世界現身鏡
その書物には「死の地」という章が存在していた。
私はページを捲る手を止めて大きく目を見開いた。古茶けた紙の上で文字が魔力光を帯びて浮かび上がっていた。
『死の地には昔から人の姿をした世界樹がいた。類稀なる美貌の持ち主であるその女は、死の地の下に眠る物を封印していた』
どくん、と覚えず胸が脈打った。人の姿をした世界樹。
真っ先に思い浮かんだのはエイデンの顔。だが違う。彼はここに書かれている人物とは別人だ。
文字は紙面を離れて私の周りを躍り始める。
『そもそも人の姿をした世界樹がなぜ生まれたか、述べておくことにしよう。北に住まう樹守たちが教えてくれたところによれば、動かないはずの植物が動くようになったのは、強力な魔物に対抗する必要があったからだそうだ』
なぜエイデンが人の言葉を話し、人と同じように振舞うのかずっと疑問だった。
あれは彼の本当の姿だったんだ。
ずっと人に化けているだけだと思っていた。
私は今、何か知ってはいけないものを目の当たりにしている。そう、禁忌とも呼ばれるであろうことに。
でも、顔の横でぐるぐると踊っている文字を払いのけることはできなかった。
ちらり、と周囲の様子を窺って驚いた。
館内には誰もいなかった。向かいのテーブルで一緒に調べ物をしていたツバキたちまでもが忽然と姿を消していた。
やっと事態の異常さに気付き、席から立ち上がろうとした。しかし足に力が入らない。文字が離してくれない。
窓から見える陽の光は、紫だった。
『さて、美貌の世界樹が封印していたものはなんだろう。それは、太古の昔に絶滅したとされる強力な魔物たちだった』
風竜に、水唄蛇。覚えがある。奴らは、本来この時代にいるはずのない—―古代のものだった。
『何十年も魔物を抑えていたこの世界樹だが、ある時死の地を訪れた人間と恋に落ちた。そして、一人の子供をさずかった。翠色の髪をした、世界樹と人の合いの子である男の子だ』
ある五文字が眼前に迫ってきた。EIDEN。あぁ、やっぱり、と息を洩らした。
本に記されている世界樹というのは、エイデンのお母さんだ。
「それならエイデンのお母さんは……」
エイデンの言うところによると、帝国に存在が露見して連れていかれたはず。
となると今この地を守っているのは誰なのか。ぞくっ、と鳥肌が立つ。
まさか、エイデン?
『子供を産んだ後、美貌の世界樹は以前と比べて力が陰ったそうだ。彼女を診ていた樹守はある決断を下した』
樹守は世界樹専属の医師のようなもの。エイデンにはついていないようだけれど。
考え込んでいた私は次の節を目にして—―絶句した。
『魔物たちを抑えるために彼女を死の地の下に閉じ込めることにしたのだ』
ごーん、と遠くで鐘が鳴り響く音がした。瞬間目の前から文字がふっと消え、不気味な紫色の陽光が元の透明なものに戻る。
静寂から一転、耳を突いたのは人々の喋り声だった。
「巫女さん、大丈夫?なんかぼーっとしてるんよ」
心配そうに顔を覗き込んでくるのは、テーブルを挟んで向かいに座ったツバキ。その隣にはルティナもいる。
あの奇妙な空間を抜けられたんだ。私は靄のかかった頭を振り、笑みを取り繕った。
「ねぇ二人とも、この本読んだ?なんともなかった?無事?」
「ん?本が襲いかかってくるのか?それなら童がしばく」
「そういう意味じゃないんだけど……。そっか、何もなかったのね」
怪訝そうに顔を見合わせるツバキとルティナに安堵し、手元の書物に目を落とした。
表紙には世界現身鏡と、何の変哲もない文字で刻まれている。
さっき見たのと同じページを開くと、そこには死の地の死の字もなかった。
私は幻覚を見ていたのか。それにしては妙に現実味があった。
頭上で梯子から梯子へ身軽に飛び移っている小鬼に呼びかける。
「小鬼、この本剣の里から輸入してきたものー?」
「へー?さっきおすすめしたやつですか?違いますよ、巫女さんが倭村でもらった本の中にあったんじゃないんですかー?」
「へ?こんなのなかったわよ」
「え」
駆け付けてきた小鬼は私が抱えている書物を見てわなわなと震え出す。
「え、え?あれ?おいしい和食のつくりかたって本だったと思ったんですけど」
「何言ってるのよ小鬼?世界現身鏡って、貴方がおすすめしてくれたじゃない」
「……そんなことしましたっけ」
肝がすっと冷えた。小鬼も顔を真っ青にして口を開閉させている。
本がすり替わった。そして勧めた当の本人である小鬼の記憶がない。
つまり。
「き、きき禁書なんじゃない!?呪われてるのよッ!」
「巫女さん浄化できないんですか!?やばいですよこの書物!」
「浄化したら終末が来るんだってば!あ、見習いたちに祈祷を任せようかしら……!?」
「どうしたん、巫女さーん?」「この本がどうかしたのか?」
「いやっ、今すぐその本を離した方がいいわ!塩でお清めよ!」
あっという間に大わらわになる館内。
禁書が見つかったということでダークエルフたちは巨竜に遭遇した時のような悲鳴を上げて図書館から出ていった。
「ああっ、お客さんが!」
「今気にしてる場合!?くっ、この本重いわね!」
その時の私は気付いていなかった。
エイデンの姿が、どこにも見えないことに。




