第22話 名前のない相談
その依頼は、正式な書式ではなかった。
封蝋も、紋章もない。
ただ、短い文。
——人目を避けて、相談したい。
——王宮内では、話せない。
差出人の名は、書かれていない。
だが、紙質は上等だった。
オーナーは、書状を机に置いたまま言う。
「これは、仕事じゃないな」
私は、小さく頷いた。
「相談です」
断定に近い声音だった。
約束の時間。
店を閉めたあと、表の灯りを落とし、
裏口だけを開けて待った。
来たのは、若い女性だった。
簡素な外套。
装飾は、ほとんどない。
だが——所作が違う。
背筋の伸び方。
視線の置き方。
歩幅の揃え方。
身分を隠す気はあっても、
消しきれない癖がある。
(王宮の人間だ)
確信に近い感触があった。
「名前は、不要です」
席に着くと、彼女はそう言った。
声は落ち着いている。
だが、息の入り方がわずかに浅い。
「……はい」
私は、対面に腰を下ろす。
「私は、
公の場に立つと、息が浅くなります」
最初の言葉が、それだった。
病名ではない。
訴えでもない。
ただの、事実の提示。
「式典のあと、
必ず疲れ切ってしまう」
私は、返事を急がず、彼女の姿勢を見る。
肩が、ほんの少し内に入っている。
胸元の布が、呼吸のたびに微妙に突っ張る。
首周りの衣装が、逃げ場を塞いでいる。
緊張だけではない。
構造の問題が混ざっている。
「動きにくい、のではなく」
一拍置いて、言葉を選ぶ。
「“逃げ場がない”感じですね」
彼女の目が、はっきりと見開かれた。
「……その通りです」
声に、初めて温度が乗る。
私は、すぐに布の話には入らなかった。
代わりに、順に聞く。
立つ時間。
歩く距離。
視線が集まる瞬間。
最も呼吸が浅くなる場面。
オーナーは、一度も口を挟まない。
ただ、黙って聞いている。
最後に、彼女は言った。
「威厳は、失いたくありません」
迷いのない一文。
ここが、境界線だ。
「はい」
私は、即答した。
「威厳は、
“耐えている顔”ではありません」
ほんのわずか。
彼女の口元が緩む。
「あなたは、
難しいことを簡単に言いますね」
「簡単にするのが、仕事です」
静かな応酬。
しばらくの沈黙のあと、彼女は視線を落とした。
「……これは、
公式な依頼にはできません」
その言葉の重さは、よく分かる。
「それでも、構いません」
私は、条件表を取り出さなかった。
今日は、線を引く場面ではない。
「今日は、
作る話をしません」
彼女の肩から、わずかに力が抜けた。
それだけで、来た意味はあったのだと思う。
帰り際。
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
「もし、私が
“ただの一人”として頼んだら」
試すようでも、縋るようでもない声。
私は、まっすぐ答える。
「条件が整えば、
お引き受けします」
特別扱いもしない。
拒絶もしない。
それが、この店の線だ。
扉が静かに閉まる。
足音が遠ざかってから、
オーナーが、ゆっくり息を吐いた。
「……来たな」
「はい」
短い返事。
名前のない相談は、
王族個人のものだった。
制度でも、部署でもない。
役割でも、命令でもない。
一人の人間が、
服に助けを求めてきた。
それは——
この仕事の中で、
いちばん軽く扱ってはいけない依頼で。
同時に、
いちばん重い依頼でもあった。




