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36. 青空の下で

 雨は毎日別宅に行ったが、陽花には習い事も本宅での勉強もあるので、毎日会えるわけではなかった。


 そして陽花は時々体調を崩す。ちょっとしたことで熱を出すことが多い。特に雨の日は寝込むことが多かった。彼女の母が亡くなったのが雨の日で雷が鳴り響いてたらしく、だから彼女は雷が苦手だった。雨が降ると陽花は少し弱くなる。


 そういう時、雨は周家の庭にある子供だけがかろうじて通れる穴を使い、こっそりと陽花の見舞いに行っていた。寝ている陽花の邪魔にならないよう、彼女が好きだと言ってくれた絵を窓辺に置いていく。たまに陽花も起きていて会えた時は嬉しかった。


 ある時、一週間も陽花も李康も別宅に現れなかった。周家の屋敷に様子を見にいくと、何やら慌ただしかった。


 ある雨の日、また陽花が体調を崩していないか心配で様子を見に行った。


『雨……』


 雨を見ると、初めて会った時のように、陽花は泣きじゃくりながら雨に抱きついてきた。


『陽花、どうしたの!?』


 こんなに衰弱して、一体どうしたんだ!

 雨は陽花を抱きしめ、優しく背中を撫でた。


 それから、あの周李康が亡くなったことを知った。



***



 周李康は長らく病を患っていて、先は長くなかったらしい。雨の前ではそんな風には見えなかった。これからも、自分が陽花といるためにいろいろなことを導いてくれるのではないか、と淡い期待さえ持っていた。


 けれど、李康が亡くなったことで雨は現実を知った。雨は李康とは陽花の次に親しくしていたつもりだったけれど、葬式にも呼ばれなかった。


 初めて周家の正門から花を供えたいと挨拶に行ったが、国を動かしてきた政財界の大物の最期に、こんな子供が立ち会えるわけもなく。


 李康への弔いにはたくさんの人が訪れていたが、身分の高そうな大人たちと見張りの護衛が雨に向ける目には、明らかに侮蔑の色があった。おまえのような子供が来る場所ではない、と。


 久しぶりに陽花と別宅で会えた。天気も良く、李康が亡くなった日とはまるで正反対のような快晴の日だった。

 

『素敵なおじいさまだったでしょ?』


 李康の別宅は、たくさんの本と共に陽花に譲られた。わたしと雨への贈り物なのよ、と陽花は静かに笑っていた。雨は李康に最後に言われた言葉を思い出していた。


 ー 雨、これからも陽花のことをよろしく頼むよ。


 言われなくてもそうするつもりだったが、あの李康にそんな風に言ってもらえたことが、とても嬉しく誇らしかった。

 

 だから、決めた。


『陽花』

『ん……?』


 雨は、窓から空を眺めている陽花に声をかけた。


 きらきらした日差しが彼女に降り注ぎ、彼女は名前の通り太陽に愛されているのだと思った。彼女には日の光がよく似合う。


『僕、官吏になるよ』


 陽花は、ゆっくりと雨のほうを向いた。


『前に李康さまが言ってたんだ。身分に関わらず、科挙っていう試験に受かれば僕でも官吏になれる』

『……雨は、商家の息子でしょう?』

『うん。でもうちには弟がいるし、僕に後は継げない。でも官吏になりたいのはそれだけじゃないんだ。僕たちの住んでるこの国のことをもっと知りたい。僕は、自分の人生に光なんかないと思ってたけど、陽花に会えた。こんなにも住む世界が違ったのにきみに会えたんだ。この世界も悪くないんじゃないかなって、きみに出会って初めて思ったんだよ。それで……できればこの国を良くしたい』

 

 雨は陽花に会う前の自分と、今の自分を頭の中で比べてみた。体にあざはできるようになったけれど、今の自分はずっと幸せだ。


 紙に絵を描くだけじゃない。陽花のおかげで、自分の未来を描けるようになった。


 こんなちっぽけで無力な自分が、国を良くしたいなんて大層なことを言っている自覚はある。けれど、少しでも自分のような子供が減って、この世界に希望はあるんだと伝えることができたら、素晴らしいことなんじゃないか。


『……あと、強くなりたいな。これから大人になっても、何があっても陽花を守れるように』


 周家のお嬢さまは、何度か悪い奴らに狙われて危ない目にあっていることも知っていた。陽花と街を歩く時は、李康が用意した護衛が後ろからついてきていたことも知っている。雨が、金目当てに陽花に近づいた男を撃退したこともある。


『……はじめて聞いた。雨が、何かになりたいって言うところ』


 目の前の陽花は、目をまん丸にしてぽつりと呟いた。そして雨に、花が綻ぶような満面の笑みを向けた。


『なれるよ雨なら。きっとなれる。わたしのおじいさまやお父さまみたいに、この国を良くしようと頑張る人に!』


 そう言ってから、陽花はあっと声をあげた。


『でも待って!……雨はわたしのことも守ってくれるの?』

『?うん、もちろん』


 なにしろ陽花がいなければ、せっかくこんな自分が希望を見出したこの世界でも、何の希望もなくなってしまう。

 この国を知りたいのも、良くしたいと思うのも、全て陽花がいてこそだ。


『えっと、それじゃあ雨は武官になるの?』


 確かに武官になれば強くなって、護衛ができる。戦争に行って戦って、陽花の住む国を守ることも。


『わたしにとって、雨は家族みたいに大切で、かけがえのない人なの。……大好きなの』


 そう言った陽花はぽろぽろと泣き出した。


『武官になったら、危ない目に遭うでしょう?もし雨が、おじいさまみたいにわたしの前からいなくなったら、わたしはどうしたらいいの?もう大好きな人がいなくなるのはいや!雨は……どこにもいかないで』


 陽花は悲しみをこらえるように泣いていた。

 

 自分を想ってくれる彼女の気持ちが、雨の心にじんと響いて、愛しくて、雨は陽花をぎゅっと抱きしめた。


『……どこにもいかないよ、約束する。それに、強くなりたいけど武官になりたいわけじゃない。僕はきみを一生守れる力が欲しいだけだ』


 雨は、抱きしめてもいつまでも不安そうに泣いている陽花の頬に手を当て、涙を拭った。そうしていつの間にか、自分のほうが陽花より背が高くなっていることに気づく。

 

 陽花はいつも、雨に幸せをくれる。初めて自分のそばにいたいと言ってくれたのも陽花だった。涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔が愛おしくて、たまらなかった。


『……陽花。いつか僕が立派な大人になったら、僕のお嫁さんになってくれますか?』


 

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