第5話 扱い方を間違えてはいけない
社交会の翌日から、店の空気は少しだけ変わった。
客足が急に増えたわけではない。
扉の開く回数も、帳簿の数字も、いつもと大差ない。
だが、問い合わせの内容が変わった。
「伯爵夫人と“同じ仕様”で」
「社交会で評判だった服を」
そう前置きされることが、明らかに増えたのだ。
それは流行というには静かで、
偶然というには揃いすぎていた。
店の奥で帳簿を見ていたオーナーは、しばらく黙り込んでから言った。
「……これは、慎重に扱わねばならんな」
私は針を動かしながら、耳を傾ける。
針先が布をすくう音だけが、小さく響く。
「広く売れば売れる。だが、それをやれば——」
言葉はそこで切れた。
続きを言わなくても分かる。
老舗の仕立て屋として、信用は命だ。
流行を追いすぎれば、質が落ちる。
特別な一着を、ただの商品にしてしまえば、価値も下がる。
そして何より。
「お前が潰れる」
オーナーは、はっきりとそう言った。
私は、思わず手を止めた。
布の上に影が落ちる。
「……私は、仕事ですから」
「分かっている。だからこそだ」
オーナーは椅子に腰を下ろし、静かに続ける。
「この服は、“楽な服”として売るものではない」
その言い方に、私は少しだけ目を上げた。
「着る場、立場、用途。それを間違えれば——
“楽な服”は“だらしない服”になる」
私は、ゆっくりと頷いた。
確かにそうだ。
市民服と社交の正装では、求められるものが違う。
快適さだけを前に出せば、体裁を損なう。
服は、身体だけでなく、場にも合わせるものだから。
「だから——」
オーナーは、私を見る。
「扱い方を決める」
その声は、商売人のものではなく、
職人の親方の声だった。
その日、店は珍しく早じまいになった。
応接室で、オーナーは紙を広げ、考えを言葉にしていく。
・完全な同仕様は紹介制にする
・用途と着用時間を必ず確認する
・仕立てる数を制限する
・表に出るのは、あくまで店の名
淡々とした箇条書きだったが、
一つ一つが、線を引く行為だった。
「お前の名前は、出さない」
その一言に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがたいです……」
「勘違いするな。これは保護でもあるし、責任でもある」
オーナーは言う。
「この店が看板を背負う。お前は、腕を振るえばいい」
逃げ道ではない。
だが、盾ではある。
私は、深く息を吸った。
スローライフには、ほど遠い。
けれど、独りではない。
その日の帰り道。
石畳を踏みしめながら、私はふと前世のことを思い出していた。
大量生産。短納期。
名前だけが一人歩きして、作り手が置いていかれる世界。
あのとき、私は確かに疲れていた。
でも今は違う。
この世界では、
服は、誰かの時間と身体に寄り添うものだ。
それをどう扱うかを、
本気で考えてくれる人が、ここにいる。
私は、針を握る手に、少しだけ力を込めた。
——この服は、雑に扱わせない。
そう、心の中で静かに決めながら。




