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【1巻8/8発売】追放された最強魔導師は、弟子の才女と世界を巡る【コミカライズ企画進行中】  作者: 九条蓮


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第71話 本丸のご褒美

 帰り道の露店で、エリシャは新しいインク壺をひとつ買った。

 依頼も研究もなしの一日に、買ったものが写本三冊とインク壺。筋金入りにも、ほどがある。

 宿の前まで戻ると、日はまだ石段の上に残っていた。夕食には少し早い。どちらからともなく、石段に並んで腰を下ろした。手はいつの間にか解けていて、その代わり、肩が触れるかどうかの距離だけが残っている。

 エリシャが、膝の上でノートを開いた。

 真新しい頁に、几帳面な字が躍る。意図的無詠唱・習得計画。研究計画二〇三号、と番号まで振ってあった。


「おい。今日は研究なしの約束だったろうが」

「これは研究じゃありません。お喋りです。……ほら先生、火花の次は何がいいと思いますか?」

「水滴だな。火より制御の粗が見える。いや、待てよ? お前は雷の適性が高いから、そちらを先に進めても……」


 言いかけて、気付けば身を乗り出していた。

 火花の安定までの日数、紋の開閉の訓練法、詠唱との併用の是非。話すべきことは、いくらでも湧いてくる。段階を三つに割り、各段の判定基準を決め、危険の線引きまで話が及んだ。世界の音が遠くなる深みには、当面ひとりで潜らせない。そこだけは計画の頭に、太字で書かせた。

 エリシャはペンを走らせながら、時折こちらの顔を、嬉しそうに見上げていた。書き取りより、眺める方が忙しそうだった。

 こほん、とアルドは咳払いをひとつ挟んだ。


「全く、お前というやつは。結局、いつもみたいな話になっているではないか」

「えへへ。だって、先生の話を聞いているのが一番楽しいですから」


 悪びれもせずに言って、弟子はノートに次の行を足す。

 夕陽が石段を橙に染め、通りの向こうで宿の主人が軒灯へ火を入れ始めた。ノートの頁が埋まっていく速さと、日の沈む速さが、ちょうど競り合っている。

 いい弟子を持ったものだ。

 そんな呆れ半分の結論に落ち着いて、アルドは夕陽の残りを眺める。依頼も研究もなしの約束は、日暮れを待たずにあっさり破られた。破った当人たちが、揃って上機嫌なのだから、世話はない。


       *


 夜になった。

 湯上がりのエリシャが、いつものように椅子へ座る。アルドは指先を振って、温めた風を細く起こした。銀の髪をすくい上げ、根元から毛先へ、乾いた風を通していく。

 図書館通いの頃から続く、宿の定番だった。風の温度は覚えている。梳く順番も覚えた。手早く済ませようと思えば半分の時間で済むのに、いつの間にか、急がない乾かし方が標準になっていた。

 エリシャは目を細めて、されるがままになっている。半分眠りかけているような横顔に、一日分の疲れが滲んでは、風に紛れて消えていった。今日は依頼も研究もなかったはずだが、丸一日を全力で過ごせば、疲れるものは疲れるらしい。

 乾かし終えて、風を解いた。


「ほら、終わりだ。今日はもう寝ろ」


 これで、ご褒美の一日も店じまいのはずだった。

 だが、エリシャは椅子から立ち上がると、こちらへ向き直った。両手を後ろに組んで、上目遣いでこちらを見る。


「先生。最後に、おまけをひとつだけ、いいですか」

「ご褒美におまけを付ける気か。……まあ、いいだろう。言ってみろ」


 どうせインクの色の相談か、明日の鍛錬の前倒しあたりだろう。そう高を括っていた。

 括っていたのだが──。



「……ぎゅーって、してほしいです」


 エリシャは深呼吸をひとつして、言った。

 沈黙が落ちる。

 ぎゅーってなんだ。一瞬だけ考え込んで、すぐに意味がわかる。顔が熱くなった。


「は、はあ!? ででで、できるかそんなもん!」

「望みを言えって言ったのは先生じゃないですか!」

「常識の範囲内と言っただろうが!」


 声がまた裏返る。だが、エリシャは一歩、詰めてきた。


「でも、今日は手繋ぎデートをしましたよね?」

「まあ……」

「手繋ぎデートが常識の範囲内で、ぎゅーが範囲外になる理由は、なんですか?」

「そ、それは……」


 答えに詰まった。詰まった隙に、もう一歩詰められる。


「なんですか?」


 背中が、壁についた。

 落ち着け。反論の文を組めばいいだけだ。査読なら本職である。

 一つ。手繋ぎは屋外、これは屋内で密着度が違う。

 ……密着度に境界線を引く基準を、こちらが示せない。棄却だ。

 二つ。師弟の分を越える。

 ……手繋ぎデートの時点で越えていなかったと言えるのか。前提が既に崩れている。棄却。

 三つ。俺が困る。

 ……それは常識の話ではなく、こちらの都合だ。論外。棄却。

 三本とも、対句が崩れていた。出来の悪い論文なら突き返せるのだが、目の前の弟子の文は、腹立たしいほど筋が通っている。手繋ぎが範囲の内なら、これが範囲の外になる理由は──なかった。

 世界に「筋の通った方」を選ばせてきた身だ。自分だけが例外というわけには、いかなかった。


「……三秒だ」

「え?」

「三秒だけだからな」


 観念して、両腕を開く。

 言い終わるより早く、エリシャが飛び込んできた。


「やった~っ! 一番のご褒美ですっ」


 ふわり、と風呂上がりの女の匂いが鼻孔を擽ってくる。

 実に心臓に悪い匂いだった。


「先生……」

「なんだ」

「五秒がいいです」

「値上げ交渉をするな!」


 腕の中で、くすくすと笑う振動が伝わってくる。

 重い、というほどの重さではない。ただ、確かな重みと、湯上がりの温度が、胸元にあった。

 石鹸の匂いと、乾かしたばかりの髪の柔らかさ。風魔法でも、繋いだ手でも拾えなかったものが、腕の内側に収まっている。

 三秒は、とうに過ぎていた。数えるのを忘れたのではない。数える気が、最初からなかっただけだ。


「先生、あったかいです」

「それは……俺も湯上がりだからな。むしろ、お前も暑いだろ。そろそろ離れていいんじゃないか?」

「嫌です。全然暑くありません。むしろ、ずっと……このままが、いいです」


 小さな声が、胸のあたりでくぐもった。

 ずっとって……それでは、本当に。

 そこまで考えて、思考を中断した。これ以上は考えてはいけないような気がしたのだ。


「というかお前、こっちのご褒美が本丸だったな?」

「えへへ。バレました? さすがに朝にこれを言うのは恥ずかしかったので……」

「夜だと恥ずかしくない道理があるのか?」

「あるんですっ!」


 弟子は怒ったようにそう返すと、背中に回した腕の力を強めた。

 腕を解いたのは、五秒どころか、結局十を数え終えてもまだ先のことだった。

 名残惜しげに、するりと離れる。彼女はやっぱり上目遣いのまま、おずおずとこちらを見上げていた。


「なんだ、まだあるのか?」

「その。このご褒美って、またしてもらえますか……?」

「……お前の働き次第だ」


 そう答えると、エリシャは「やった!」と満面の笑みを浮かべた。

 それから「また頑張りますっ。おやすみなさい!」と一礼し、逃げるように自分のベッドに潜り込んだ。


(やれやれ……何が働き次第だ)


 アルドはそんな弟子を横目に、椅子に沈み込んだ。

 保護者の帳簿を、頭の中で開いてみる。礼はご褒美で払った。手繋ぎ一日、おまけの十数秒。貸し借りの欄は、これで釣り合ったはずだ。

 はずなのだが──勘定が、合わない。

 払ったのはこちらのはずが、胸元にはまだ温度が残っていて。差し引きすると、むしろ受け取った側の残高になっている。

 この差額をどの欄に付ければいいのか。めくってもめくっても、帳簿に項目が見当たらなかった。

 ……答えは、出さないでおく。これはきっと、学問よりも遥かに難しいことだ。

 息を吐いて、卓上の手帳を引き寄せた。明日からの計画でも眺めて頭を冷やすつもりが、頁を繰る手は、古い書き付けの上で止まった。


『選定ヲ受ケシモノ』


 ノア=セリアで最初に拾った、神託の写しだった。

 選定。鍵穴。拙い筆の書き手。手帳の中では、まだ何も繋がっていない断片たちが、静かに次の頁を待っている。

 こっちの問題も、まだ残ったままだ。アルドたちは、まだこれらの解決の糸口さえ見つけられていなかった。


(まあ……何とかなるだろう。この弟子もいることだしな)


 毛布からこちらを覗き見るようにしていた弟子と、目が合う。

 目が合うや否や、弟子は隠れるように毛布を頭まで被った。


「ほら、もう寝るぞ。明日から、研究再開だからな」

「はぁい」


 布団の中から、出来の悪そうな生徒の返事。

 アルドは小さく笑ってから手帳を閉じ、灯りを消した。

 ──この弟子との研究旅行は、まだまだ先が長そうだ。


 書籍版1巻が遂に本日発売!


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2026年8月8日、ツギクルブックス様より1巻発売!

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