14話 急天候
豪雨にも満たない大雨が人の男の身体に押し込もうとするように雨粒が跳ねていく。
三十階層もあるマンションの屋上に佇み静かに冷えた街を眺めるその瞳は赤い蛍光ライトが光っているようにその存在を確かに証明していた。
眉が微かに動くと共に、注視するように顔が緩やかに左方向に向かっていく。
アスファルトを傘も差さずに健気に走る者が一名。
不思議な事にその少女は傘を差していないにも拘わらず、雨が一滴足りとも衣服、髪、靴、素肌に当たっている事はなく、正しく大々的なマジックショーのようである。
そんな大胆不敵な少女は金髪に縦ロールに青の瞳で高校の制服を着用しており、傍から見れば留学生のようであった。
日本の雨が物珍しいとでも思っているのか、傘を差し忘れても晴れやかな笑顔は傘を差して道中を歩く者達にはその顔は映らない。
体温は雨により低下する。男の口から漏れた吐息は白く、燻したてられた蒸気は辺りの空気を熱くする。
赤き警鐘の瞳は人混みに紛れる少女に食らいつこうかと迷う程、殺意沸く意欲を抑え付けながら、静かに凝視していた。
屋上の塀を越えるか、黙って見守るか。
二択が脳内を支配して、最後には越える選択を選んだ男は歯茎が見える程に食いしばった表情をすると、脚に力が込められる。
左脚が後方へと擦られるように移動して、飛び降りる前兆にも思える体勢で身構えた。
しかし、その動きはピタリと止まり、毒気が抜かれたように仁王立ちで遥か下の地面を注視する。
金髪縦ロールの少女は電車の改札へ入って行き、人混みに紛れて行く様子が窺えて、思わず目を細めた。
「悪鬼羅刹共め⋯⋯。駆逐してやる」
轟音は響いた。偶然建物の近くに居た帰宅途中のくたびれた様子を窺わせる女性はふと上を見上げる。
「雷でも落ちたのかしら?」
傘は無い。予報では夜中の降水確率は三十パーセントであり、残り七十パーセントに賭けたその女性は傘を所持する事を躊躇った結果である。
だからこそ、微かに映り込んだものに一瞬、首を傾げてしまう。
屋上には誰も居なくなった。雨は激しくなる。
━ ━ ━
お天気お姉さんは顔が良くないと採用されないと聞いた事があるが、僕達視聴者は割かし顔なんて見ていない。
忘れてはならないが、観ているのは『天気』予報だ。
ましてや天気を推測するのもアメダスであり、伝える係なのだから別段、顔が良かろうと悪かろうと構わない。
「今日もくっそべっぴんだな。戸頼さん⋯⋯」
そう、構わないのだが目の保養にはなるし、顔が良い人を見て恨んだり妬んだりはしない。
むしろ、得をしたまである。
「誰だ?戸頼とは?」
「あの人」
寝起きの舌っ足らず感が一切ないシルティアの疑問にいち早く指差した先はテレビのモニター。
茶髪にクリっとした瞳に整った顔立ち、白を基調とした衣服を好む傾向があり、薄い桃色のスカートが似合っている。
僕のお気に入りの天気予報士。この人じゃないとむしろ見ないし、予報が外れても喜んで受け入れる。
他の人なら、呪って祟って、テレビ局を放火しに行くと誓う。
スマホの天気予報を見ればそれはそれで楽なのだが、得をした感が出るのはテレビだけだ。
「こういった女性が好みなのか?」
「え?そうだけど?」
リビングに置いてあるテレビモニターを睨み付けるように瞼の間隔が細まる。
唸るような声をわざとなのか上げるシルティア。
肌触りの良い短パンを履いている彼女だが、お尻を突き出していて、これもわざとなのかと疑ったが、恐らくわざとと言うよりも意図してないだけだ。
「なるほど、うぅ。確かに美人だ⋯⋯。面識はあるのか?」
朝早くから朝食を食べ終えた僕は皿を片付ける為に立ち上がり、そそくさとキッチンへと食後の皿を持って行く。
一方の彼女はテレビの前から動こうとしない。
「ないよ。あったら握手する。そしてもう洗わない。そう決めてる」
皿をお湯に浸していく間、ダイニングテーブルにある朝ご飯の仕上げであるパンを焼く為、オーブントースターにパンを二枚突っ込んだ。
「コージ、なんだか怖いぞ?」
「怖いものか!今時のお天気お姉さんはレベルが高いんだぞ!皆、戸頼さんに夢中なんだからな?」
「そうなのか?⋯⋯勉強になる」
嘘だ。むしろ、学校で戸頼さんの名前出した事があったが、誰も知らなかった。
薄情者共め、こんなべっぴんさん他に居ないだろうに。
一体全体何が気に食わないのか。顔立ち?スタイル?
確かに戸頼さんはボンキュッボンと呼ばれるグラマラスボディと呼ばれるものではないのは確かだ。
だが、言い方を変えれば、高嶺が過ぎず、でもギリギリ届かない。クラスで三番目位の美人と言われればそうなのだろうが、それが良いまである。
別段、倍率が高くて日和ったという訳ではない。
大事なのは、自身の隣に居るという想定をした時、見合っているか、いないかの差なのだ。
戸頼さんは一般受けが良さそうであり──ほら、今笑った!可愛いぃぃ!
「っぱ、戸頼さん最高ーッ!」
微笑みの爆弾とはこの事か。モニター越しから映し出される鮮烈かつ光明なニッコリスマイルは朝早くから既に僕のテンションを突き上げていく。
これで二十六歳なんだから、天使だな。
「コージ、テンション高い。どうしたの?紅姫?」
「リディナ、私もお天気お姉さんになれるだろうか?」
「え?じゃあ一回でも予報外れたら貴女は即引退ね?」
「流石に酷くないか⋯⋯」
どうやら寝坊助リディナが部屋から出てきたようである。
大きく欠伸をして、目を擦ってリビングに居る僕の元へと近付いて来た。
「コージ。ご飯」
僕に対する第一声は『おはよう』ではなかった。まさかの食事の要求である。
食いしん坊様々なご様子であり、僕の隣に腰掛けて体育座りで眠気まなこが抜け切らないようだ。
「テーブルに置いてるぞ」
見つめる先はダイニングテーブル。既にパンの焼き上がりまで残り僅かとなった為か、シルティアが用意してあった平形の皿を手に持ち、出来上がりを待っていた。
「え〜、あそこまで行くの?」
「いや、徒歩五歩圏内ぞ?」
「おんぶー」
ヘニャヘニャとして液状にでもなるのかと思える程、寝起きの甘え具合が酷いリディナ。
背中に顔を埋めるように僕に密着する彼女だが、寝起き故か体温が高い。
そんな熱を離すまいと、腕はしっかり腰辺りをホールドキャッチして離してくれないのだ。
これで胸があれば──くっ!悔やまれるぜ。
「⋯⋯お前、初めて会った時とえらく違うな」
「あれはオンモード。オフはダラけるって決めてるの」
やる気のない気怠げな声色でふにゃふにゃと芯のない彼女は眠たそうに唸り声を上げる。
すると、パンの焼けた合図が鳴った。
出来たては熱いと相場が決まっているのだが、シルティアはなんて事のないように掴んで皿にパンを乗せていく。
僕の真似をしてなのだろう、インスタントの味噌汁も密かに作っていたシルティアはパンが新たに盛られたスクランブルエッグとキャベツの皿、味噌汁が入った椀をリビングのローテーブルへの移動が完了し、朝飯が並んだ机へ向けて微笑んでいる。
そんな彼女に申し訳ないとも思い、いよいよ僕の背中に乗り始めたリディナを背負ってリビングの方へと行こうとする。
すると、たった二歩で一気に背中に加わっていた重みは消えた。
「全く。ほらリディナ、私の腕に掴まれ。運んでやる」
どうやらシルティアが僕の方へと向いて、事態を察してくれたようだ。
別にリディナの体重がバカ重いという訳でもなく、むしろ軽い部類なのは分かる。
だが、僕は人を背負って歩く経験が全くない為、歩きにくいのだ。
その為、不細工で情けない歩行だったに違いない。
そんな情けない歩行で楽しようとしたリディナは不貞腐れた表情でシルティアによって掴まれた腕を払い除けて、僕の方へと再度向かって来る。
傍から見ると、姉に駄々こねる小さい妹の図だが、笑う訳にはいかない。
ここで笑えば、変人認定される事だってある。
「紅姫の握力だと私は死んじゃう。コージで良い」
(で、ってなんですか?で、って!消去法で選ばれたの?!僕は?)
悲しい現実だ。僕とシルティアを天秤に掛けられて勝った事よりも、前提として勝とうが負けようが、どの道あまり嬉しくない。
この子、さては性格悪いな?
「文句ばかり言うな。コージを困らせてお前は楽しいのか?」
(そうだそうだ!言ってやれ!もっと!)
密かな声援と心からの歓声は掻き立つ。
このままギャフンと言わせてやるべきだと、僕は拳を天井へ向かって突き立てて、シルティアを全力で応援した。
「むー。はいはい。分かった。じゃあ、ここで食べていい?」
どうやら、挫けるのが早かったようだ。応援も声援も要らない程に早く終わってしまった為、見られない内に拳は開いて、そっとキッチンへと戻る。
「コージ?」
「え?あぁ、良いぞ」
「わーい。⋯⋯そういえば、二人共食べたの?」
ダイニングにある朝食が盛られた皿は誰のものか、その確認もあるのだろう。
恐る恐るといった具合に聞いたリディナはリビングからテコでも動かないつもりなのか、腰を下ろして体育座り。
「私はまだ食べてない」
「コージは?」
「先に食べた」
ダイニングテーブルからリビングのローテーブルへ、朝食のお引越しを着々と済ませていく僕は体育座りで待ちに待っているご様子のリディナの前へと皿を並べていく中、シルティアはパンにかぶりつく。
香ばしくよく焼けたパンから鳴る食感と焼き目から発生する音はリディナの視線を惹き付ける。
「リディナちょっと待ってくれ。パン焼くから」
「は〜い。ワクテカ〜」
丁度残り二枚。六枚入りの食パンをそれぞれ二枚ずつという中々にキリが良い事に少し笑みを零してしまう僕は、パンをオーブントースターに入れて焼き上がるのを待った。
「あ、コージー!運動しやすい服はあるか?」
リビングからダイニングに届くぐらいの張った声。
シルティアにとっての運動が果たして僕達一般人にとっての運動と同一なのか、甚だ疑問なのだが。
「え?あ〜、ジャージぐらいなら」
「なら、貸してくれないか?」
「良いけど、なんでまた」
「⋯⋯深く追及しないでくれ」
「⋯⋯ダイエットだと信じよう。待っててくれ、パン焼き終わったら出しとくから」
「すまない。助かる」
本当にダイエットなのかは知らないし、聞けない。
聞いても良いなら聞くが、聞いても不機嫌になる可能性は大。
ましてや深く言及する事も抑えられてしまってはどうしようもなくなった。
僕は密かに争い事ではない事を切に願った。
「コ〜ジ〜。パンはまだぁ〜?」
「流石に早すぎる。もうちょい待ってくれ」
急かさせる声に上擦ってしまった声を掛けてしまい僕にキョトンと不審がるリディナと黙々と食事をするシルティア。
焼き上がりの合図は鳴り響く。目覚ましよりも一発が大きく、テレビの音声を掻き消すような、そんな音が僕の耳に舞い込むと、急ぎ少しの黒く焦げ目が付いたパンを皿に盛った。
「いただきま〜す」
寝起きの声は掠れたものであったが、調子を取り戻して来たのだろう。
リディナの愉快で元気な声が飛び込んでくる。
よく焼きあがったパンと上にはバターを付けてかぶり付くその音はいっそ爽快感すらあり、彼女の笑顔は百点満点。
「ベリ〜グッドォ」
リディナの食事事情は特殊であり、一回に食べる量は少量で良いのだが、一日に食べる量が多い。
朝食、昼食、三時のおやつ、夕食、夜食、深夜食と六回に分けて食べている。
食いしん坊顔負けの食事総量であり、曰く、太る事は無く、魔力に還元するから大丈夫と言う。
だが、シルティアは兎も角、僕には学校がある。
深夜二時半とか三時に起きている事の方が珍しく、仮に起きていたとしても、自転車通学というのも相まって、疲れは学校へ登校した後、身体に響くのだ。
昨日なんて、フィローネを含めた四人で食べた冷しゃぶはかなりの量であった。
だが、夜中に起きて僕の部屋に入り込んで、食事の催促をする始末。
仕方なくカップ麺をご馳走したが足りなかったようで、コンビニに直行し弁当を購入。
微笑ましそうに食していたのを思い出す。
(ひょっとして、一番手の掛かる子を拾ったのではないだろうか⋯⋯)
お財布は金の成る木じゃないんすよ、リディナさん。
「お前、この世界に順応し過ぎじゃないか?」
パンにバター、スクランブルエッグにケチャップ、千切りキャベツにマヨネーズと味噌汁をがぶ飲み。
豆腐は吸うもんじゃなくて噛むものでありワカメも揚げだって同様。
しかしこの子は飲んでる。文字通り、味を楽しむと言うよりも、文字通りお腹を満たすべく食しているように見える。
パンに至っては咀嚼を三回程して喉を通り過ぎるし、スクランブルエッグはフォークでかき込んでいた。
デブの食い方にも等しいのだが、調味料や香辛料には人の好みがあるし、異世界からこの世界に来て日が浅い事を鑑みると仕方ないと割り切るしかない。
そして何よりも、それを隣で唖然とした様子で見ている彼女にも該当するのかが不安だ。
「確かにカブれてるな。シルティアもあぁなるの?」
「えぁ?!あ〜、流石にあそこまでは⋯⋯」
本当に嫌そうな顔を浮かべて、首を横に全力で振っている所を見ると、大丈夫そうだ。
(ごめんね、金持ちじゃなくて⋯⋯⋯そういえば)
僕の通帳へ定期的に送金される金、一体誰の──。
「すまない。わざわざ出して貰って」
既に朝食は済ませた二人、リディナはテレビを観てゆっくりと寛いでおり、シルティアは先程の要望通り、ジャージを貸してもらうべく僕の部屋に上がっていた。
彼女が受け取ったのは紺色で上下セットのジャージであり、本来は冬季が近くなる頃の僕のパジャマとして使う事が多かったのだが、今は夏付近というのもあってタンスに仕舞われていたのを引っ張り出したのだ。
「いいさ、別にこれぐらいなら。夕飯までには帰れよ?」
「あぁ。そのつもりだ」
リディナの食事事情もそうだが、誰かが飯を作らないといい加減マズイかもしれない。
そんな危機感がある中、ジャージを見つめて思い出す。
彼女と会った日の夜に再開した時もジャージであった事や、その夕方頃に彼女が誰かに追われていたという事も。
「そういえば、シルティア一つ聞いていいか?」
「ん?なんだ?」
ジャージを広げて、丈でも確認している様子の彼女に僕は問いた。
「シルティアさ、僕と初めて会った日、誰に追われてたんだ?黒ずくめの二人組の男性の声がした時に急いで逃げてたろ?」
ジャージを見つめていた視線は僅かに鋭くなったのを確かに見た。
地雷でも踏んだのかと緊張が走る中、僕の方へと鋭くなった視線は向けられる。
「奴らは部下だろう。ダイブリンと呼ばれる大男のな」
シルティアが以前話してくれた『異世界人』にそんな名前を口にしていたような気もするが、既に曖昧になりつつある記憶では判断がつかない。
しかし、今の僕もフィローネから昨日の昼休みに聞いた話で異世界人がこの世界に増えているというのを聞いている。
そんな小生意気な彼女から得た情報がある故、少しは異世界人語りに参加が可能なのだ。
魔女様々と内心北叟笑む。
「そいつも二つ名みたいなのあるのか?」
「あぁ、【黒点】と呼ばれている」
「フィローネもそんな二つ名を言ってたな。強いのか?」
「⋯⋯強い。現に私はあの日、防戦一方だった訳だしな」
意地っ張りでもなければ、強情な質でもない彼女は潔く自認。
しかし、僅かばかりの悔しさが滲んで見えるのもまた事実だ。
僕は彼女の本領と加減がどのぐらいの差があるのかを知らないし、ハッキリと言ってしまえば、差異なんて比べられない。
知識不足による弊害と実際に目にした数の少なさがそうさせているのだろう。
彼女が本気で戦ったのか、僕の前で見せた戦闘はどれも本気だったのか、加減したのかの違いも全く分からない。
しかし、これだけは言える。
彼女はそのダイブリンなる男に敗走したという事実は間違いないのだと。
そんな事ぐらいは流石に彼女の悔しそうな顔を見れば一目瞭然で、何か言いたいが言葉にならない。
「そ、それにしてもさ⋯⋯」
「うん?」
「厨二臭いな。その二つ名。【紅閃姫】とかもそうだけど」
結局、虐げる方向にシフトした。シルティアを見事に巻き込んだ上で。
「そこはかとなく馬鹿にしてるだろ?」
ジャージを抱き抱えるようにしてジト目で僕を睨む。
分かっている事だが、僕が出会った『異世界人』は何故か皆二つ名がある。
僕はどうもそれがむず痒いのだ。
「いや、だって。街中とかで『よ!【紅閃姫】』なんて言われたら、僕なら悶絶する」
「⋯⋯そんな風にしながら、私から名乗った試しはない。勝手に着いて回るだけのものだ。知名度があれば、それだけ抑止力にもなるし、私個人は嬉しかったが⋯⋯」
「え?じゃあ【放浪妖精】とかも他人が勝手に付けたの?」
「そう。基本的に皆、二つ名は勝手に付けられて、勝手に吹聴されるものだ」
笑いの的でしかないように感じるが、そこは世界観の違いというものだろうか。
有名な源義経も小さい頃の名前と大人になった後とで呼ばれ方が変わっていたりと、その時代背景で価値観も大きく違う。
もしかしたら、僕には一生理解出来ない事なのかもしれないと、密かに思ってならない。
「またなんだかなぁ〜だな」
僕は『シルティア』の事を『【紅閃姫】』とは呼ぶ事は決してないだろう。
ちゃんとした名前があって、それに対して嫌悪感を示さないのならば、そうした方が良いという価値観からくるものだが自分自身、しっくりき過ぎている。
今更、「おーい【紅閃姫】」とは呼べない。というよりも似合わないというべきか。
するとスマホのタイマーが鳴り響いた。身体をビクリと跳ねさせたシルティアと慣れ親しんだ音の行方を探すべく机の上を探す。
タイマー設定した理由は、学校に遅れない為。
流石に二日連続で遅刻は洒落にならないし、月曜日はサボっているのも相まって僕も多少の危機感が芽生えていたのだ。
時刻は午前七時半前。スマホで設定したタイマーを止めた僕は音の正体に安堵した様子を見せるシルティアを見つめる。
「そろそろ行かないと」
「すまない。すっかり時間を──」
「あーいい、大丈夫。間に合うから。じゃあ行ってくる。リディナを頼んだ」
「あぁ、任された」
着替えも登校の準備完了。玄関にあるキャビネットの上にある百円ショップで購入した小箱にある自転車の鍵と自宅の鍵をポケットに入れて、いざ!
なんて心中で意気込んでいた僕の背後から何とも頼りない声が舞い込んできた。
「コージ、早く帰ってきてね。⋯⋯ご飯食べたいから」
裾を掴まれて何やら厚かましく、図々しい要求をする者は誰か?一人しか居ない。
そう、リディナだ。リビングで寛いでいた筈の彼女は甲斐甲斐しく「行ってらっしゃい」の一言でも貰えるものと思ってはいけない。
彼女の『里』には「行ってきます」と「行ってらっしゃい」と言う挨拶の風習自体が恐らく無いのだ。
郷に入れば郷に従え、そんな言葉が日本にはあるが出会い話して数日、同居し始めてたらまだ一週間も経っていない彼女に対して、あれやこれやと言うのは酷な気もしたし、今日の朝食でパンにバターを塗っていたように僕から進言した訳でもなく視て覚えるという事が出来るのならば、自主性に託そうと決めていたのだが、よもやご飯が食べたいから早く帰って来いと言われるとは思わず、少し呆れてしまう。
この子の親はどんな教育をしてきたのだろう。正直に言えばかなり気になる。
だが、今はこの我儘娘に対して、僕もある程度鬼にならなければならないのではないだろうか。
世の中思い通りになる事よりも、ならない物事の方が数多く存在し、決して遠く、他人事でもないのだぞ、と彼女に伝えてやるべきなのではないか。
そう判断に至った僕は露骨に不快な態度で振り返る。
「えぇ〜。あぁぁー、ご飯の為だけに帰ってくるの〜?」
「⋯⋯」
沈黙を貫くリディナに僕は思わず顔が引き攣っていく。
おかしい。何時もの彼女ならばもう少し何か言ってくると算段を付けた上で始めたというのに、返事が一向に返ってこないのだ。
これでは僕が本当にただ女の子のちょっとした我儘すら受け取れない偏屈で嫌な奴へとグレードダウンするではないか。
いや、元からそこまでランク高くないから大したダメージにもなり得ないのだけど、心象が悪いからやっぱりなんか嫌だ。
「あの、何か言っていただけると⋯⋯助かるんですが?」
「ばか」
「えぇ?!なんで急に!?!」
背中を見せたリディナと僅かに距離が空く。
「早く行って来たら⋯⋯」
そう囁くように言うと、本当に背中は見えなくなった。
リビングへと向かってしまった彼女の背中を追う事はしない僕は、彼女の言葉の真意を読み解く事を放棄して自転車に乗ると一目散に学校を目指してペダルを漕ぐ。
全く持って、女心というものは理解出来ない──。
━ ━ ━
潮風が吹く砂浜には人が少なく、犬の散歩で使うお爺さんやランニングウェアを着衣した人がサングラスを掛けて走り込んでいる人がそこそこ居る程度。
そんな朝焼けが波間に揺られている場所で大男が佇んでいた。
「⋯⋯この世界の海は綺麗だ」
透明な海、鼻につく潮の香りと漣の打ち音が耳を優しく包み込む中、その男は遠くを見つめる。
堅実剛健な身体付き、茶色に焼けた肌、約三メートルもある身長に鋭い目付きと右唇辺りにある縦に伸びた古傷が勇壮な戦士である事を容易に想像出来てしまい、近くに居る者達は自然と避けてしまう。
上半身はかつて何かを着ていたらしい白い布地が殆ど破れた状態であり、腰に巻かれた日光をも反射するかのように黒に照らされた防具。
腕には指まで黒い包帯が巻かれており、膝から脚にかけて黒い防具が装備されている。
当然、そんな格好をしていれば、周りからは避けられるのは必然の事であった。
犬で散歩をするお爺さんは犬を抱き抱えて、二十年振りに全力疾走。
ランニングをしていた女性は横目でチラチラと。
海辺近くに住んでいた学生は遠巻きには面白がって近寄ろうとするも徐々に距離が近付く程、恐怖心が募っていき最後には構えていたスマホでパシャリと一枚撮るだけ撮ってそそくさと去って行く。
潮が脚を濡らしていく男はそんな光景に気付いている。その上で遠くの方を眺めるばかり。
「⋯⋯物悲しいものだ。我はこの世界でも孤高なり」
威厳ある男の声色には寂寥が混じっており、朝の海にうたれて、その冷たさに僅かばかりだが視線は下へと向いた。
瞼を閉じて次なる標的へと向かって瞼を開ける。
一歩は重く、場違いな様相をしている男は波により濡れた砂浜を歩いて行く。
そして、自転車に乗り全力疾走している少年は大男には一切気付かない。
もし、少年が走行している位置が道路の左側ではなく、右側であれば。
もし、少年が右方向にある海辺へと気紛れながら向かっていたら。
何か変わったのかもしれない。
━ ━ ━
パジャマを脱ぎ、まだ温もりが感じられるパジャマを畳んでいる敷布団の上に綺麗に置き、借りたばかりのジャージを着たシルティアは大きく背伸びして外へ出る準備を整えた。
寝起きが比較的に良いシルティアの体調は頗る快調であり、意気揚々と玄関へと向かおうとする彼女を引き止める意のない言葉で何気なく脚を止まってしまう。
「紅姫。どっか行くの?」
「リディナも行くか?気晴らしの運動だが、走るだけでも変わるぞ?」
リビングから完全に暇人と化しているリディナがひょっこりと顔を覗かせており、多少なりともシルティアの動向に興味があるのを窺わせていた。
ジャージのファスナーを首元まで引き上げようとするシルティア。だが、下胸部辺りでつっかえてしまい、引き攣った表情で胸元とその下にある引手を摘んで必死に力を入れるが、一向にチャックは進まず、閉まらずで、シルティアは挫けてしまう。
そんな光景を真正面から見つめているリディナは自身の胸元と交互に見比べて、頬を思わず膨らませて目を細める。
「面倒臭いから、ノォ〜」
腕でバツ印を作って意思表明をするリディナなのだが、ファスナーを上げるのを諦めてしまったシルティアは摘んだ引手を丁度下ろしきった所であり、苦渋の選択の末、悔しさが込み上がっている最中である彼女には伝わってもいなかったし、視認すらしていなかった。
ただ、声だけはしっかり聞いていた為、仕方ないとばかりにヤレヤレと首を横に振ったシルティアはリディナに近付く。
「リディナ。一応言っておくが、食べてばかりは身体に悪いぞ?肥満率の上昇、たるみだした肌、窪んだ目、大きくなる腹、ぶるんぶるんの太腿。それに──」
「あーーーーー!止めて!鬼、鬼畜、悪鬼、邪鬼、紅い鬼綟め!」
紡がれる言葉に従って連想されていく未知の自分。
そんな脳内煉獄へと真っ逆さまへ落ちていくのを抗うようにシルティアの言葉を掻き消すようにリディナは瞼を瞑り、耳を塞いで叫声を上げる。
「言いたい放題だな。お前⋯⋯」
常日頃、文句をほざきのめす金髪妖精娘との文句帳簿の頁がまた一つ更新された。
流石のシルティアも『紅姫』と書いて『筋肉』と呼ばれるよりも酷く突き刺さる罵倒五コンボのせいで気落ちは免れず、何とも物悲しい面持ちとなってしまう。
「あれ?⋯⋯シルティア?」
ようやく開けられた瞼。するとリディナは口をぽかんとだらしなく開けて、唖然としてしまう。
(シ、シルティアが落ち込んでるッ!)
出会ってからこれまでで初めて見た紅閃姫の表情はリディナの心中を掻き立てる。
何時もと変わらない罵倒。本人はそう思っているが、言われた側はそうではない。
更に昨夜の浩司との会話を思い返していたリディナは挙動不審に等しい動きをしながら心配そうな顔色になるまで、それ程時間は掛からなかった。
「あ、あの。紅姫?」
多分な不安を満ち溢れた声色は紅の髪の女性へ。
そんな彼女は我慢強い部類ではある。
親に疎まれていると知っていようとも、言われるがまま尽くして最後には何も残らないと知っていて尚、藻掻くかのように意味を見出そうとしていた彼女にとって、この程度でイジける事や挫ける事は弱さの証明に他ならない。
だから、気を取り戻そうとするように頬を両手で押さえるように叩いて、真っ直ぐと夕暮れにも等しいオレンジ色の瞳を向けた。
「いや、悪かった。それで、行くのか?行かないのか?」
「い、行きましゅッ!ぅぅぅ〜〜!!」
「大丈夫かリディナ!?」
一方のリディナにはシルティアが自身の頬を叩いた理由が一向に理解出来ず、気を狂わせてしまったと更に動揺してしまい、焦るがままに口を動かし舌を噛んでしまう。
泣く事こそしないが、自ら傷を付けた舌から発生するヒリヒリとした痛みは渋面へと一気に変化させて、唸り声を喉奥から掻き鳴らしていく。
「本当に大丈夫か?」
「へ、平気。痛かっただけだから⋯⋯」
「そ、そうか。気を付けろ?」
「舌を噛まないように気を付けるって、どうやってなのさ」
素朴な疑問はシルティアが浮かべていた気掛かりそうな表情は突風で瓦解したかのように崩れ去り、思案顔を作って答えを出そうと思考を捻らせる。
「え?そ、それはだな。⋯⋯常日頃引っ込めておくとか⋯⋯かな?」
「こ、こうぉぉ?」
外舌筋を動かして自然と口窄んだ表情を見せるリディナ。しかし、そもそも口を閉じた状態の為、口内の確認が出来ないシルティアは迷った末──。
「あ、あぁ、そんな感じだ」
苦笑いで誤魔化すように場を収める事としたシルティアはリディナと共に三崎家宅を出て、走り込みへと向かうのであった。
奇しくも三崎浩司が通っている学校方面へと小走り程度で駆け出した二人。
学校方面へと向かった事に関して理由はないが強いて言うのならば、自宅を出た所で右利きのシルティアが右方向へと身体の向きを変えたからだろう。
シルティアと比べてもリディナは普段から走り込んでいたり、鍛練、訓練のようなものは行っておらず、多少なりとも面倒臭さが顔に出ていたが、一度言ってしまった事を今になって辞退する程、彼女は軟弱なプライドを持っていなかった。
一方は紺色のジャージ。
一方は緑色の帽子、黒の半袖半ズボンを着用。
浩司が中学生頃に使っていたパジャマを借りているに過ぎないのだが、夏期が差し迫る時期に昨夜降った雨の影響を受けて高くなった湿気と燦々と差してくる陽光は二人の体力を着実に奪っていく。
シルティアもリディナも街案内のようなものはされておらず、並び建っている一軒家や橋の下に流れる川、複数の小学生が一緒に登校しながら歩いている姿や近くにある大きな公園といった景色や風景を眺めているだけで自然と笑みを零す。
身体は発汗し、熱を持って体温の上昇と息を微かに荒らげながらも小走りの速度は一定のままであり、チラチラと目に映るもの全てに興味ありげな表情をするシルティアとその後方で頬を流れて首筋にまで行き渡る汗が気持ち悪いと感じ始めているリディナは腕で拭う。
湿度があり気温も高く、アスファルトや煉瓦、コンクリートで出来上がった地面を踏み締めて、シルティアを見失わないように走るリディナは暑さに対してあまり強くはない。
妖精人の体質によるものではあるが、音を上げるような言葉を決して口にしたりはしない。
はたまたシルティアは後方で共に走るリディナのペースが僅かに落ちた事を耳から聞こえる走音、息遣いから察して、僅かにペースを落とした。
だが、そんな露骨な事をされてしまえば当然気付くのがリディナなのだ。
「なんで、落としたの?」
「無理に付き合わせているからだ」
二人の脚は小走りから早歩き程度、つまり少し速いジョギング程度のものとなり、先行していたシルティアの隣へと位置着いたリディナが不服そうな表情を浮かべている。
「いい!そっちの速さに合わせる」
「無理しなくていいんだぞ?」
「してない!」
十四歳でありながら、大の大人と遜色のない実力と知識がある彼女──だが、それでも十四歳である事になんら変わりなく、意地やプライドといった変え難い何かがリディナの声色を鋭いものへと変えた。
「そういう変に気を遣うの止めて。私はそんなに貧弱じゃない」
「別にそうは言っていないだろ?」
「⋯⋯」
一方のシルティアは十八歳間近でありながらも社交辞令から詫びの言葉選びまで、王宮暮らしで叩き込まれている身分である為、意地やプライドといったものよりも大事なものがあると目視で認識している。
それ故か、比較的に気の許している相手に対しては自分が折れるという選択肢が常にあるのが彼女の思考にはあるのだ。
良いか悪いかはその時次第であり、相手のご機嫌取りを嫌う性格でもない彼女にとって、リディナは反抗期を迎えた子供をあやすのと同等。
「不満そうな顔を止めてくれないか?悪かった。私がお前のペースに合わせなければ良いんだな?」
「うん。そう」
「疲れたら言うんだぞ?」
妖精人が暑さに弱いというのをシルティアは知らない。知らないが、気を遣った優しさから投げ掛けた言葉であり、間違いなく善意であろう。
二人の眼前には海が映り出しており、潮の匂いがリディナの鼻腔を擽る。
リディナにとって海は懐かしいものでもなければ、初見という訳ではない。
傭兵とはつまり雇われ駒なのだ。そんな役職に居る時点でクライアントからの指示があれば、世界何処でも向かうのが常であり、定住先程だって四、五箇所点在している。
その内の一つは茶色く濁った海が見える悲惨で質素な場所であり、潮の香りだって感じられた。
だが今現在、リディナは思い馳せている。遠くを眺めて何かを思い返すと、その鼻腔を掌握しようとする海独特の香りを懐かしみ、隣に居るシルティアへと向き直る。
「⋯⋯ねぇ、貴女って友達いる?」
「え?なんだ急に⋯⋯。居ない事もない、と思う」
歯切れの悪さで察してしまったリディナはジト目で凝視する。
リディナの癖のようなもので、訝しんだり憐れんだりとそういった心境の際に目元に出てしまうのだ。
ましてや本人は全くの無自覚。
「私にでも里に帰ったら友達居るのに、シルティアは居ないんだ⋯⋯。ボッチ姫だ」
「お前は一日に何回私を罵倒すれば気が済むんだ」
既に三回程は罵倒済み。
しかし、これがリディナなりの親しい人間とのコミュニケーションの取り方であるのだとシルティアは容認している。
実質的にリディナを甘やかしているのは紛れもなく罵倒対象であるシルティア本人なのだが、当の本人は良かれと思い容認しているので、改善の目処は現状立たないだろう。
照らされ続ける日光はリディナの白い肌を焼こうとし、額から目元付近に流れ落ちようとする汗を腕でいち早く拭った。
言うか、言うまいか。けれど、これ以上の展開があるものかとしてリディナは意を決したように閉じていた口を開く。
「コージに昨日言われた。友達になってやってくれって」
「⋯⋯コージが?」
歩く歩幅は動揺を表す。リディナはシルティアを追い越して振り返ってその返事を待たなかった。
「少しだけ貴女の過去を話したらそう言われた」
「私は孤独と思われているのか?別に孤独という訳では──」
「嘘。貴女は孤独だったよ?少なくても、この世界に来るまでは」
言い切りが過ぎると文句の一つでも出せれば上々だっただろうが彼女にはそれを口にする程、強情ではなかった。
何よりも、知り合いである『妖精人』に言われた事の方が深く刺さる言葉としてシルティアの苦い表情は濃くなるばかり。
『妖精人』は『里』で暮らして生涯を費やすケースが一般的であり、『里外』へと出向くのは稀である。
衣食住の全てを『里内』で終わらせて、外との接触は必要最低限。その為、いくら異端として追放に近い形で外へと追いやられたリディナといえど、人との接し方や交渉術、外の世界のルールは独自に調べて学び、得ている。
何もかも中途半端な歳頃からゼロのスタートをしたリディナ。
その一方のシルティアはどうだろうか。
お家柄の都合はあれど人と接する機会は恵まれている側であり、英才教育で培われた処世術は一体何処まで役に立てたのかは、言うまでもない。
忌み嫌われるかのような疎外感と圧倒的なまでの実力を持って国に尽くすと同時に何かをすり減らすだけの日々を送っていた彼女──差は歴然なのだ。
「私は、貴女の事を何も知らないのかもって、コージの家に住んでから思った。貴女は見せていない顔が多すぎる」
それは本心から出た言葉であると、向かい合わせの紅髪の女性も理解している。
別段、不思議な状況などではない。誰だって常日頃見知った人間の知らない一面というのを知らず知らずの内に見ているもので、シルティアに関してはそれが浮き彫りになりづらいだけの話だ。
腕に注射する際、血管を肉眼でも視認しやすくする為に駆血帯を巻くように、外部から干渉しなければ分かりづらいだけの事。
「別に見せたくなくてそうしていた訳ではない。見せる機会がなかっただけだ」
「そうだろうね。国の使いっ走りで戦地の敵を屠る事しかやらされて貰えないならそうもなるか」
「⋯⋯嫌味か?」
「事実だよ」
嫌味を言うのならばもっとらしく言うのがリディナである。表情に出やすく分かりやすい部類の妖精人は虚言や戯言を口にするとなると深い海のような瞳はあちこちに右往左往し、変な作り笑いを浮かべてしまう。
しかし、今の彼女にはそれが一切ない。
真っ直ぐと、眉が僅かに下がって苦い顔をしているシルティアへと貫き通されていた。
それが彼女には眩しくも映ってしまい、ギブアップだとばかりに微笑む。
「分かっている。昨日、フィローネにも言われた。嘘ばかりだな、と。嗤われながら」
「嘘?」
「私は国の為に国に殺される事を是とした。それで良いと思い、それが正しいと信じた。けど、この世界に来てからそれが正しいのか間違っているのか分からなくなってしまった。どうしてしまったんだろうな」
『戦場に咲く一輪の花』──そう言われれば普通、苛烈な環境においても希望的象徴や容姿の美しさを比喩した物言いとなる。
しかし、彼女──『シルティア・フォン・ユーベルアイン』に関しては違う。
『場違い』『生気を刈り取る忌々しい存在』『一人見捨てられた王族』『可憐で流麗で存在が周りと一線を画す者』と揶揄のようなものであり、心象が良かったのは最初期のみ。
やがて彼女本人も察する事となり、それでも尽くし何時かは国の安寧が叶う事を信じた。
だが、この世界はどうだ。
剣を取り合わず、争いは少なく、血も流れなければ食糧難にも陥っておらず、子供だけで外を出歩く事が容易な世の中。
誰の目から見ても分かりやすく平和であり、理想の情勢にも等しい。
『生きている存在』『人間』という点は同じだというのに、結果として成り立った社会構造は大きく違い、次第と元の世界は憂う世界へと変化を遂げた。
心象の変化はそっと、緩やかながらも明確に訪れている。
「知ってたんだ。自分が使い捨ての駒だって事」
「知らない方がどうかしてる」
そっと瞼を閉じる。何かを決心したようにグッと顔が強ばりを見せると、徐ろに瞳は開けられた。
「⋯⋯なら、私とコージが肯定するよ」
「え?」
「元々、コージはそんな危なっかしい貴女だから、死にそうになってまで助けたんじゃないの?」
「⋯⋯」
何故か思い出してしまう、少年のかつての言葉を。
馳せるは人気を人為的に消した夜の街。
地面には血が赤のペンキをぶちまけたように広がりを見せるものの『生命の繋がり』によって息を吹き返した直後の少年との会話。
何故──そう問いたのは魔力が限りなくゼロに等しいシルティアの方であり、人生で初めての膝枕の提供をした直後の事だった。
『後悔したくなかったんです。辛そうな貴女を見て、何もしない自分が嫌で⋯⋯、逃げ出したら自分が嫌になっちゃうから。⋯⋯だから、僕は貴女の所に行きました。優しい貴女を死なせなくもなかったから』
まだ丁寧な言葉遣いで話していた邂逅の日。
シルティアは確かに思い出せる。生物を殺す事で人を助けるのが戦場ならば、この日の夜は紛うことなき殺人なき救助だったのだろう。
生命の危機は目の前で鮮明に、確実に血の気は引いていき、触れれば体温は着実に低下しているのが感じ取れたあの瞬間、シルティアは人生で初めて後悔も恨み辛みのない人助けを行ったのだ。
たとえ本人の魔法ではなくても、自分がその一助となっていればそう公言しても罰は当たらない。
ハッキリと言われた少年の言葉。後悔はなく、辛そうな彼女を目掛けて走ったあの時、フィローネもシルティアも少年が駆け出した事は明らかな予想外であり、想定の範囲外の異常事態であった。
結果が伴って息を吹き返したとしても本来は愚行も良いところであり、命の粗末以外何物でもない。
だが、シルティアにはその時の光景は今も鮮烈に脳に書き記されている。
「辛そう⋯⋯か」
「え?」
「コージを『生命の繋がり』で助けた後、理由を問いたんだ。何故、こんな危ない事をしたのかって」
優しい声色。過去を懐かしむ彼女は何故か優麗な微笑みを見せていた。
(こんな風に⋯⋯笑えるんだ)
リディナは驚愕に息を呑む。かつて眺めていた『戦場に咲いた一輪の花』のイメージは瓦解していく。
金槌で殴り付けられたようにヒビを入れ、砕けて落下して粉々になる。
「そうしたら、コージは言ったんだよ。辛そうな私を助けられない自分が嫌だって。私が優しいから助けたって」
決して、口説くような物言いであってその意思があった訳ではない。
あの日の少年も動転していて、事態の把握に精一杯だったろう。
だがそれでも、あの日の朝、大雨が降り注ぎ自転車を使わずバス通学でなければ、放課後に小雨となり傘を差す気が起きない程度のものだったからこそ、少年は視界に捉えてしまった。
壁に凭れ掛かって、起き上がる事も力を込めなければならない彼女の存在を──。
そして、そんな彼女と再び出逢ってしまった強風が吹き荒れる時間、憐憫が湧いてしまっただけの事であり、たったそれだけの話なのだ。
「⋯⋯私は優しくはないのだがな⋯⋯。むしろ、卑怯者だ」
「それも肯定する。私もコージも」
「簡単じゃないぞ?」
「知ってる」
過去の積み重ねが容易に瓦解はしてくれない。
上塗りは容易くなく、自分を肯定するまでには幾許の時を有するのは分かりきっている。
だが、リディナの真っ直ぐな瞳に当てられたシルティアは何か晴れ晴れとした表情をした。
「ふふふ。なんだかな。気が晴れた感じだ」
「前よりいい顔になった気がする」
「そうか?」
「うん。貴女、多分戦場に似合わなかったんだよ。⋯⋯うん、きっと」
「そうか。そうだったのかもな」
戦果を挙げられる事とそれが得意な事は決して同一ではない。
したい事と出来る事が違うように、彼女も何時かは戦場を駆ける瞬間がやって来なくても良い時が来るのではないか。
そう、願ったリディナであった。
「ならば、ここで大人しく散るのも是としてくれのだな?」
「⋯⋯誰?!」
初めに振り返ったのはリディナ。突然話し掛けられた事による驚きはあった──だが、それ以上に言葉の端々には敵意が溢れており、背中を虫が這うような気持ちの悪さに襲われて、顔を歪める。
「ダ、ダイブリン?!」
「久しいな。いや、まだそれほど経っていないか」
大男が立っていた。三メートルはあろうその巨大な身体と、この日本では最も似つかわしくない上半身裸と下半身の武装。
肌は茶色く、威光を迸らせる赤の瞳と唇には縦に古傷が一つ。
「誰?」
「【黒点】と呼ばれている男だ」
「っ?!この人が?」
その二つ名にリディナは汗を流す。見上げる先は巨漢。
潮の匂いが満ちた海辺近くの歩道は言い表しようのない程の威圧感に包まれて、波が激しく前後へと流れる。
車やバスが一台足りとも車道を走らない。
その時点で違和感を持つべきだったのだろうが、二人にその余裕は既になくなっていた。
「【紅閃姫】、お前は今先程、戦場には似合わない──そう言ったな?ならば、ここで華々しく散るのも可憐な華の役目、そうは思わんか?」
赤く突き刺す瞳はオレンジ色の瞳をひたすらに見つめる。
リディナが右手を後ろにし、悟られぬようにと弓を取り出す。
「貴様にやる命はない」
ロケットペンダントを手に握り、シルティアの身体は光が帯びる。
弾けるように、紺色のジャージは宙を舞い、砂浜側へと風で流れていく。
白い衣、赤のインナーに黒のスカートにブーツ、そして一握りの赤と金の直剣を強く右手で握り締めて、構えた。
「ならば良かろう。二人掛り、纏めて来い。この美しい世界に『召喚されし者』は不必要だ」
額に青筋が立った。赤黒い魔力は巨大な体躯から放出され、約二メートル程の半月状の荒い粗目で焦げた色をした曲剣がシルティア、リディナとダイブリンの前に突き刺さる。
その曲剣は柄頭、鍔といった要素を排斥されており、剣身の端に穴が空いており、黒い布を巻き付けられた一本の棒が縦に入っているのみの全体凶器のようなものであった。
斬ると言うよりも断ち斬るという程に大きな横幅をした曲剣を握り締める大男はゆっくりとその突き刺さった曲剣を抜く。
「覚悟しろ。前のように横槍はないと思え。次は本気で潰す。ただひたすらに、だ!!」
地面が抉れ、風は呼応するように吹き荒む。
アスファルトを擦るように刃先を下にしながら練り歩くようにして近付こうとするダイブリン。
一歩、また一歩の重さは重力場が形成されていると錯覚してしまうほどの圧があり、二人の身体にも押さえ付けられるような圧力が生じる。
「ッッッ!!!何この圧迫感!全身が締め付けられてるみたいな⋯⋯」
リディナはダイブリンをロクに知らない。二つ名は通り名であり、通称のようなもの。
威厳を知ら示す牽制であり、称号であり、証明。
「小娘、楽に死にたいなら首を差し出せ。痛くはしない」
「はぁぁぁぁぁ!」
先行するのはシルティアから。再三の戦闘は彼女に自信と勇気を与えており、リディナほど恐怖心には負けていなかった。
構えられる剣は振り斬るようにして横へと構えられて、ダイブリンを正面から貫く勢いで駆け出す。
「やはり、貴様から死にたいと見た」
振り上げられる焦げた曲剣──瞬間、周囲は哭いた。
「なっ!!うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
振り下ろされる共に、直線距離として三十メートルほどの縦穴が形成されて、近くにあった家屋は砕け散り、激しく劈く衝撃音と一切を粉砕する破壊力にリディナは対応が遅れ、シルティアは大きく横へと緊急回避。
足場が大きく変わったのを靴裏の感触が教える。
砂浜までガードレールを含めて跳び越えた後、急ぎ大男を視界に捉えようと前を向くシルティアだが、あれほどに目立つ見た目と大きさをした大男は何処かへと消えてしまい、左右を見渡す。
この状況と啖呵の切り方で逃げたと思うほどシルティアは間抜けではない。
砂浜に映り込む影は呑み込まれたように陰りが訪れた。
慌てて、上空を見上げたシルティア。
上空に跳んだダイブリンが急降下して、彼女目掛けて曲剣を振り下ろそうとする。
(避けても間に合わないッ!)
選択肢の排除。高火力故に一発でもまともに喰らえばお陀仏。更に学校に通っている浩司にも共有のダメージが行き渡り、惨事となるのは目に見えている。
振り下ろされようとする半月の剣を受け止めるように剣を構え直したシルティアは身構えた。
「覚悟!──っ!」
雄叫びを上げ、砂浜に惨めな死体が一つ出来上がると確信のようなものを抱いていた男は全方位を囲み、身体を穿つように放たれた薄緑色の魔力の矢が迫るの視認した。
(甘いッッッ!!!)
矢は全方位からではあるが、全てが男までの均等な距離ではないと判断し、左手は拳を作り赤黒い魔力を捻出して、曲剣を握り直して真っ先に身体がを貫くであろう背後からの矢を撃沈。
更に右方向、真上から迫る矢を身体をくねらせる。
体躯が大きく、とても人の動きとも思えないほどに軽やかで鋭い動きは近くに迫っていた矢を全て回避し、シルティアの居る真下を目掛けて左手に溜まった赤黒い魔力を放出。
シルティアの直剣は金切り声にも似た悲鳴を上げながらも力一杯に振り下ろす事で赤黒い放射の一線は海の彼方へと落ちていく。
最後に遅れて真正面からやって来た矢を左手で受け止めて、へし折り、小さくザラついた砂を吹き上げさせながら着地した。
潰れてしまった家屋の近くにある別の家屋の屋根に弓を構えていたリディナは愕然のあまり目を疑う。
(なに、したの?)
理解に苦しんだ。男の挙動一つ一つには人間離れの判断能力と即決性、迅速な対応力が光って見えており、苦虫を噛み潰したような表情を浮かばざるを得なくなる。
確実に当てる為に一射でも多くと思い、合計三十本以上の矢を魔力で形成して放った筈──だが、一本足りとも、まともに身体には命中せず、掠りもせず、軽く流されるように躱された挙句、こちらには目もくれてない。
まるで、対応範囲内の予定事項のように涼しい顔を浮かべている男への畏怖の念は止まりそうにはなかった。
「なんで、四方八方、同時攻撃を全部⋯⋯嘘でしょ?化け物じゃん」
立ち上がり、矢を放てるポイントを探そうと脚に魔力を込めるリディナ。
「我が貴様達より強いからだ。それ以外に理由は──存在しない」
そんな妖精人を見逃す程、男は甘くない。
刹那と呼ばれる程の速さはリディナの身体を強撃し、視覚に捉えるよりも迅速にかつ確実に胸部を鋭く激しく叩いた。
リディナは驚くよりも早く後方へ雷の如く飛び、痛みを叫ぶよりも意識は疾く急落下してしまい、走り込みで通った道を逆走ように流れていく。
「リディナ!!」
不安な様子を見せるシルティアの左側には既にダイブリンが曲剣を頭部目掛けて振り切っていた。
慌てた様子で剣でそれを受け止めるも、急激な速度でやってきた負荷と足場の悪い箇所での無理な体勢がシルティアの膝を着けさせていく。
「うぅッッッ!!重いッ!!」
「そう、この思さが貴様達『バルファザル王国』が奪ってきたものの重さだ。しかと、受け取れぇェェェェェェェェ!!!!」
重くのしかかった曲剣の重量は途端と羽のように軽くなる。
男は身体を捻り、テニスラケットでボールをぶつけるようにシルティアへと曲剣を叩き付ける。
「はっ──」
衝撃は海を割くに至り、大きな波が奥へと流れて、砂浜は地盤が見えるまでになった。
横へのスイング──だった筈の強撃は波間を容赦なく襲い赤黒い魔力は火柱が立った様相で辺りを覆い尽くすにまでなる。
男はゆっくりと背後を向く。焦る仕草も何もなく、淡々と曲剣を構え直すと不敵な笑みで余裕を浮かばせる。
「⋯⋯ほう、避けたか。あの日の夜とは違い、その血にも似た気色の悪い光がより一層気色く悪く見える」
「【紅臨・禁黙瑆】というものだ。まだお前には見せた事がなかったな。【黒点】」
三段階目の【紅臨】であり、白い魔力が内側、紅色の魔力がそれを覆うように身体に纏われていた。
咄嗟に取った回避行動。身体に掛かってしまう負担があるのも承知で使った本気も本気。
浩司の事を案じて『生命の繋がり』で繋がって以降、積極的に意図して使用を避けていた剣に内包された魔法であり、現状を打開出来る唯一の術。
「名前などどうでも良い。その握られた剣で濡らした血の数だけ、貴様をこの『大断剣』で潰すだけだ」
「濡らした数?そんなもの、この命では払いきれるものか!」
紅色の光は閃光よりも速く、剣身は首元を目掛けて駆けて行く。
それを縦に構えた曲剣は弾き飛ばし、更に加速したように背後に回り込み追撃しようとするも最小限の動きで回避し、流れるように第三の追撃を曲剣で受け止める。
鍔迫り合いのように硬直した二人。
加速によって踏み込まれた砂浜の粒達はようやく地面に落下する。
波が帰り、砂浜を僅かに覆ってしまうほどに荒くなった勢いは足元を濡らす。
剣での応酬が始まった。
始まりに攻め出したのはシルティアからであり、腹部を断絶出来るほどの一撃。
それに対してダイブリンが出した答えは迫る剣身に手を添えて、乗っかる事であった。
大道芸顔負けの瞬間的な行動。予定されている訳でもないアドリブにシルティアは驚愕する。
曇り掛かった空に浮かんだ太陽の光を反射するほどに眩い直剣に逆立ちで乗った男はそのまま首を断とうと曲剣が振られた。
だが、彼女も負けていない。一度握り部分から手を離して男の体勢を大きく崩れるのを目視で確認した後、曲剣はこめかみ付近を僅か触れるものの男の予定していた決着とは相反した。
重くのしかかり、波に濡れた砂浜へと落下していく剣を再度握り直すと、勢いを付けて斬りかかる。
「んっ!!──チッ」
胸元に横へと切り傷が出来上がった。
首を狙った一閃は剣と同じ砂浜に落下する男の脚が一足先に着いてしまった事で後退を許してしまったのだ。
「くそ!なんという反応速度だ。人の域を越えている」
巨大故に鈍くトロい。そんな常識は一切通用しないのが『【黒点】』という男の怖さだ。
膨れて、腫れてしまっているのかと見間違う程の胸筋と丸太と見間違う程の太く血管が浮き出ている腕部と脚部。
青筋を立てていながらも一切の余念や油断を垣間見ない厳格な面持ち。
不敵な笑みは油断ではなく強者故の証明である。
「やはり速い。だが、それだけッ!」
高らかに言い切るダイブリンはシルティアとの距離を無へして横払いで斬りかかる。
その攻撃は単調であり、線が見えやすかった。
それを回避してからシルティアは気付いてしまう。
(囮!しまったッ!)
跳んで後方への回避を選択した事が男に唱える余裕を齎した。
功を奏したとばかりに曲剣を構え直し、静かに謳う。
「【勇猛源剥。混迷に哭き息吹べ。──】」
曲剣に魔力が宿っていく。脈々と流れ出る赤黒い魔力は曲剣から漏れていき形を成した。
「【小躯噛乱】ッ!!」
魔法は成った。それは小さな車輪が四輪、刃がギザギザと尖っており、硬い砂一面に轍を残しながらシルティアへとひたすらに向かった。
「この程度の攻撃っ!」
紅色の魔力は膨れ上がり、一掃するように剣から閃光は放たれた。
光線と見間違う程の薙ぎ払いは三つの車輪を一気に消し飛ばして更に砂を掻き立てるに至る。
吹き荒れた砂浜は轟音が鳴り響き、土煙にも似たものがシルティアの周囲を埋め尽くす。
「なんだ!何故こんなにも煙がたつ?!」
急ぎ視界をクリーンにするべく、現時点に居る砂浜からその側にある歩道へと移動を開始しようと脚を動かそうとした時であった。
ジャリジャリと何かを削る音が急激な速度で迫ってくる。
一瞬の注意──引かれた意識は音へと向かっていき砂煙が吹き荒れる中、姿が露見した。
車輪であった。紅の薙ぎ払いによって消し飛ばした数は三であり、一足りていない。
不快感が募るその騒音を掻き鳴らす車輪を捉えたシルティアは剣に魔力を込めて突き上げた。
「はぁぁぁぁ!!」
一閃は更に伸びて、上空に紅の光を差す。
それが罠であるにも関わらず、シルティアは振るってしまったのだ。
「そこか」
「なにッ!!」
シルティアから見て左側。煙る視界に紛れて曲剣が吹き荒れる砂と煙を断ち抜いて、シルティアへ直撃した。
「ッッ!ぐぅぅっはぁぁ〜〜ッッ!!!」
戦闘の経験値の違いが如実に出た証拠だった。
速さとは言わば状況を支配しかねない能力値であり、攻撃も避けられれば意味もなく、防御にしても位置取りにしても速度とは否応なく求められるもの。
ならばと車輪で砂を掻き立てて赤黒く火柱が立っていた熱は空気を温めると同時に上昇気流を呼び起こす。
波による水源程度で男の魔力は消えはしない。
常識で物事が片付けられないのが『異世界人』であり、そんな彼らが起こす行動一つ一つは、異常を呼び起こす。
吹き荒さんだ砂浜はやがて煙を巻き上げて、視界を潰し、最後に残していた車輪は位置を明確にする為の囮役でしかなく、潰れようが攻撃が当たろうとどっちでも良かったのだ。
要は位置が確認さえ出来ればそれで良かっただけであり、シルティアにはダイブリンの位置が分からず、ダイブリンからはシルティアの位置が探知出来る状況を確保したに過ぎない。
そしてご丁寧にありがとうと賛美喝采を期待されるのを心待ちにしているように天を衝くかのように馬鹿正直に振るってしまった剣はダイブリンにとっては煙が剣によって動いた事を即座に理解し、左方向へと位置着いただけなのだ。
完全な戦闘経験の差が出た結果である。
砂煙が立ち込めた海は異様な光景であり、煙から突き出るようにシルティアは出てきた。
腕はひしゃげて、曇り空に沈み掛かった海色は血で染まっていく。
浅瀬に叩き付けられた身体は大きく濡れて、痛いだなんだと言ってられない程に潮や身体の中に沁みる。
意識を持って行かれそうになるも、食いしばって何とか視界に男を収めるように心掛けるシルティア。
左腕はおじゃん。右手のみで剣を持とうとするも指に力が上手く入らず焦燥感に煽られていく。
それを憐れんだり、嘆くような言葉を掛けたりするダイブリンなどではない。
俄然やる気になり曲剣の刃先を砂浜に擦りながら、振り上げた。
「うぅ──なっ!うわぁぁッ!」
分け隔てるように赤黒い一撃はシルティアを狙って加速する。
間一髪の所で身を投げて回避に成功するものの、衝撃と身体を叩き付けるような突風はシルティアの身体を意図もせず動かしていき、そのまま海へと投げられた。
「⋯⋯うぅ。⋯⋯な、なに?!」
海へと投げられるのだろう。そう考えていたシルティアだった。
間違いなく海がある方面であり、独特の潮の香りが立ち込めている。
しかし問題は、水源が倒れた位置に全く無い事にあった。
ダイブリンはたった一撃で海を割ったのだ。
「い、イカれているな。この火力」
ベタつきと泥濘が足場として不十分なのを感じさせる。
左右を見ると、海が割れた事により透明なカーテンが出来上がってしまい、シャワーのように水が上空から降り注いでいた。
「終わりか?【紅閃姫】」
「つ、強い。以前とは違うのか?」
「言ったろ。以前は横槍があったと。しかし此度は違う。貴様の首、我が同胞の無念と共に貰い受ける」
灰色に染め上がった空は哭く。冷たい雨粒を落とし、光を流す。
透明なカーテンにも制限時間がある。
何時までも勢いは続かないのだから仕方ない。
だがシルティアの魔法もまた時間制限がある。
白色と紅色に染め上がった身体は蛍の光のように点滅し始めた。
白く光る雷が鳴り、シルティアを喰らうように海は中央に戻ろうと波を立てる。
急ぎ砂浜へと戻って形勢を立て直さなければならない状況下においてダイブリンは容赦なく迫り、右手を強く握りシルティアの頭部へと下ろした。
地面に叩き付けられるのも束の間、間髪入れずに括っていた髪は解けたのを良い事に髪を引っ張り、砂浜へと投げ込む。
紅色の髪は僅かに散り、海へと浮かんで波に弄ばれる。
興が乗った男の愉快で豪快なオーケストラが始まる。
ひたすらに殴るだけの音楽。剛腕によって齎された一撃は着実にシルティアの身体にヒビを入れていき、血を吐き出させていく。
轟音が響き渡る。勇猛な叫びは咆哮へと音色を変えて、轟く衝撃は砂浜を抉り、地盤に達してもまだ旋律を奏でた。
悲鳴は絶叫へと移り変わり、抗う様子を見せる四本の手脚は赤子の手をひねるかのように意図も容易くへし折ってみせる。
悲痛な叫びを抑え込むように鼻っ柱を殴り付け、更に発声する悲鳴に合わせて頬を砕く。
綺麗な顔立ちを汚く不細工なものへと変形させるべく拳は叩き付けられていく。
鼻は折れ曲がり、頬の骨は砕けて、顎は砕ける。
やがて、か細くなる息遣いに気付いたダイブリンは睨み付けた。
──足りない、と。
「よく耐える。その魔法によるものか。⋯⋯だが、もう終わりだ」
点滅していた紅の光はようやっと消失し、痛ましいまでの瀕死の女性のみが残った。
か細く開かれた眼は遠くを眺め、血溜まりを溢れさせながら、赤く濡れた身体を動かそうとするも力は当然入らない。
つい二分前までジタバタとしていた手脚は既に曲がってはならない方向に全て曲がっている為か、感覚もとうに消え去ってる。
紅が特徴的な髪色は血で染まり、雨により洗い流されていく。
(⋯⋯これは罰だ。国の為と謳ってこの男の全てを奪った報いだな⋯⋯)
過去を振り返れば、過ちの数が積み重なるばかり。
他はない。楽しい記憶よりも残酷で冷徹な判断の元に行われた痛ましい記憶のみが鮮明に跳ねていく。
いっそ弾ければどれほど楽だったか。だが、鮮明かつ鮮烈な記憶ほど焼き付いて離れないものであり、苦い記憶ほど染み渡って遺恨を孕むのだ。
(コージ、済まない。ごめんなさい)
喉は鳴らず、腐りかかったゴミのように打ち捨てられたシルティアの最期の言葉は外には漏れない。
一方の男は曲剣で突き刺そうと構えだし、赤く尖った眼光を真っ直ぐにシルティアへと向けて叫ぶ。
「我が同胞の仇。ここで討ち取らせて貰う!!死ねぇ!シルティア・フォン・ユーベルアインッ!!」
完全敗北の末、顛末は悲惨で冷淡なものだ。
だが、忘れてはならない。ここは『異世界』ではないという事を──。
「やめろォォォォォォ!!!」
雷が鳴り響く中、雨が降り積もる中、砂浜を濡らしていく中──少年の声がした。
(⋯⋯コージ?)
脱力しきった瞼は再び開けられた。か細く、開いているのか閉じているのか判別の付きにくい程の細まった視界で確かに見た。
上空から落ちていく少年を──。




