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33.たとえ世界が空から落ちても ⑧

「私は……」


 そういえば、酒場でもフェンに話したことはなかったな。と思い出す。


「私もね、殺したい人間がいる。――のかも」


「曖昧だな」


 彼がうっすらと笑ったように見えた。


「……最近は、なんだかわからなくなってきちゃった」


 強くなると、決意したはずなのにすぐに決心が鈍る。私の悪いところだ。でも、それも仕方ないのかもしれない。あんな悪夢を見た後では――。

 "元の世界に帰って故郷を取り戻す"それが私の使命だ。

 今もおそらく私の世界では民が殺されている。もしかしたらもう全員死んでしまったかもしれない。

 いや、そもそも元の世界と時間の流れが同じだと限らない。仮に戻れても、もしかしたら何十年も経過していた。なんておとぎ話のようなことが無いとも言い切れない。


 というか、元の世界に帰ることなんて可能なんだろうか。この亀裂探索こそ元の世界につながる希望だったが、外れだった。

 次の亀裂がいつ出現するか、そもそも次の亀裂も私の故郷である保証なんてどこにも無い……。

 そんなことをもやもやと何度も考えているうちに、もう、自分が何がしたいのかわからなくなってしまったような気がしていた。まるで現実に取り残されているかのような……。


「どうしても、やらなくちゃいけないことがあったはずなのに。……なんか、本当にできるのかなって」


 私の言葉に、フェンはその黒い飲み物を口に運びながら、遠くを見つめていた。焚火の光の中で微かに光っているように見えた。


「そんなもんさ」


「え……」


 私は彼の予想外の返答に戸惑った。

 フェンは一息つきながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「俺もそうだったよ。本当に心からやりたいことがあるほど、それに向かって進む心は揺れ動く。それが自分の人生を大きく左右する決断になるからな」


 フェンは言い終わると薄く微笑んだ。その笑顔には、過去に抱えた重い苦悩が少しずつ滲み出ており彼の目はどこか遠くを見つめているようにも見えた。


「だからこそ、頭を空にする努力が必要だ」


「頭を空にする……」


 私は彼の言葉に疑問を抱きながらも、耳を傾けた。


「ああ。俺も当時は、あれこれ考えすぎて訳わからなくなってた。里の事や兄弟の事……。悩みの種はいくらでも出てきた。だからこそ、無理にでも頭を空にするんだ」


 彼はしっかりと私の目を見つめながら、静かに語り続けた。


「空にして、空っぽにして……。そうやって、全てをリセットした上で、それでもふと思い出すただ一つの大事なこと。それこそが、お前の使命だ。その大事なことは、お前がどれだけ努力して忘れようとしても、いつの間にか心に戻ってくるからな」


 その言葉が胸に響く。冒険者として数多くの試練を乗り越えてきた彼だからこそ、その意味を深く理解しているのだろう。私も、そんな風に自分の使命を見つけることができるのだろうか――そんな思いが心をかすめる。


「それに、……ほら。見ろよこれ」


 フェンが取り出したのは、見覚えのある一冊の分厚い本だった。


「あ、それ……あの研究施設の?」


「そうだ。こっそり持ってきちまった。今は何が書いてあるかわからんが、持ち帰れば解析に使える」


 ふーん、と私は訝しげに見つめた。

 本当にこんなものが役に立つのだろうか――そう思った。


「お前、これの価値がわかってないな?」


 フェンは私の反応に少し笑いながら言った。


「重要なのは、この物体そのものじゃない。中にあるアイデアと、その可能性が重要なんだ。知識を持つ者に渡せば、それを基にして全く新しいものが生まれる。ロイヤリティだって受け取れる」


 その飲み物もそうだ。と彼は指を指してくる。


「”珈琲”というらしい。元々は異世界で発見した書物と原料を解析して作られたんだ」


カップの中の深い黒色の液体が、微かに揺れている。私はその独特な苦味と香ばしさを思い出しながら、また一口飲んでみた。


「この黒い飲み物がねぇ……」


確かに、普通に生活していたらこんなものは飲まないかもしれない。でも、異世界産だということで物珍しさも手伝って広まったのだろう。それに、慣れてくるとこの味が癖になるのかもしれない――そんな気がしてきた。


「こういうのを総称して"失われた異世界の断片(ロストテクノロジー)"って呼ばれてる。最近巷で流行ってる"知識の結集体(ナレッジアグリゲート)"とかも、元は異世界の技術だったらしいぜ」


「な、なんて?」


 聞きなれない言葉が次々と飛び出してきて一瞬混乱する。異世界に来てから、何度もこうした未知の言葉に出くわしているけれど、まだ慣れない。


知識の結集体(ナレッジアグリゲート)。知らんのか?」


 そう言うと少し楽しそうに説明を続けた。


「とあるS級冒険者が発見して話題になった未知の箱だ。なんでも、その箱には世界の知恵の全てが詰まっているらしい。それが発見されたおかげで、そのS級冒険者は一生働かなくてもいいくらいの金が自動的に入ってくるんだとさ」


「ふーん……」


 まだ全てを理解できたわけじゃないけれど、フェンの話を聞いていると、なんとなくこの世界の広がりと可能性を感じずにはいられなかった。


 フェンは肩をすくめて、「羨ましいよな」と付け加えた。


「でも、それだけじゃない。例えば、"薬"とかもそうだな。回復薬ならまだしも、()()とかになると特効薬を作るのにも時間がかかる。対処不能な場合だってある」


 フェンはその後も、様々な異世界の知識や技術について語ってくれた。それを聞いているだけで、私の中の不安や焦燥が少しずつ和らいでいくのを感じた。彼の言葉が、私の心を少しずつ軽くしてくれているようだった。


「話してたら長くなっちまったな、そろそろ俺は寝るよ」


 フェンがそう言って、立ち上がった。


「まぁ……なんだ。この異世界には色んな物体や可能性がそこかしこに転がっているってことさ。お前の予想できないようなことがすぐに、なんでも起こる。だからそんな顔するな」


 フェンの言葉には、私を励まそうとする優しさが滲んでいた。

 最初に出会ったときは大違いだ。初見で尻を触られそうになったので変なヤツかと思ってたけど、話してみると存外いい獣人なのかもしれない。


「うん、ありがとうね。おやすみ」


 私は微笑んでフェンに手を振った。彼がかけてくれた言葉の数々が、私の心に染み込んでいた。


「忘れる――か」


 私はフェンが去っていくのを見送りながら、彼が言った言葉を反芻した。


 今の私は、異世界に来る前に望んでいたことができている。仲間がいて、いつかやりたいと思っていた本の中のような冒険ができている。

 王女としての責任も、退屈な王城の執務も。私を縛るものは、何もない。

 たまーに仲間と冒険に出て、たまーに仕事をして、エレシアとショッピングに出かけて美味しいご飯とスイーツを食べて暮らす。


 そんなの……そんな生活……。


 そんな生活が良い生活だと、そう思ってしまっている自分に腹が立った。

 王女としての務めを忘れ、民の無念を忘れ、のうのうと暮らす安寧を受け入れ始めていることに、そんな自分に嫌気が差した。


 私は……。

 もう、わからない……。みんな、私はどうすればいいの……。誰か、教えてよ……。


 左目がズグン、ズグン、と痛みを増していく。


「まだ、忘れることも出来ないみたい……」


 夜が明けるまで、無尽蔵に浮かんでくる悩みとそれに呼応するかのように増す痛みに必死に耐えた。

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