15話 【黒点】は曇天を衝く
天候が大きく傾く三十分前──『私立舞坂高校』の二年二組の教室にて、裏切りの言葉が投下された。
「浩司、今日雨降るかもしれないってよ。体育どうなんだろうな⋯⋯」
「え?まじ?僕、バリバリにサッカーボールするつもりだったんだけど」
それは教室に辿り着いてすぐの事である。建宮雅斗が椅子に座ってスマホを呆然と眺めるに留まっている友人の三崎浩司の元へと向かい声を掛けた。
体育は他授業とは違い、遊び感覚で授業を受けて時間は当然のように過ぎていくので男子は大盛り上がり。
場合によっては可愛い女子が普段とは違い、後ろ髪を結び頑張る様を眺めるのもまた乙なものであると思春期男子は邪な視線を向けて、それに対して女子は気付いているものだ。
そして、浩司もまた現役の男子高校生。
いくら美女、美少女が家で居候をしているとはいえ、可愛い子が隣に居れば気になって視線は磁石のように向くし、たまたま通り掛かった際に匂う甘い香りにドキドキする歳頃。
つまり、少年は芯のないふにゃふにゃ竹輪野郎であった。
体育は暇潰しかつ薄着な女子を見て友人とルックスやサイズ、性格を語り合う一つのイベント──その筈だったのだが、体育館での授業ともなれば話は変わる。
体育館ではサッカーはしない。するのはバスケットボールに変更となる。
サッカーは周りを見つつ、ボールを追い掛けてパスを回し、点を取り合うスポーツであり、バスケットボールも概ね同じと言えよう。
だが、問題はサッカーは広いフィールドを使うのに対してバスケットボールは狭いコートの中である事だ。
短い距離間隔でミサイルが飛び交う戦場に投下されたようなものであり、体力の消費もサッカーに比べて大きなもの。
更によそ見なんてした暁には、硬いボールが顔面並びに指にぶつかり転倒。
語り合う時間もなければ、忙しい時間に追いやられた社畜の如く、身を粉にしなければならない。
浩司にはそれが耐えられないのである。
「雅斗。ちょっと屋上行って、曇り空晴らしてきてくれ」
「俺が?!お前が行けよ!」
「馬鹿言え、僕にそんな力ある訳ないだろ?」
「俺もねーよ!⋯⋯⋯⋯なら、一緒にやるか」
この誘いに浩司は──当然乗った。
少年のIQは友人と居る事により一時的に下がってしまうのである。
明らかな気の緩みでもあり、中学生の頃からの付き合いというのもあり、気心が知れ過ぎている故に起こる紛うことなき弊害。
だが、当の本人は至って真面目である。
「掛け声はどうする?『雨の馬鹿野郎』って言っとくか?」
唐突なる雨への暴言に灰雲が白く哭いたが、二人は気付かない。
「いや、降ってねぇのに雨のせいにするのは違うだろ」
そして僅かに雲は散り、お天道様の顔を見せる。
白い陽射しが窓を差して、二人を分け隔てるように机の上に当たった。
「じゃあどう言うのさ?」
机についていた肘を上げた浩司は険しい剣幕で人差し指と中指を立てて、言い放つ。
「『曇り空、散ッ!』とでも言うのか?」
「何その陰陽師。洗濯物乾かないからシビレ切らしたみたいだぞ」
「分かんないだろ?柿干してたんかもよ?」
「なるほど、確かに⋯⋯」
着実に構築されていく涙目陰陽師と干し柿と曇り空。
奇しくも同じシチュエーションを想像していた事を二人は考え耽っていたのだが、そこに第三の刺客が現れた。
「アンタら、よくそんなつまんない話しで盛り上がってんね?暇人かよ」
落ちかかったブロンズ色の長髪に、半袖のシャツを着用している癖に臀部を触れるなとばかりパーカーを腰に巻いている目付きの鋭い少し焼けた肌の女子生徒。
そんな彼女の一声はお馬鹿二人の視線を向けさせるには充分な要素であった。
「うわぁ出た。妖怪色ギャル星人!」
「誰が色ギャルだ!一年も前の話してんじゃねぇ!」
キツい物言いと物怖じしなさそうな態度、そして何よりも高圧的な視線が浩司を襲う。
だが、顔見知りも何も同じ中学出身である事と芋娘だった頃からの仲の為、そんな態度は脅しにもならない。
同じように中学が浩司と同じ雅斗も同様である。
「おう、美生。おはよ〜」
「おっはさん。⋯⋯アンタら毎度毎度飽きないと言うかさぁー」
飯垣美生。高校デビューを果たすべく髪を染め、メイクをして、友達付き合いに身を乗り出して二ヶ月が経過した時点で誰もが思うギャルとなってしまった女子高生であり、浩司の腐れ縁。
クラスメイトからは三人揃って『舞坂の二年三馬鹿』という持て囃されて方をしているのだが、美生だけが不服なご様子であり、口にするのはクラスメイト内では禁止項目として広めようとしているものの、『三馬鹿筆頭』の浩司からの口添えによる影響で、あまり意味を見い出せていないのが現状だ。
「飽きるものか〜。なぁ?」
雅斗の期待に満ち溢れた眼差を向けられた浩司は鼻で一蹴し、人差し指を立てて振り子のようにリズムよく左右に振っていく。
「おい、雅斗。勘違いするなよ?」
「ほえ?」
「僕はお前とお口直しに話してるだけだぞ?」
話す相手が大して居らず、浩司を目当てに話し掛けて来る相手は基本的にいない。
その為、お口直しの意味合いからは本来、浩司は自然と除外されてしまう訳だが、何故か本人はしてやったり顔で口角を無意味に上げている。
何故か、それは本人も『お口直し』の意味が分かっていないからだ。
少年の中での『お口直し』とは『化粧直し』程度の考えであり、要はリセットを意味している。
間抜けで頓珍漢な少年は阿呆な事に『お口直し』も『化粧直し』も一緒だと思い込んでいるのだ。
「な、なんだとッ!!?つ、つまり、本命は誰よー!言いなさい!」
馬鹿はもう一人居た──。
そう建宮雅斗の事である。
彼もまた勘違いやその場のノリで話しているだけであり、中身も内容もあまり深く追求しない為、本当に『お口直し』が『浮気』の意味合いと受け取ってしまい、ノリで女性口調で対応してしまった。
そして、そんな馬鹿二人とは違い『お口直し』と『化粧直し』の違いも意味も知っているギャルっ娘の美生は呆れて深い溜め息を吐いてしまう。
「ふっ。答えられねぇ⋯⋯たとえお前と言えどな」
「どこの泥棒猫よ!引っ掻いてやるわ!」
しかし見つめる先は浩司である。彼方此方に視線をやる訳でもない。
流石に周りからの視線も相まって、居た堪れなくなってきた美生は浩司の机の前に行き、腰を下ろして腕を机に付けた。
「アンタ、爪切ったって昨日言ってたじゃん。つか、浩司。アンタなんも考えてないっしょ?」
「あ、バレた?」
「本当にコイツって奴は⋯⋯」
辟易した様子を見せて顔が下にガクッと落ちる。
すると、額が机に当たり、ゴンッ!と少し鈍めの音を鳴らしたかと思えば、勢いよく頭が上がった。
(本当にコイツって奴は⋯⋯ドジだな)
浩司の視界に映るのは机に額をぶつけてしまったが為に小さな唸り声を上げて、それを心配した雅斗が顔をペタペタと触ろうとするのを弾き、その弾いた手で赤くなった額を擦る美生であり、何時もの見慣れた光景である。
これが少年の日常。少年の学校生活の一基準。
そんなお触り厳禁を頂いたばかりの顔ばかり取り沙汰される雅斗は浩司の方へと視線を移す。
「あ、そうだ!浩司、昨日から気になってたんだけどさ──」
「おはよう、三崎くん、建宮さんと⋯⋯飯垣さん」
美生の背後にブロンズではない純粋な金髪の縦ロール小娘が立っていた。
恐怖心が駆り立てられてゾワッとした様子で短い悲鳴を鳴らしながら急ぎ立ち上がった美生は振り返る。
「おわぁぁ!⋯⋯あ、あぁ〜なんだ、転校生か。ビックリさせんなよ」
雅斗は気付いていなかったが、浩司からすれば視線の先に既に教室に入って来たフィローネが見えていた為、驚きはしなかった。
だが、美生が怖がりに位置する人物であると知っていて声を掛けなかったのも、浩司の判断である。
内心、浩司は少し笑っていた。
「フィローネ」
「あれぇ?日本人は挨拶をよくする人種だって聞いたんですけど、違うんですか?」
【四聖の魔女】の二つ名を持つ『フィローネ=アルスタッシュ』は揶揄うように人差し指を口元に当てる仕草をする。
挑発行為でもあり、日本人に抱く外国人のような印象を口にした。
そんな挑発に対して先頭を立ったのは雅斗であった。
向かい合い、果たし合いを受けた武士のように位置する雅斗と挑発をしたフィローネからはただならぬ雰囲気を醸し出している。
そして、雅斗は勢いよく右手を上げた。
「おはよう!フィローネさん。イェーイ!」
「おはよ〜、イェーイ」
そして、そのままハイタッチ。
浩司は目が点となって、状況そのものを疑い、目を凝らして見るも、やはり何処からどう見てもハイタッチである。
浩司は先程まで怖がっていた美生の袖を引っ張り、その感覚を受け取った美生は浩司の方へと顔を向けた。
「おいおい、美生。これどういう事だよ。なんの儀式?呪われんの?それとも見たら死ぬ的な?」
別段、ハイタッチが駄目という訳でもなければ、する分には一向に構わないと言えるだろう。
問題なのは、そのハイタッチまでの流れにあった緊張感とハイタッチをさせる為だけに煽っていたフィローネの言動、そしてそれを甘んじて受けた雅斗を皮切りに続々と生徒が集まっていく光景にある。
「あ〜そっか、アンタこの子の転校初日に遅れて来たんだったわー。あの子が教室に入って自己紹介も終わった後さ、あーやって皆にハイタッチし回っていたのよ」
とんでもない度胸だと素直に感服してしまった浩司。
転校初日はもっと萎縮するなり、ぎこちない態度を取るなりしても良いものを、まさかのフレンドリー。
潔癖症の人間とどう触れ合うのか知りたいと心の底から意欲感と共に興味が湧きたった浩司は自分には決して出来ない行動をマジマジと眺める。
雅斗のハイタッチを切っ掛けにフィローネの周りには多くの生徒がハイタッチを求める列が出来上がってしまい、さながらアイドルの握手会のようであり、綺麗に並ぶ生徒の数は増えていき、黒板側に設置された教室の出入り口を抜けて廊下にまで長蛇の列が並んでいた。
ハッキリ言って、外国人の転校生が来ただけではここまでの事態にはならない。
「お前もしたのか?」
「そりゃね。しないと変に思われるし」
「へぇ〜⋯⋯。怖っ」
絶対に裏がある。そう感じた浩司は決してフィローネを前にして手を伸ばさないようにしようと、固く決心したのであった。
「はぁ〜、煩い⋯⋯」
そう小さく呟く美生は浩司の元から離れて廊下へと出て行く。
(流石のなんちゃって陽キャにはキツいか)
飯垣美生は高校デビューによってキャラを大きく変えた努力家である。
自分を可愛く彩り、友人のノリにも付き合い、そして破綻した。
それは単に彼女ばかりが原因ではなかったろうが、彼女の生粋の性格が友人だった者との関係に亀裂を生み、最後には解消。
そう、今の彼女はなんちゃって陽キャであり、見た目は陽!中身は陰という状態なのだ。
イケイケのお時間は既に去ってしまい、真なる陽キャことフィローネの脚光には手も足も出ない。
だから、彼女は一足先に廊下を出た。
これ以上、自身が惨めだと肯定したくないが為に。
曇天となっていく空模様に目を掛ける者はいない。
照明は暗がりの空によって齎される灰色地味た教室を明るく鮮明にして、一時間目の授業は予定通りに執り行われる。
雨であろうと、風が荒もうとも、雪が降ろうとも、警報さえ鳴らなければなんの問題もなく開始させるのだ。
黒板に白いチョークと赤のチョーク、黄色のチョークを使い分けて記されている授業内容はシャーペンを使ってノートに丸写し。
浩司の隣に居るフィローネすらも真面目に授業を受けており、担当教師と黒板を叩くようにして擦られていくチョークの音、ノートで書き記していくシャーペンの音で教室は満たされていた時である。
唐突に浩司の全身は焼けるように熱くなって、次第に肌が体内へと押されていく圧迫感が身体を支配した。
「うっっ!⋯⋯⋯⋯ぁぁぁぁ」
喉奥から絞り出したような声はクラスメイトには聞こえない。
聞こえないようにギリギリまで耐えた故。
しかし、何時までも押さえ付けられている感覚は肌身離さず、自然と苦い顔を浮かべる。
「先生⋯⋯と、トイレ行っていいっすか?」
「ん。早く戻れ?」
「は、はい」
教卓の前を素通りし、そのまま教室を出る浩司は察していた。──【紅閃姫】が戦っている事を。
最悪のケースだと判断し、慌てた様子で男子トイレに駆け込もうとして、入口前まで来た時である。
左腕に筆舌し難い痛みが襲い掛かり、泣き叫んで、倒れ込んでしまう。
「あ〜〜〜ッッッ!!あぁぁぁぁ!!!!」
見た目は全く持って変わらない何時もの普通の左腕。
しかしシルティアにとっては違うのだろうという事は知っている知識で分かってしまう。
そればかりか、コチラからはその様子が窺えない為、何も出来ずに居る事が確約されているようなもの。
歯を食いしばって、立ち上がろうとする右手。
試しに左手を壁に当ててみるも、腕の力そのものが入らなくなってしまっており、焦りで呼吸が早くなる。
「ど、どんな戦いしてるんだよッ!⋯⋯クソ!クソ!何処にいるんだ、シルティア。何処に」
トイレへと入るのを止めて、階段を下る浩司は外へと向かおうとする。
次の瞬間、頭頂部にとんでもない激痛が脚先までを粉々にするかのような勢いで稲妻の如く走り、耐え切れなくなった浩司は階段から落ちてしまう。
「あ〜〜〜!痛ッッッてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!あ〜ッ!!」
踊り場までの段差は三つだった事が唯一の救いであり、大した怪我にもならずに済んだものの、身体の隅々を内部丸ごと滅茶苦茶にされたような痛みは健在であった。
授業中の教室にも当然のように響き渡った叫喚と悲鳴の嵐は生徒に不安を与え、心配の声色を奏させると共に、面白がる者も出始めた。
そんな授業妨害とも受け取れる悲鳴の嵐を掻き鳴らしている元凶を探すべく、廊下へ赴く教師がチラホラと出始めている頃、浩司の元に一人の生徒が現れる。
「浩司!大丈夫?!どうしたの!」
一時間目が始まる前に廊下を出て行ってしまい、テラス付近でスマホを使って時間を潰していたクラスメイトの飯垣美生から発せられた言葉は大きく膨れた驚愕と不安を一気に解き放つかのような声色で形成されており、段差を上がる音は瞬く間に早くなっていく。
駆け寄るや否や、美生は顔を覗き込み、うつ伏せとなって苦悶の表情で大量の汗を吹き出し始めている浩司の状態を見ようとする。
だが、彼女は医者でもなければ知識もなく、一生徒でしかない。
「階段から落ちたの?左手打った?ねぇ?答えてくれなきゃ分かんない⋯⋯どうしよう!」
慌てだした美生はスマホを手に取り、救急車を呼ぼうとするも、ここは学校。
保健室に居るであろう先生に声を掛けて、適切な対応をした方が浩司の為にもなるのではと思い、タップしようとする指が止まった。
しかし、問題もある。この学校の校舎はエの字の形をしており、南西側の校舎が浩司達が今居る場所に当たるのだが、保健室は南東側の校舎一階に設置しているのだ。
昨日、浩司が職員室に向かった際、遥が生徒会室へと向かう為に歩いた校舎の道を辿り、職員室の隣にある保健室まで行き、戻ってくるまでの間、浩司の体調の変化が気掛かりで何も出来なくなってしまっている美生なのである。
そんな様子には一瞥すらしていない為、気付きもしていない浩司は蹲るような姿勢となっており、チラチラと腕と身体の間からある生徒がこっそりと様子を見ているのを視認すると、心配で駆け寄ってくれた美生の腕を掴んだ。
「美生、悪い⋯⋯けど、ほほ、ほ、保健室に──」
「せ、先生呼べばいいのよね?!待ってて!すぐ行くから」
急ぎ立ち上がり目もくれないといった具合で二階を目指す為、駆け上がろうとするものの、焦りのあまり段差に躓いて倒れてしまった美生。
小さく短い悲鳴は浩司の真後ろから鳴って、膝は段差によって擦れてしまい僅かに血が流れていく。
「お、おい大丈──あがぁぁぁぁ〜〜〜!!あーーッ!」
顔面を巨大な鈍器で叩き付けられたような衝撃が訪れた。
顔を押さえ込み、痛みに悶絶して脚の指にも力が加わっていく中、浩司は更に絶叫する。
「ッッッ!!?!んッがァァァァァ〜〜〜!!」
感覚だけと分かっていても共有された痛みは浩司にあらんばかりの涙を流させて、瞳孔が小さくなった瞳を大いに見開かせる。
痛みのあまり爪は思わず頬を刻み、身体は反るように脚全体に力が入ると共に踊り場を強く踏み鳴らしていく。
脳が危険信号を送り、意識を強制的に遮断しようとする──しかし、それを許さないように間髪入れずに右脚を猛烈な痛みが急速な早さで支配した。
「ッッッ〜〜〜〜!!!」
奥歯に穴が空くのではないかと錯覚するほどに噛み締めて、もはや声にもならなくなった。
喉から鳴らされた高い音は囀り回る子鳥にも似たものであり、両手で右脚を庇う為にジタバタとしながら仰向け状態へと体勢が変わる。
覚束無くなる視界は壁を歪ませ、手すりと支柱となる何本も縦に伸びた柵が輪郭を複数に形成して、階段で躓いてしまった美生を微かに視界に捉えるものの靄の掛かったような異様な状態として映り、更に心拍数を跳ね上げていく。
やがて決壊の末に溢れ出る涙が見開き過ぎて乾燥し始める瞳を潤してはくれない。
そんな浩司の悶え苦しむ様子を唖然とした表情で見続けるだけの美生は身体を小刻みに震わせて、憂心に堪えきれず涙を流していた。
死ぬかもしれない。憂懼し始めた感情は慌てふためき、落ち着きがなくなって現実逃避のように苦しむ少年に駆け寄ろうとする。
「【今休め、迷い寝子よ】」
そんな美生を淡い桃色の煙が包み込む。瞼が少しずつ閉じられていき、身体は完全に脱力した状態で踊り場に倒れ込んでしまう。
「フィ、フィローネっ!」
苦しくなる呼吸を精一杯にその名前を呼んだ。
求めていた訳では決してなく、フィローネ本人から勝手にやって来たに過ぎないものの、何処か安心感を覚える。
「大丈夫ぅ、寝かせただ〜けっ!」
指を突き立ててお気楽に言い放つその姿に対して言葉を紡げる程の余裕は既になく、一向に治まらない顔の痛みに辛じて意識を保つのが精一杯。
そんな少年の元へと降りて来たフィローネは律儀にスカートに手を当てて、しゃがみ込む。
「【紅閃姫】を一刻も早く呼んだら?『生命の繋がり』に繋がってる人物は魔力を通す事で呼び出せるんだぞ〜?教えたでしょ?」
「仕方を⋯⋯教えて、もらって、ない。フィロォォァァァアアア〜〜〜!!──あ、あぁ⋯⋯」
左脚をへし折られた、そう浩司は直感した。
これによってシルティアの四肢は潰れた事になり、最悪の想定が脳裏を過ぎる。
(流石に、マズイ!シルティアが⋯⋯死ぬ!リディナでも馬に乗ってたオッサンでも良いから、助けてやってくれぇぇ⋯⋯)
リディナは退場、ガンガルドは事態にそもそも気付いてすらいないのだが、そんな情報が浩司の耳に飛び込む訳もなく、必死な懇願が心を叫ばせる。
それが届いたという訳では決してなく、偶々とも呼べるタイミングであっただろう。
「うーん。もうこれは現地に向かってった方が早いのかも?うん、そうだろうねそうしよう」
考える素振りをそこそこに、何かを閃いたとばかりに頷いたフィローネは折れてはいないが激痛が走る両腕を持って、浩司を背負うような体勢に入る。
「しっかり持っておくね〜。じゃあ、未知の冒険にしゅっぱ〜つ!」
意気揚々と声を上げるフィローネ。しかし心配は要らない。
既に教室を出る際、魔法で校舎に居る全ての人間は深い眠りについており、ご丁寧に夢で羊が出るようにしているリップサービス付き。
声をいくら上げようとも、そもそも誰の耳にも届いてすら居ないのが現状の中、指を鳴らして現れるのは指揮棒にも似た茶色く細い杖。
一本の棒に半分程の長さの所まで同じ茶色の蛇の形のようなものを巻き付いており、手首のみを上にして翳す。
「ほい!」
「⋯⋯っあぁ?!穴が⋯⋯」
浩司の目の前には壁から大きさ三メートル程の穴が現れ、その穴の中に広がる景色は二階から見た雨が降った屋外の光景そのままであった。
呆気に取られて、何をした聞こうとする浩司であったが、ダメージは未だ継続中であり、四肢を使い物に出来なくした事が災いしたのか、上半身や顔面には一方的にダメージが蓄積するばかりで、話せる状態でもなくなっていた。
「じゃあ、行くよ?しっかり掴まれててね?ホォォ〜イ!!」
その穴に目掛けて一気にジャンプ!これには流石の浩司も思わず目を瞑るのだが、一向に落下する気配はない。
それどころか上空からは雨粒が打ち付けられ、前方から風が吹き、体温を着実に下げていく。
「と、飛ん──がぁぁぁッ!!」
「ちょいちょい、血なんて吐かないでよ〜?洗うの大変なんだから〜!」
(コイツ、酷ッ!)
話す事もままならない浩司をいい事に言いたい放題のフィローネだが、彼女だって急いでいる側。
彼女の浮遊は魔法ではなく『特殊体質』のようなものであり、シルティアが『神造器』を抜き我が物と出来るように、リディナが『妖精人』とは個体性の違いが顕著なように、フィローネにも『特別』はある。
その一つが『浮遊』であり、彼女の『個性的な武器』なのだ。
そんな個性爆発型金髪陽キャっ娘のフィローネは浮遊時は脚を動かす動作をしない。
理由として彼女は「陸地で歩く動きをするのに、空でも歩く動作をすれば馬鹿みたい〜!マジシャンじゃないんだよ?」との事。
あくまでも身体を軸にして一定速度を飛べるだけのもので、ジェット機や新幹線のような猛スピードは出せず、せいぜいバーゲンに向けて全力でペダルを漕ぐお母ちゃんレベル。
しかし、そこで肝となるのが脚を動かす動作と魔力を脚裏に溜めて放つという動作であり、これを行う事で前屈みのような体勢にはなるものの素早い空中走行が可能となるのだ。
だが、弱点もある。
まず、真っ直ぐに進む為には脚裏に溜めた魔力、放つ魔力を一定にして交互でなければならない事。
そして、二つ目は致命的である。それは──。
「うぅ、酔いそう⋯⋯」
この娘、乗り物酔いしやすい体質でもあり、自律神経が弱々なのだ。
「おい⋯⋯吐くな?」
「乙女は吐かん!⋯⋯っぷ」
砂浜に到着するまで後──三十秒。
━ ━ ━
焼け野原となったその戦地は煤煙に塗れて、ただでさえ豊かではなかった土地は焦土と化した。
たった一つの王国からのお達しが全ての切っ掛けである。
建国から長らく仕えて来た『アーディナス家』は『ユーベルアイン家』の懐刀にして国の情勢を支える要として重大な役割も担って来た。
時には『勇者選抜』の候補として名を上げて、見事その頂きを欲しいがままにした一族でもあり、知名度だけならば『ユーベルアイン』よりも『アーディナス』の名が高い。
武勇は名誉と栄光を後世に残し、潔癖なまでの泊と勇ましい功績は人々に活気と歓びを齎す。
だが、事件は起きた──。一つの王命により、塗り変わる事となる。
切っ掛けは『現・バルファザル王国・国王』の勅命とも呼べるお達しが始まりであった。
一つの国の頭領とも呼べる存在が民を扇動し『バルファザル王国』に進行しようとする動きがあり、それを食い止めるべく殲滅しろというものである。
ダイブリンの父でもあった『ドルガンム』はその命に疑問こそあったが、受けなければ立場が失墜する事となる為、数名の兵を連れて『ヌァルファ国』へと潜入した。
また、息子のダイブリンもこの当時、別件で他国との外交へと赴いていて知ったのは全てが終わった後となる。
『ドルガンム』は勇猛なる戦士にして、国一番の武闘派であると同時に政策においては心優しい存在として知れ渡っており、他国に『勇猛剛拳』の二つ名が轟いていた時期でもあった。
『ヌァルファ国』の市民達を見つめる黄色の瞳、煤焦げたような黒の肌に大き過ぎる体躯は民族衣装では採寸が合わず、妻が古着を縫い合わせて作った衣装を身にまとい、その上に唯一採寸が合った黒のローブを羽織ってその地へ足を踏み入れる。
──自身の、一族の故郷とも呼べる国へ。
一方の『バルファザル王国』は管轄圏内にある小国の土地を効率よく活かす方法を考えていた。
ある者の意見としては農作物を用いて民の懐を潤した後、関税を掛けて国の資金を膨らませる方法。
ある者は徴兵制度を用いて武力面で活躍、他国に売り込む仕組みに一噛みしようと画策する。
ある者は嘘の触れ込みをさせた後、輸出品の多くを先に『バルファザル王国』で買取、高値で売買する手法もあった。
しかし一時的な資金調達になっても土地そのものを上手く活用方は見つからなかった。
鉱石が採掘出来る訳でもなく、天然スポットのような観光地がある訳でもなく、魔物が辺りを蔓延り、土地が侵されて荒野が広がっていく現象。
「ならば、我らの土地として奪えば良い。人が増えてきておる今、新たな地はどの道必要だったのだ⋯⋯」
その言葉は言わば侵略であり、蹂躙であった。
小さな小国とは経済的にも武力面においても突出する点が少ないからの小国である。
それを『王国』とまで言われた『バルファザル王国』が攻めれば、結果は言わずとも知れた事であった。
反対意見は出なかった──。王政とは即ちそういうものであり、革命でもなければ主導権は齎されない。
嘘が行き渡っていき、王は傍から見れば乱心されたと思われるような勅命を下した。
懐刀として仕えて来た『アーディナス家』を切り捨てる算段に至ってしまう。
王は知っていた、『ドルガンム』は必ず弱き者を助けようとして盾になる事を。
王は気付いている、女しか産まれなかった家系で次の王候補は『アーディナス家』に譲られる可能性がある事を。
王は悟っていた、必ず自分の愚娘は戦果を果たす事を、王は全て見抜いていた。
『ドルガンム』が『ヌァルファ国』へやって来て二日経っても、頭領による扇動もなければ、誰かが王国を揺るがす旗を翳しているといった様子も見受けられないでいる中、惨劇と光は走る。
紅の閃光は固く閉ざされた国一番の大きな扉を跡形もなく粉砕し、直線距離にして四十キロにも及ぶ範囲は火の轍となった。
敵襲が突如にしてやってきた。当然身構え、拳を構える『ドルガンム』は唖然としてしまう。
旗が──翳されている示される栄光の旗印は『バルファザル王国』の物であり、目を疑った。
「どういう事だ!『王』は乱心なされたかッ!!」
静止の言葉を叫び、小国を呑み込む程の魔法と兵、更には『神造器』を持った紅髪の小さな子供まで戦場に赴いていた。
「⋯⋯お止め下さい!シルティア様!これは明らかな侵略行為だ!この国は、民は!扇動もされてなければ、操られてもいないのです!剣を!納めてくださいッ!!」
「ドルガンム?なんでここに居るの?」
「シルティア様!お願いします!この国の民が何をしたのですか?!王はお父上は!何をお考えでこのような⋯⋯」
煉瓦で造られた家屋は吹き飛び、紅色に染め上がった魔力の残滓は炎のように上空を漂う。
人は潰され、家畜は足だけが残り──、小さな子供が血塗れで『ドルガンム』の膝元に倒れている。
「でも、パパ──王の命令だから⋯⋯。怒られたくない⋯⋯。勝って帰ってきたら、一緒に食事してくれるの!あのお父様が!」
「⋯⋯⋯⋯シルティア様⋯⋯。貴女という方は」
憐れな瞳はシルティアへ。父へ期待を掛けられた、たったそれだけでシルティアは人を殺せる。
王の言葉ではなく、父としての言葉に拐かされた少女は剣を握って早一年──歳はまだ十三かそこらであった。
鋼仕立ての胸のプレート、紅の衣の裾は肘まであり、軽量的な肩と腰に装着されたプレートに膝下まであるブーツは戦場への参入へ向けた武装と誰もが分かる。
何よりも、小さな右手に持つは『赤と金に煌めく直剣』の剣身には血が付着していた。
「それに、報酬も出る。『エリシア』の薬費も貰える⋯⋯。退いてドルガンム。私の妹を助けると思って⋯⋯」
苦虫を噛み潰したような表情で俯いてしまった『ドルガンム』の奥歯は鳴る。
小国は小さくとも活気に溢れ、豊かで明日に開催される祭りの為にと民達は笑顔でその準備に邁進していた筈──だというのに、その光景は既に地獄絵図へと塗り替えられてしまった。
瓦礫潰された子供を救う声が一つ消されてしまい、命の懇願を求む複数の声は塵芥と化して、悲鳴は歓喜喝采に押し潰されていく。
掲げる旗印は『バルファザル王国』──侵略者の旗にして、王が頂点に立つ称号にして証明。
「それはこの民には関係のない話です!貴女の妹君であるエルシア様の事は私も胸が張り裂けそうな程ではあります。しかし、それとこれは違う!姫よ!結果に与えた手段を間違えれば、何時か⋯⋯貴女自身の身を滅ぼしますぞ!」
「罰なら受ける。私を見てくれる国王──ううん。家族が居てくれればそれで良い」
剣を握って、瓦礫の山となっていく中央へ目指して脚を動かして行くシルティアとそれを止めようと腕を伸ばすも抱えている子供の僅かに動く感覚に、その腕も中途半端なものとなる。
「シルティア様!どちらへ!お止め下さい!この国の民は!なにもーーーッ!⋯⋯悪い事なぞ、しておられぬのだ⋯⋯。ッッアァァァァァァ!!!」
あらん限りの咆哮。痛ましい戦場は数知れず見てきた男が発した怒りの灯火は戦火が吹き荒れる端で、けたたましく鳴り響く。
死傷者──二万四千人。
重傷者──八人。
行方不明者──提出された国民数と照らし合わせて約一万人。
それがこの国の終わりの数。
戦果を上げたシルティアは剣を翳し、凱歌の中、帰っていく。
男は重傷を負い、託す──。
後から異変に気付いてやって来た息子に。
━ ━ ━
「さぁ、目的地はもうすぐだッチェ!⋯⋯うぅ」
「もう、喋んなきゃ良いのに⋯⋯」
文句を垂れながらも上空から見下ろす砂浜の光景は一言で言えば惨事に近かった。
砂に覆い尽くされていなければならない筈の砂浜は一箇所だけが穴が空いており、辺りには禍々しい赤黒い炎で小さな火柱が形成されている。
「あそこだねぇ〜。⋯⋯っげぇー、【黒点】か〜。ヤダヤダ〜」
穴の丁度真上に辿り着いた浩司とフィローネは見下ろす。
距離的な問題もあって浩司には豆粒程度にか見えないが、穴の中は衝撃が発生しており、タイミングピッタシに浩司の胸部も痛みが起こる。
「うぐっ!あぁぁ〜!」
「行かないとマズそうだね。面倒だから飛び降りて?」
とんでもない事を言い張ったフィローネに浩司は不快感を露わにする。
よもやここまで来て「お前死ね」と言っているようなものだ。
「⋯⋯はぁ?!お前⋯⋯正気か!」
息苦しさを抱えて、唇はマトモに動かず、何とか発声させたその言葉には怒気を込めて異議を物申す。
だが、フィローネはあっけらかんとした様子で笑い出した。
「正気正気ぃ〜、飛び降りなきゃ勝機はないぞぉ〜?」
「⋯⋯最悪だ。⋯⋯⋯っ!」
浩司の腕を掴んでいるはフィローネであり、彼女の意思で落下も空中維持も思うがまま。
そして、フィローネは瞼を閉じて、水色の魔力を身体から放出していく。
雨が魔力に弾かれていき、杖を前へと投げる。
だが、杖は落下せず宙を滞空して緩やかな回転をしていた──フィローネは綴る。
せめてもの餞別、少年へ掛けた情けと自身が施した魔法による影響に対する僅かばかりの負い目がご褒美として魔法を披露した。
「【揺蕩うお前を見届けろ。溶ける泉に墓の文字。落ちる黎明、劈く叫びに波紋の一端。齎し癒して守り抜け。⋯⋯いっぱつぎゃて〜ん!──】」
(⋯⋯⋯⋯え?!)
アドリブ込みの詠唱。あれほど丁寧に綴っていた詠唱は陽気でハツラツとした言葉で水の泡──などではない。
彼女にとって詠唱はイメージであり、途中式。
あくまでも失敗しない為の儀式めいたものであり、詠唱があろうが、なかろうが、些事程度の事。
杖に蓄積されていく魔力は水色。雨の透明性を軽く凌駕する色合いは鮮明であり、杖の先端が上を向いたと共にフィローネはその魔法を喚ぶ。
「【惺泉冥加の波紋護】」
上空に齎す小さく僅かな水色の光柱は曇天をほんの僅か穴を空けた。
大気が揺れる。浩司の身体は意識せずに震えて、視界はグラついていき、フィローネは蒼白となる。
一閃の光は彗星の如く煌びやかな輝きを持ってして浩司に降り注ぎ、水飛沫が駆り立てられる。
現実の海が何かしらにぶつかったのではなく、魔法による効果が齎した文字通りの効果音。
「これは!⋯⋯痛みが⋯⋯」
身体に纏わり着くのは水色の羽衣。キラキラとビーズのような形状をしたものが幾つも付いており、水面に映る天の川銀河のようであった。
「まぁ軽度だけどね?この魔法の本質はなぁぁんと!!一発死がない!ゲームで言うなら一回無敵!いや〜ん、浩司きゅんったらかっちょいいー!」
「お前って凄いんだな⋯⋯」
素直な賛辞が思わず出る。未だ殴られ続けるシルティアとの繋がりが鈍化したように、痛みが軽度となっていて、あれほど激痛に苛まれた筈の身体は確かに軽く感じていた。
「おやおや?もっと褒め讃えてくれてもモーマンタイなんだよ?ほらほら〜、フィローネちゃんは可愛いって!ほら!」
満面の笑みで肯定感を齎す為のご褒美。ウッキウキでルンルンなフィローネの頬は緩みきっていた。
「カワイイカワイイ。チョーカワイイ。撫でてあげようか?あやしてあげようか?市販品のミルクは冷ため?温め?それとも火傷なみ?」
「ちょっとぉぉ!私のお陰で君、一回限りは死なないんだよ〜ッ!もっとあるじゃん!よっ!フィローネちゃん!銀河一⋯⋯とか!」
大きなアドバンテージとなりうるのは間違いない。
シルティアが使えば一度受ける致死的ダメージがゼロと見なされる。──言い方を変えれば強敵を相手にした時、浩司に齎される影響が一度だけないようなものでもあり、どれほどそれが有益かが分かる。
とはいえ、持続的かつ強大なダメージを負う攻撃には無力に等しいのだが。
そして、浩司にも分かる事が一つある。
それは、この高所から落ちればどの道死ぬだけという話だ。
「どの道、降りるんだから、アイツの攻撃食らっても死ぬんだよッ!」
自分から振り払った手は身体に圧倒的な浮遊感と不自由さを与えた。
真下からの急降下はさながら流星と見まごう様。
「⋯⋯なんだ、わかってんじゃん〜。さぁてと、放浪ちゃんの魔力はっと⋯⋯。アッチかぁ。ちょっと遠い⋯⋯うぇぇん」
浩司は叫ぶ。豆粒程度であったその存在を目視で確認し、雨に打たれて血溜まりが洗浄されていく中、か細い息遣いで瞼を開けて上空から来る少年に驚きが隠せずにいた。
男は少年の必死の制止の言葉に上を見上げる。
「⋯⋯⋯⋯なに?!子供が!落ちるだとッ!」
受け止めるか避けるか。【黒点】に課された二つの選択肢は眉を顰めさせる。
パラシュートなし、重い頭部を下方向に、加速して耳鳴りがする中、恐怖心は増す一方であるにも拘わらず、視界に移る紅髪の女性の居た堪れない姿に憤慨する少年は男へ向かって一直線。
「何やってんだァァァァァ!!!」
「んっっっ!!!」
とんでもない飛距離からの頭突きが炸裂した。
男は迷った末に何も出来ずに受けてしまい、少年は男を殴ろうとして腕を動かそうとするものの、加速が付き過ぎた状態で腕をまともに動かせず、気付けば頭突きを繰り出してしまう。
男と少年はそのまま勢い余って穴から脱して、柔らかい砂浜へと落下。
男は仰向けのまま状況が呑み込めずにいて、少年は砂浜をうつ伏せで滑るようにして二人の距離が空く。
「がはっ!がはっ!あ〜、痛ってぇぇぇぇ!⋯⋯⋯⋯あ、シルティア!」
急いでシルティアの元へと駆け付けようとする浩司は気付かない。
既に天の川さながらの輝きを内包した羽衣は身体から脱ぎ捨てられており、魔力の残滓となって曇天の空へと舞って行く様に。
「な⋯⋯んだ?!子供?魔力を持っていなかった。⋯⋯つまり、この世界の子か?」
顔を動かして見つめる先は自身が形成した穴に再び入っていく少年の姿。
シャツの背中部分は破れてしまっており、背中には擦り傷では説明の付かない程の血が流れていた。
ダイブリンには一瞥も向けず、ひたすら紅髪の女性の元へと駆けて行くのみ。
「おいシルティア、無事か?」
『赤と金の装飾が施された直剣』の傍で倒れ込むシルティアへと声を掛けた。
反応はかなり遅く、口をパクパクとさせながらも絞り出すように発せられる。
「はぁ、はぁ。うぅ。こぉぉじぃ?」
掠れた声に何処か焦点の合っていないオレンジ色の瞳はゆっくりと浩司へと向けられていく。
浩司が最後にシルティアを見た時に比べても顔が随分と潰れてしまっており、鼻と腕脚は歪曲、頬は歪に変形、身体の至る所から血液が流れてしまっている。
上空から見下ろしていた時には全く気付いていなかったが、戦闘用の衣服の一部でもある胸のプレートは身体に捩じ込まれたように、破片が胸部に刺さってしまっており、白の衣はボロボロを通り越して無いのと同じで、中に着ていた赤のインナーかなければ、恐らく上半身は裸となっていたであろう。
(よくこれで⋯⋯っ。生きててくれた!)
ゆっくりと丁重かつ優しく、繊細にシルティアの手の指に触れて、本当に微かで微弱な指の動きに安堵した浩司は血に塗れた頬に触れた。
「あぁ。良かったぁ、無事で⋯⋯」
このシルティアが受けた痛みが自身にもやって来ていたという事実。そして、本当の意味で浩司よりも身体機能がギリギリを迎えてしまっているシルティアに涙ながらに微笑む。
だが、その安堵の時間も終幕が訪れた。
「無事ではない。間もなく死ぬ」
大きく跳んで穴へとやって来たダイブリン。
浩司は改めて頭突きで突き飛ばしてしまった大男を見上げる。
(で、でかい⋯⋯三メートルはあるんじゃないのか?!)
茶色に焦げたような肌色にボディビルダー顔負けの筋肉悠々な体躯は拳一振で大木をへし折り、南瓜も握り潰せそうな程に大きな手。
一歩一歩が周囲の身体を揺らしそうな程に膨れ上がった太腿。
何よりも見るもの全てを睨んだだけで殺せそうな赤い瞳は思わず浩司の視線を下に向かわせた。
しかし、そんな萎縮したようにも見える浩司だが、歯を食いしばり、改めて【黒点】を直視する。
「ア、アンタが⋯⋯殺すからか?」
ダイブリンは僅かに瞼を見開いた。
(この子供⋯⋯何かの呪いにでも掛かっているのか?生命力が特殊な流れをしている)
睨まれた事で始めて気付く浩司の身に流れる何か。
強敵になりうる何かなどでは決してないもっと普遍的であり、男の眼で常に見えてしまう身体を循環するエネルギー。
魔力とも違う、純粋な活力や気力とも呼ばれるものの総称を『生命力』と言われるものの流れが一般的な人間とは違う体質であると見抜いた男は半月型の武器を呼ぶ為、右腕を僅かに上げて、グッと掌を閉じた。
「その女の持っている『神造器』は魔力があれば瀕死に近い状態からでも回復出来るからな。自然にはそうそう死なぬ。だから我が潰す」
ブーメランのような回転で上空を移動し、ダイブリンの足元付近に鋭く、地面にヒビを入れながら突き刺さる物が一つ。
とてつもない重量から繰り出された砂埃は浩司の視界を一気に遮り、シルティアを庇うように彼女の真ん前に立った。
途端、突風にも似た風が吹き荒れた。
それは誰が起こした者か浩司には嫌でも分かってしまう。
それは粗い削りの剣身。柄頭と鍔を削って、剣身の端に縦に穴が空いており、漆黒の長い布が巻き付けられている縦に伸びた握り部分。
その半月を凶器として使っているような形状のソレでシルティアを含めて数多を屠った曲剣──『大断剣』はダイブリンの手がしっかりと掴まえていて、砂埃を一度の薙ぎ払いだけで散らせてしまった。
「っ⋯⋯⋯⋯」
「退くのだ!この世界の名も無き子よ。この女を庇った所で裏切られるのがオチだ!」
「裏切る?アンタはシルティアに裏切られたのか?」
思わず疑問で問い掛けてしまう。
浩司が知っているシルティアとは裏切るといった手段を取るような性格にも気質にも思えず、仮に裏切るにしても、その裏切り自体に何か思惑があるのではないか?と考えてしまう程には誠実な女性として映っている為、男の語るシルティアとで、ズレのようなものを感じてしまったのだ。
「我が一族が小娘の⋯⋯『ユーベルアイン』によって滅ぼされたのだ。故郷も親も、産まれたばかりの赤子すらだッ!!」
沸き立って抑えられない激昂の感情は、目の前に居る少年に危害を加えたくないという純粋な優しさのみで耐える。
「⋯⋯⋯⋯そうなのか?」
身体に無理をさせている事を承知で背後に居るシルティアへと声を掛ける。
綺麗な顔が滅多打ちのボッコボコなのと合わさって、言い難い何かを顰め面で言おうとする為に、更に酷い顔付きとなったシルティアは、僅かに口を開けて「あぁ」とだけ小さく紡ぎ、ダイブリンの身体から放出される魔力はより一層強大かつ荒々しいものへとなっていく。
「肯定したな。ッ死ね!」
青筋を立てて曲剣をわざとらしく構える姿は殺害警告と逃走勧誘の二つ合わせ。
だが、少年は逃げない。逃げようにも脚が竦んでしまっているというのも勿論ある。
だが、浩司にだって意地があり、恐怖心があり、そして何よりも──譲れないものがある。
「待て!!」
両腕を広げて静止のサインを示す。
これは──浩司がカッコ良いだけの話でもなければ、勇ましく勇敢な人間になる話ではない。
少年の我儘とほんの少しの甘えから始まった同居物語なのだ。
──同居人は異世界人。
それ故に浩司は現実を少しでも彩り、満足して生きたいが為の物語。
「退けと言った!二度はない!」
急激な速度て接近するダイブリンに身体が反応せず、震えた身体を盾にして半ば強引に動きを止めさせた。
(こ、怖い⋯⋯。言ったとしても多分大丈夫。⋯⋯大丈夫。大丈夫ッ!)
より一層激しさを増す雨はシルティアの身体から溢れ出る血液を洗い流す事はしても浩司の焦りを流してはくれない。
視界は無数の縦線が引かれた雨粒で覆い尽くされれいき、身体を無理矢理地面に叩き付けているようであった。
意を決した浩司は自身の首に親指を押さえ付けて、言明する。
「なら、僕ごとやれ!僕を殺せば、どの道シルティアも死ぬッ!」
シルティアの瞼が僅かに開かれた。
ダイブリンは少年を凝視する。巨大な曲剣を握っていた右手の力は脱力気味になるも、察した様子で今一度力強く握り直して浩司の後方に居るシルティア目掛けて怨みに満ちた視線を向けた。
「っっ!なに?!⋯⋯⋯⋯そうか、【紅閃姫】ッ!!こうなると見込んで、人質を!!なんたる所業ォォォォ!おのれ!何処まで腐り尽きてしまえば気が済むのだァァァァァァ!!」
咆哮は轟き、近くで鳴り響く雷をも圧倒する。
比較的に近場に居る浩司は耳を思わず抑えて、瞼を閉じてしまう程に脳へと響き、身体を刺激させていく。
雄叫びと早とちりから発生した憤怒の念は五年にも渡って積み重なったものと混ざり、曲剣を前へと突き出した。
「なんの魔法だ。我の『大断剣』の本質は盾であり、『断つ』事に突出した『神造器』である。この美しい世界に住む名も無き少年よ。貴様に巣食った呪いを解いてみせよう!」
(⋯⋯⋯⋯え?)
『大断剣』は攻撃するべき剣であり、守る為の盾を両立したシンプルな性能には留まらず、最大の強みは『断つ』という概念そのものにある。
『呪いを断つ』『海を断つ』『性根を断つ』といった因果関係や連結しているものを完全切断する事に特化した『神造器』である。
だが、生命には万能ではなく、むしろ逆効果となるだろう。
この剣の性能は持ち主によってオンオフが自由ではあるが、仮にオンの状態で人の生命を『断った』場合、命が二分割されてしまい、意識も在り方も価値基準も同じ生命体の精神が一つの身体に入った状態となるという致命的欠陥も抱えている。
しかし、この男ならば問題はない。強靭な肉体から繰り出される一振りの強撃は相手の身体ごと半ば強引に二分割するからだ。
そして、浩司に施された『生命の繋がり』は『大断剣』にとっては格好の餌以外の何物でもない。
「触れるだけで良い。それだけで自由の身だ。我に任せて貰いたい」
丸まった剣身部分を地面へと向けて、触れるように促すダイブリンの表情はおだやかなものであり、少年が自主的に腕を伸ばすのを待っていた。
まるで「握ってみろ」と言わんばかりの持ち方、見せ方をするダイブリンを静かに見つめた浩司の右手はそっと伸びていき、意を決した顔付きで、握っていたダイブリンの右手を殴り付ける。
「⋯⋯⋯⋯いらん」
ダイブリンは唖然とした。殴られた事に関して、彼はこの程度の痛みを蚊に刺された事以下のものと受け取っている。
だから、それに対して当然リアクションした訳ではない。
「⋯⋯何故だ!」
(何故、このような呪い紛いなものを受け入れている?何故だ⋯⋯何故ッ?!)
ダイブリンは『生命の繋がり』を知らず、何故少年と【紅閃姫】がその魔法で命が繋がっているかを見聞きしてもいない。
だからあるのは、素朴な疑問と少年に対して理解が追い付かない事による困惑のみ。
「アンタ、勘違いしてるんだよ」
「我が?」
「そうだよ。シルティアじゃないし、僕でもない。アンタがだ」
据わった瞳は二倍近くある身長と三、四倍はあろう肩幅を持つ男へと。
勘違いや思い違いは、早めに正した方が後腐れもなければ今後の支障は少なくなるというものだ。
しかし、今の浩司にとってはそれらが問題で語ろうとしているのではない。
少年は彼女との出逢いと始まりを汚された事へ憤ったのだ。
顔合わせは放課後に済ませ、夜の街に繰り出して再会からの同居暮らし。
ハイスピードかつ唐突な物事が多かったあの日の出来事を、何も知らない奴が好き勝手に言われるのが我慢ならなかったのだ。
「いいか?そもそも僕が死ねばシルティアも死ぬってのは、元々、僕を助ける為にしてくれた処置だ。お前の言う人質じゃない」
「何故そう言い切れる?少年を意図して巻き込み、もしもの保険として使った可能性も否定出来ぬだろ?」
「だって、その魔法⋯⋯シルティア使えないもん」
フィローネが昨日の内に散々と語ってくれた情報。
放課後に自転車で帰っている途中に聞かされた一つの事実。
それは『シルティアは自前の魔法を会得していない』というものであった。
【紅臨】や【永劫なる紅刻の一閃】はシルティアの魔法ではなく『神造器』に宿った【魔法】でしかない。
剣を抜いたその日から、彼女は『神造器』に憑かれてしまい、人間として覚えていた筈の魔法は全て使えなくなり、生涯朽ち果てるその時まで永久にそのままとなってしまった。
そんな彼女に『生命の繋がり』なんて魔法が使える訳がないのである。
「⋯⋯⋯⋯し、知ってた、のか⋯⋯」
「あぁ、聞いたからな」
「だが、使用者と協力して──」
「それもない。そもそも殺し合ってた所に注意も聞かないで飛び込んだ僕が原因で使った魔法だ。僕が飛び込んだのは二人にとっても想定外だったらしいし⋯⋯」
誰もあの日の夜、あの場所で、シルティアが雨を用いた魔法による光線で穿たれる直前に「盾になってくれ」とお願いされた訳でもない。
自らの意思で、その日偶々、常識外れの現実を目撃した上で『助けたい』とトチ狂った事を考えてしまい、一方的にやられてしまう【紅閃姫】を見て、同情的になってしまったのが全ての始まりなのだ。
そこにフィローネやシルティアの意思の介入はなく、むしろ帰るよう促している間である。
「仮にそうだとして、何故魔法を解こうとしない!自由の身なのだ!この女と関わりがあるだけで、少年の生を蝕む事だってある!」
「⋯⋯⋯⋯アンタ、優しいんだな」
「我が憎むは『ユーベルアインの血筋』のみ。少年を恨む筋がない」
『ユーベルアイン』は必ず何かをやらかす。
その先入観は一族を滅ぼされてしまった為に植え付けられたもの。
男は生真面目であり、質実剛健であると共に慈しむ心を持っている。
それ故にどうしても許せない者も現れてしまう。
浩司に語り掛ける言葉の端々からは懸念と心配の念が垣間見えており、シルティアをタコ殴りにして顔面複雑骨折では済まない程に痛ましい姿へと変えた人物であると分かっていて尚、恨む事も、憎む事も出来ずにいた。
「元来からか⋯⋯。だったらその優しさに免じて、去ってくれないか?」
「断るッッ!!少年、我はその気になれば無理矢理魔法を解かせてその女を潰す事だって出来るのだ」
「じゃあ何故しない」
「⋯⋯⋯⋯我の力加減一つで、この世界の者は容易く生を失う危険があるからだ」
触れて怪我でもさせてしまえば大変だから自分からは極力触れない。
つまり、そういう事である。
事実、力加減一つ間違えれば少年はあの世への片道切符を手にしたままご乗車頂くこと間違いなしではあるのだ。
「成程ね。強者故の言葉だな。羨ましいよ、ホント」
どちらも譲らない平行線。男は律儀に優しい人物であると知ってしまった故に浩司は諦めたように倒れた彼女の右手側へと脚を運ぶ。
最終手段として頭の片隅に置いてあった『諦めさせる方法』を使う時が来てしまった。
「⋯⋯⋯⋯ん?何をして⋯⋯少年!?」
「こーじ?⋯⋯⋯っ!」
彼女の傍には『赤と金の装飾が施された直剣』が一本、確かに転がっていた。
その剣で自身の首元に剣先を向けて見せる。
「なら、これで良いだろ?お前はシルティアが死ねば満足。僕はシルティアをお前に殺させない事が目的。なら、僕が自害すれば、良いとこ取りだな?」
暴論と辻褄合わせのごった煮の自論を展開する浩司ではあるが効果は覿面であり、ダイブリンがここに来てようやく初めて焦った表情が窺えた。
「正気か!!」
「勝機だから正気なんだよ」
そう言い、更に首元に剣先を近付けていく。
用意周到な事に、手首にも剣身を触れさせており、仮に迅速な速さで剣を奪われそうになっても脈を切れるように二段構えをしている。
「やめろ⋯⋯。わ、私の、がはっ。うぅ、為に!」
「勘違いするなシルティア。僕はそもそもの話、コイツだけが悪いって思ってない。清算してないお前にも問題はあるってだけで、僕の為でもある!」
結局は自分の為なのだ。それが全てであり、シルティアやダイブリンの事情はむしろ二の次程度のもの。
「その手を離すのだ!」
「⋯⋯⋯⋯なら。僕から、奪わないでくれ」
「なに?」
言葉の意図が掴めないダイブリンの表情は固くなる。
奪った試しはないと言い聞かせる彼の心の声が聞こえているかのように浩司は言葉を続けた。
「僕には家族が居ないからな。⋯⋯アンタみたいな優しい奴に僕の家族を奪って欲しくないんだ」
「⋯⋯⋯か、家族っ⋯⋯」
「何があったかなんて僕は聞くまで分からない。でも、これだけは言える⋯⋯。アンタの怒りはきっと正当なんだと思う。でもそれは正当なだけで、皆にとって良い事ばっかじゃないんだ。少なくても僕とシルティアと繋がってる魔法が僕にとって悪影響なのは今日で嫌って程分かった」
授業中に起きた突然の圧迫感は汗を滲ませて、トイレ前では大声で叫んでしまい、階段では地団駄を踏んだように苦しむ様を友人に見られてしまっている。
醜態といっても過言ではなく、明日からの学校生活に支障をきたさない事を切に願うばかりなのだ。
それも全ての切っ掛けは『生命の繋がり』という欠陥魔法によるものであり、自身の血迷いから生じた布石の結果である。
「⋯⋯んっ。すまない⋯⋯」
シルティアの目元は震える。しかし、涙は出せないでいる。
それだというのに、ツンと身体を火照させるような熱さが込上がってきて、弁明の一つも投げ掛けられない自分を恥じた。
だが、少年は決してそんな言葉が欲しいのではない──だから、満足そうに雨にも負けない程の覚悟と真意で二人に伝える。
「でも、僕はそれで良い。助けて貰った魔法と彼女と一緒に行きてく。彼女は僕の同居人で、家族で、大事な人だ。僕の一要素を取らないでくれ」
少年は孤独になった。
友人は居ても家族は既に事故で他界し、独りぼっちとなって初めての帰宅で全てを悟ってしまった。
孤独は死ぬ事より怖い事なのだと──。
朝起きる時間は静まり返って、食事を取る時も四つ分あるダイニング椅子は埋まる事はなく、テレビを付けても気休め程度であり、電源を落とせば何もかもが無くなったような感覚に囚われ、ふと見上げた時計の時刻は仕事から親が帰って来る時間だと気付くと、気が狂いそうになった。
思いがけない喧嘩別れが糸を引き、部屋に篭る時間だけが着々と増えていく毎日。
霊安室で見た光景はフラッシュバックとして残り、起こる発作は心配の声をくれても寄り添うものではなく、自然と友達は減っていって、最後に残ったのは四人程度。
だが、今は違う。少なくても二人、同居人として少年の傍に居てくれる事が何よりの喜びであり、生き甲斐となってしまっている。
何度でも綴ろう。
これは──少年がカッコ良いだけの話でもなければ、勇ましく勇敢な大人になる話ではない。
ぬるま湯に浸かり続けたい少年が、何時までも異世界人である同居人を使って幸せを感じていたいだけの滑稽な物語なのだ──。
終わりを信じず、永久を求め、理想に生きたいと内心では叫び、喚き、吠えるだけの子供と、そんな子供の真意に気付かずに同居人として暮らす異世界人の物語だ──。
「⋯⋯⋯⋯こぉじ⋯⋯はぁ、はぁ。うぅ」
身体を動かそうとするも結局は動かせず、それならとへし折れた右腕を伸ばそうとする。
痛みは苦悶の表情を浮かべて、溢れる感情は雨などでは決して冷ませられない熱を帯びていた。
一方のダイブリンはというと、怨嗟の熱は冷めきってしまい、『大断剣』を地面に軽く突き刺して、胡座をかくように座り込む。
「その剣を納めろ⋯⋯。我は気が失せた」
諦めたように大きく息を吐き、瞼をそっと閉じる。
「これほどまでに言われてしまい、か弱き者の意見一つ聞かずして、戦士は名乗れはしない。⋯⋯毒気が抜けた⋯⋯という奴なのだろう」
「⋯⋯ありがとう」
少年の感謝の言葉に何処か誇らしげに微笑んだダイブリンは、剣を置いて一目散にシルティアの元へと 浩司へと視線を向けた。
「聞いてくれぬか?我が何故、この者を狙うか」
「あぁ。聞くよ」
ようやくシルティアの腕が浩司に届いた頃、ダイブリンは上空を見上げて睨み付けた。
まるで鬱陶しいとばかりに。
「だが、それにはこの雨が邪魔だな」
立ち上がると同時に曲剣を持ち、大きく跳んだダイブリンに浩司は呆然としてしまう。
(散々打たれといて今更何を?)
ダイブリンは砂浜へ佇み、上空を見上げるや否や、曲剣を横に持ち、空へ射抜くような姿勢となる。
「【金色の歯車。頂きに座するは聡明なる射手。尽くすは愛なる音色。──】」
浩司が不審がる。シルティアが訝しむ。
突然の詠唱、彼が呟いた言葉の真意に先に気付いたのは、浩司であった。
「【奏でる恒久、騒めく鈴鐘。象るは皇后の盛者必衰──】」
鐘が鳴り響く。福音の音色は小さな鈴と共に砂浜はおろか、街全体に響き、リディナの元へと吐きそうになりながらも辿り着いて、治療をしていたフィローネも聞き耳を立てて、上空を見上げてしまい、高校の校舎で眠っていた教師、生徒達も意識が戻り始める程には轟く黄金の鐘の音。
傘を差す街の住民達は雨にも拘わらず、傘を僅かに反らして上空に鳴り響く音を注意深く耳に入れていく。
「【邪気を振り払う黄金讃歌の一撃よ。塵芥の末を刮目しろ!──】」
『大断剣』は黄金の魔力か纏わり始めて、黒の布が巻き付けてある握り部分は魔力により弓の弦のような形を形成し、その弦を摘んで引っ張る。
ダイブリンは──【黒点】は曇天を衝くかの如く、その魔法名を叫ぶ。
「【黄金よ世界を救う一撃となれ】」
曲剣『大断剣』に集まった黄金の魔力は弦を摘む手が離れたその瞬間、激しい摩擦音を掻き立ててながら、天へ飛んでいく。
流れ星と見違える程の煌びやかな光は黄金の粒子を空へ噴出させながら、雨を諸共しないその一射は衝き抜けた。
灰色の雲の上へと隠れてしまった黄金色の矢が光のアーチとなって、曇天を押し退けるように広がっていく。
徐々にその大きさは広がり、広がって、広がりが更に拡大して、日本全土の上を漂う雲は完全に消滅した。
そんな黄金の輪っかの中心は巨大な黒点が形成されて、瞬間的な夜を到来。
だが、その黒点も中心に引っ張られるように圧縮されていき、最後には何も残らず、晴れ晴れとした快晴の空が窺えるようになった。
「うっそ〜ん。空が晴れた⋯⋯」
浩司は目が点となって、唖然とした様子でこれらの光景を見ていた。
分かった事は、上空一直線に馬鹿デカくて光っている回転しないブーメランみたいな矢が街を覆い尽くす程の曇天を全て追い払い、運動日和の良い晴れへと変えたという事のみ。
一瞬暗くなってしまった理由も何故すぐ明るくなったのかも分かっていない。
そんな疑問を与えた人物が再度穴へと豪快にやって来た。
何処か満足そうに空を見上げて、頷いたかと思えば浩司の前へと座り込み、笑みを浮かべて言う。
「これで、話し合いが出来るな」
だが、そんなダイブリンの笑顔の出処なんてものは浩司には関係がなかった。
それ以上にあってはならない、とんでもない憤りを覚えてしまったのである。
「⋯⋯おい、テメェ。何やってんだッッ!!」
「なにっ?!」
思わず悪態をついてしまう。
そう、それは浩司にとっては朝の至福であり、安らぎの時間であり、天使が降臨為される時間。
天気予報である。
お天気お姉さんの戸頼さんの予報は『一日中曇り空、夜中に晴れます』というものであった。
奇しくもダイブリンはその予報を大きく外すような結果を齎してしまったのだ。
雨は降っていたのも確かで、結果として予報と違っていたのも浩司は当然分かっている。
だが、お天気お姉さんが十発中十発全て的中なんてさせられるとは思っていなかった為──いや違うだろう。
単純に推しだから許しただけなのだ。
そしてそんな推しの顔に泥を塗る真似をした肉ダルマを浩司は決して許さない。
「この、ぶぅぅぁかぁぁぁ野郎ォォォォ!」
そして、シルティアの痛みは感覚のみではあるが連動している為、叫んだ三十秒後、突然倒れてしまうのであった。




