35. 奇跡の暇つぶし
雨が倒れて周家に世話になって以来、雨に対する家族の扱いが変わった。
家族の態度は変わらないが、少なくとも服や食べ物は他の子供と同じものをもらえるようになり、一日に数時間は自由な時間がもらえるようになったのだ。
おそらく周李康の計らいだったのだと思う。雨の家庭環境を調べ、最低限の人並みの生活を送らせようとした。
自由時間には、周家の本宅とは別に李康が持っている屋敷で、陽花に会えるようになった。
その別宅ではたくさんの本も読めるようになり、時々李康に直接勉強も見てもらえるようになった。
『なに、じじいの暇つぶしだよ』
と彼は笑っていたが、暇つぶしでもなんでも、こんなふうに自分が勉強させてもらえるなんて奇跡としか思えない。
雨が勉強を始めるようになると、陽花も「わたしも頑張る!」と言って一緒に勉強するようになった。
李康にはその代わり、陽花に街のことを教えてやってほしいといわれた。陽花と出かけるのは願ってもないことで、雨と陽花は勉強の合間に街に出かけ、いろんなことを話した。
陽花は勉強はできるのだが、街の営みはほとんどなにも知らなかった。世間知らずのお嬢さま、というやつだ。
『そういえば、陽花は僕と初めてあった時、なんで一人でいたの?』
『ああ、家出してたの』
『家出!?』
『うん、勉強と習い事がいやになって。お兄さまたちは街にも行ってるのにわたしだけいつもお留守番で、ずるいと思ってね。しょうがないからこっそり、庭にある子供しか通れない穴から抜け出して街に行ったんだ』
と、悪びれることもなく舌をぺろっと出して笑った。
『そうしたら空から鳥が降ってきたのよ。鳥の絵がね!すっごく綺麗で、誰が描いたんだろうと思って、開いてた窓から中を見たら雨がいた』
『そうだったんだ……』
『でも雨に会ったら、勉強が楽しい楽しいって言うから、なんでだろうって思ったんだけど……。わたしも最近、勉強が楽しいの。こうやって街を歩くのも。雨と一緒に、知らないことを知るのは楽しいわね」
そう言って、陽花は陽だまりのような笑顔で笑った。
雨は思わず、片手で顔を覆って顔をそらした。
『?どうしたの、雨』
陽花がきょとんとした顔で聞く。
『な、なんでもないよ』
***
『……ただいま戻りました』
食事と服の待遇が良くなったかわりに、新たな問題も出ていた。最近、父の仕事があまりうまくいっておらず、酒に酔って帰ってくるようになった。
父は雨を見ると、顔や手足など外から見える場所は避けて雨を殴った。
『俺がこんなに苦労してるっていうのにいいご身分だな!』
そう言って何度も殴られたが必死で耐えた。反抗して問題を起こせば、自由時間がなくなるかもしれない、家から一歩も出されなくなるかもしれない。
最悪、勉強ができなくなってもいい。でも陽花に会えないのは嫌だ。それが雨には一番怖かった。
***
雨が陽花と出会って、二か月が過ぎた。その日、陽花は用事があって李康の別宅には来られなかった。
『……李康さま』
『なんだい、雨』
『勉強したら、僕は何かになれるでしょうか』
李康は読んでいた本から、視線を外した。
『僕は、ずっと陽花といたいんです。でも僕なんかがいつまでも彼女と友達でいられるわけがない』
『なぜだい?きみは陽花の友だろう』
『……身分が、違い過ぎます。陽花とこれからも一緒にいるために、僕も立派な人間になりたいんです』
そう言った雨を、李康はじっと見つめた。
この頃にはもう、雨は陽花のことを誰よりも大切に、愛おしく思っていた。この先陽花との関係性が変わっても、ずっとそばにいたい。自分に名前を与え、救ってくれた彼女の役に立ちたい。心からそう思った。
『勉強は楽しいです。でも僕は、何かになりたい。陽花と一緒にいても誰にも文句を言われないくらいに』
『……そうか』
李康はすっと手を伸ばして、雨の頭を撫でた。
『ありがとう。孫のことをそんなに想ってくれて。きみはきっとあの子の良い友になると思っていたよ』
『李康さま……』
『きみはまだ若い。これから無限に可能性はある。育った環境や身分に囚われずとも、運と実力があれば未来は切り開けるものだ。……私もそうだったからね』
李康は、孫を見るような優しい瞳で雨を見つめた。
『雨、これからも陽花のことをよろしく頼むよ』




