Ex.【たとえ世界が空から落ちても】 弐
目の前に広がるのは、想像もしていなかった光景だった。広がる草原には花々が咲き誇り、風に揺れている。その先に、崖の切っ先に時計台のような建物が見えた。背後には、広がる大海原。波が穏やかに打ち寄せる音が遠くから響いてくる。
「うわぁ……」
「きれい……」
誰かが呟き、皆が息をのんだ。あまりにも美しい光景に、しばし言葉を失った。
胸元のペンダントが、淡く輝き始めていた。まるで、私に進めと囁くかのように。その輝きに導かれるように、私は慎重にその時計台へと歩み寄った。
石造りの巨大な扉の前に立った瞬間、胸の奥で鼓動が急激に高鳴るのを感じた。
ゆっくりと深く息を吸い込む。
そして、手を伸ばし、冷たい石の表面にそっと触れた。
扉を押し開けようとする、その瞬間。
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▷はい いいえ
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「……っ!」
突然、目の前にステータス画面が現れた。
――これは、何だ?
指先が震える。
「どうした?」
フェンの声が背後から聞こえる。
「――いえ、なんでも」
戻れない――いや、もう戻る道など残されていない。
進むしか……ないんだ。
震える手で、ゆっくりと扉に力を込める。重い石の扉が、微かな音を立てながら開いていく。
――なんでこの時、私は、ここで引き返さなかったんだろう。
もし、ここで引き返していれば。
あんなことにはならなかったのに。
すべては、始まらなかったのに。
……でも、それも無理か。
だって――ペンダントが、私を呼んでいたんだもの。
♢ ♢ ♢
ガゴン、という重い音と共に扉を押し開け、慎重に、ゆっくりと足を踏み入れた。
目の前に広がった光景は、目を見張るほどの美しさが広がっていた。まるで異世界にでも迷い込んだかのような――既に異世界にいるのでこの表現が適切であるかは怪しいところではあるが、まるでそんな――空間だった。
高い天井には荘厳なステンドグラスが光を受けて輝き、淡い青と紫、赤の光が室内に幻想的な模様を描いている。壁には精巧な彫刻や聖像が立ち並び、その神聖さが一層、場を静謐にしていた。
「すごい……」
誰かが呟いたが、その声はほとんど耳に届かなかった。
あまりにも場違いなその空間で、美しさの中に隠された異様な違和感が肌を刺すように伝わってくる。
「気をつけて……ここ、何かが……」
周囲を見渡しながら慎重に進む。その瞬間――
ゴゴゴ……
突然、部屋全体が揺れ始めた。床に刻まれた模様がかすかに光を帯び、次第に足元の装飾が震え始める。
「何だ!?」
思わず叫ぶと次の瞬間、足場が激しく揺れた。空気が異常に重たく、息をするのが苦しい。
緊張がピークに達した瞬間、突然――
ドガァン、と。耳をつんざくような轟音と共に、先ほどまで立っていた足場の一部が砕けるように崩れ始めた。床全体に巨大な亀裂が走り、瞬く間に周囲の足場が次々に崩れ落ちていく。
「やばい……!」
まるで部屋自体が崩壊していくかのようだ。崩れた床の下からは――そこには、狂気じみた何かが渦巻いている。
「あぶね!」
ミカが崩れる足場から咄嗟にジャンプし、なんとか無事に安全地帯に飛び移った。
崩落した周囲の深淵をのぞき込むと、崩れ落ちた破片が渦の中に飲み込まれ、瞬時に消滅していった。そこに落ちたら最後、絶対に戻ってこれない――そんなことは直感的に理解できた。
入口と、この部屋をつなぐ空間が完全に崩れ去った。
なんだこれは――。と、そう思った時だった。
背後に異様な気配を感じた。
振り向くと、向こう側に、『何か』がいた。
人影……いや、人の形をした何かが立っている。
影のように黒く、ゆらゆらと揺れ動く『それ』は全身に鎧をまとい、手には長い槍を握っている。そいつの動きは不気味なほどに緩慢で、まるで戦意など感じさせない。まるで、あれ自体が意識を持たない影そのもののように。
「敵……?」
「皆さん、できるだけ寄ってください。様子を見ます」
そう言ったエレシアの指が動き、私たちの周囲に透き通るような魔力のシールドが展開された。
鎧をまとった影の騎士が不気味なほどゆっくりと動き出し、その槍を構えた。
まるで空気が止まったかのように、時間の感覚が狂う。
影が、槍を投げた。
その瞬間だった。
バキィン――と。何か耳をつんざく音が鳴り響いた。
遅れて、凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
周囲にはキラキラと。何か光の欠片が舞っている。
「っ——ああっ!!」
エレシアの悲鳴が聞こえた。
気づいた時には——。
「嘘だろ……」
周囲のシールドが、ひび割れ砕け散っていた。
今まで、どんな敵に相対しても必ず私たちを守ってくれていた、彼女の防御が。たったの一撃で――粉々に無力化された。あまりにも一瞬の出来事に、その場に凍りつくしかなかった。
「ぐぅ……あぁぁぁぁ……」
呻くエレシアの左手すべての指が――おそらくそれはシールドが割れた衝撃か、ぐちゃぐちゃに折れ曲がっている。
「嘘だろ……」
ミカが青ざめた表情で呟く。いや、ミカだけじゃない。私たち全員が同じような感覚に包まれていた。
「来るぞ!」
フェンの叫び声が響く。
敵が先ほどまでの動きから一変して、一気にこちらへ距離を詰めてくる。足音さえ響かない。手に握った漆黒の槍は、一振りで時空さえ切り裂きそうなほど得体の知れない何かを感じる。
「くそ……!」
ミカが先に動いた。ハンマーを構え、雄叫びを上げながら騎士に突進する。彼女の一撃ならば、受け止めるのも容易ではないはずだ。だが――
ガァン!
ハンマーが鎧に触れる瞬間、影の騎士は槍をわずかに動かしただけで、その一撃を軽々と受け止めた。そして、次の瞬間――
ドゴォン、と。
響き渡る衝撃音。ミカは宙を舞い、数十メートル先の壁に叩きつけられた。壁が大きく崩れ落ち、ミカの姿は瓦礫の中に消えた。
「ミカ!」
フェンが叫び、すぐさま影の騎士に向かって飛び込む。だが、その動きはすでに読まれていた。影の騎士は一切の無駄なく槍を操り、フェンの剣筋を完璧に防ぎ続ける。
ガキィン、ガキィン――金属音が何度も響く。フェンの剣筋がことごとく防がれ、そのたびに反撃を受ける。避ける暇もなく、フェンはその精密で恐るべき速度の攻撃に圧倒されていく。
ドガン、と。影の騎士が突き出した拳が、フェンの胸に直撃する。フェンの体は宙を舞い、そのまま地面に叩きつけられた。
「くそ……!」
それを見てすぐに影の騎士の背後に回り込んだ。
このままではまずい。だからこそ、この一撃で終わらせる。全力で剣を握りしめ、力強く一撃を放つ。だが――その瞬間。
世界が回転する。
信じられないほどの衝撃と痛みが私の全身を襲った。視界が歪み、何が起こったのか理解できないまま、私は壁に叩きつけられた。
「ぐぅ……うぅ………!」
呼吸ができない。全身が割れるような痛みに包まれ、視界が揺れる。槍が私の腹めがけて突き放たれたことだけは、はっきりとわかった。
「ぐぅっ……」
息が詰まり、視界が暗くなる。全身に痛みが駆け巡り、立ち上がることができない。影の騎士の槍の一撃は、私の魔力壁すらも簡単に貫通していた。
「……嘘……だ」
敵がゆっくりと槍を持ち直し、再びこちらに向かって歩み寄ってくる。
その動きには一切の躊躇いすら存在しない。ただ、確実に私たちを殺しに来ている――はっきりと伝わってくる。
起きろと、自分自身に言い聞かせるが、体が言うことを聞かない。
このまま終わるわけにはいかない。もう一度、全身に力を込め、私は震える手で剣を握り直した。
「……まだ……終わってない……」
その瞬間だった。影の騎士の体がぐらりと揺れた。地面に縛り付けられるように動きを止めたのだ。
遠くを見遣ると、瓦礫の山から這い出たミカがヴェルトアトラスの重力を発動させていた。地面に武器を突き立て、影の騎士が、まるで巨大な手に押さえつけられたように地面に沈んでいく。
「……効いてる……!」
影の騎士が重力の圧に抗いながらも、動きを封じられているのを見て、胸の奥に一筋の希望が灯る。重力が効いている――これなら倒せるかもしれない。私たちにも勝機がある。そう思った。
「いけ! シエル!」
ミカの叫びに応じて、シエルが冷静な顔で右腕を掲げた。
「デルタレイ――」
その右腕が、徐々に光を帯び始め、輝きが増していく。まるでその光自体がこの異常な空間を切り裂き、浄化するかのように――。
「オメガ――」
しかし――
次の瞬間、影の騎士がゆっくりと立ち上がり始めた。その動きはまるで重力の束縛を意にも介していないかのようだった。
「ぐあぁぁ!」
耳をつんざくミカの悲鳴が響き渡る。漆黒の槍がまるで生き物のように自立してミカの肩を貫き、彼女の体は宙に浮かび上がった。
ヴェルトアトラスと離れたことで、重力が解除されている。
「この!」
それは、まるで意思を持った生き物のようにミカを引きずり、そして――
「ミカ!!」
叫んだその声は届かなかった。
目の前で。――ミカが。
次元の狭間に落ちていった。
「嘘……」
ミカの体が、闇の狭間に完全に飲み込まれ、消えた。
影の騎士の手には、再び漆黒の槍が戻っていた。無感情に、冷酷に。ただ私たち全員を嘲笑うかのように槍を構え直した。
言葉は出なかった。ただ、恐怖と絶望だけが、胸の中に広がっていく。
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