45. 愛と憎しみ
「……どうして」
曹雨月は軽く息を切らしていた。柔らかそうな髪は少し乱れ、灰色がかった雨雲のような瞳は大きく見開かれている。
わたしは突然のことに、息ができなかった。
「あなたを、探していました。崖にも行ったけどもういなくて。……ここじゃないかと」
どうしよう、こんなはずじゃなかった。彼には二度と会わないつもりで、彼の休暇中に後宮を出ることを決めたのに。どうして彼がここに……わたしの別宅にいるのか。
「……陽花」
「……っ!」
再会して初めて、名前を呼ばれた。そうして雨月さまは、こちらに近づこうと足を踏み出す。
「……っ!待って!こっちに来ないで!」
彼はわたしの言葉にはっとして、立ち止まった。
「こっちに来ないで……あめ」
わたしがその名で呼ぶと、雨月さまは苦しそうに顔を歪めた。
「……陽花」
「……あなたが、雨だったとはね。雨月さま」
どうしよう。胸が苦しくて涙が出そうだ。なんでこんな時に、あなたを必死で忘れようとしている時に来るのよ!心の中にどんどんと、黒いもやもやした膿みが溜まっていく。
「陽花」
「ごめんなさいね。あなたの期待に応えられずに、皇后は辞めました」
「……陽花」
頑張ってこらえていたのに、わたしの頬には涙が伝っていた。
「……滑稽だった?馬鹿みたいだった?十年前に死んだと思ってたあなたが生きているとも知らずに、ずーっと想い続けて、好きでいるなんて。それを知りながらわたしを後宮に迎えるのって、どんな気分だった?」
「……っ」
「顔を見たら頭痛がするほど、わたしが嫌いだった?そんなにわたしが憎かった?わたしのせいで……あなたを死なせるところだったから?」
「陽花……違う」
わたしの心はもうどうしようもなく傷ついていた。それでもずっと、家族や侍女たちの前でさえ虚勢をはってきたのに、堪えきれない悲しみと切なさと悔しさが溢れる。
「官吏になって、帝の側近になって、剣だって強いんでしょう?あなたは自分の夢を叶えたのね。夢が叶ってよかったわね」
こんなこと、言うつもりはなかった。言いたくないことまで口から出てきてしまう。官吏になれたのも、剣が強いのも、彼が努力したからだという事実は変わらないのに。
「でも、それなら……夢も叶って、新しい家族と幸せなら、わたしをこんなに傷つける必要あった……?そんなに、わたしに復讐したかったの?」
「陽花、お願いです。話を聞いて下さい」
わたしは何も聞きたくなかった。
止まらない。止まらない。涙も、恨み言も。さっきまで彼に出会えたことには感謝していたのに、顔を見ると悔しくて、悲しくて、泣けてくる。
もう限界だった。こんな辛い想いをするくらいなら、いっそあの時、わたしが崖に落ちて死んでいればよかったと思うほどに。
もう涙で雨月さまの顔はよく見えない。でもこの十年のわたしの矜恃が、精一杯の笑顔を作った。声がふるえる。
「ごめんね、雨。わたしがあの時死ねばよかったね」
雨月さまの顔が、はっと緊張を帯びた。
「それとも、園遊会で毒を飲み込んでいたらよかったのかな?わたしが……」
「陽花!」
滲んだ視界で、雨月さまが駆け寄ってくるのがわかった。逃げたいのに、頭が涙でぼうっとしてくらくらする。
そして、わたしは雨月さまに抱きしめられていた。
「いや……っ、離して!」
「いやです」
雨月さまは強くわたしを抱きしめて、離さない。どんなにもがいても腕の力が強くて、わたしなんか彼の胸にすっぽりと収まってしまった。わたしより少し背が高くて、同じ年頃の男の子より細かった子供の彼は、もういない。
「陽花、死ねば良かったなんて、二度と言わないでください。前にも言った、あなたが毒に倒れてどれだけ怖かったか!俺は、十年前にあなたを助けたことを後悔なんかしていません。……あなたのためなら、命でもなんでも差し出します」
「嘘よ!そんなことを言うのはやめて……!お願い、離して!」
「離さない!お願いだから話を聞いてください。俺は……、俺は、あなたを愛しているんです!」
わたしはひゅっと息を吸い、固まった。
この人はいま、なんと言った?
わたしはそろそろと顔を上げて、憎らしくて愛しくて憎い雨月さまの顔を見た。目が合った彼は、わたしを傷つけて、痛いほど苦しめているくせに、自分もとても苦しそうで。大きな手で涙でぐちゃぐちゃになったわたしの頬に触れた。
壊れかけの宝物を触るように、優しく涙を拭う。わたしは振り解きたいのに、固まって動けなかった。
雨月さまの揺れる瞳が、わたしを捉えた。
「……あなたを、愛しているんです」




