
ミサは枕元にスマートフォンを置いた。冷たい。電源ボタンを押す。反応しない。もう一度。しない。画面の隅——左下、フレームとガラスの境目——に、小さな黒い点がある。昨日からあるものだ。けれど今、暗い部屋の中で見ていると、その点が微かに光を帯びている気がする。
指先で触れた。ただの黒い点に戻った。
「……まだ、違う」
呟いた。声は、自分でも驚くほど小さかった。
窓の外では、塔の光が明滅している。一拍。二拍。三拍——四拍。半拍の遅れ。五拍。六拍——七拍。八拍。規則正しい。けれど、四拍目が少しだけ遅い。いつもと違う。あるいは、気のせいだ。
けれど、羊皮紙に書けば、消えない。
ミサは目を閉じた。瞼の裏側で、塔の明滅が続いている。心拍のように。止まる気配はない。
(……春第八日)
五日後。退去か、帰還手段の確認か。そのどちらでもない第三の選択肢が、まだ見えていない。けれど——
「……おかしい」
目を閉じたまま、ミサは小さく言った。
「この世界は、本来ならそうじゃないはずなんだ」
窓の外では、塔の光が明滅している。規則正しく。心拍のように。四拍目が、半拍だけ遅い。確かに。消えない。
明日、神殿の記録室へ行く。加護の意味を調べる。祈願の手順を見る。推薦状と寄付——その「仕組み」が、本来何だったのか。
まだ、分からない。まだ、「思います」の段階だ。確証はない。けれど、昨日までの「たぶん一致してる。多分」からは、もう戻れない。
塔の光が、明滅する。心拍のように。止まる気配はない。
ミサは目を閉じたまま、小さく呟いた。
「……まだ、違う」




