第71話 本丸のご褒美
帰り道の露店で、エリシャは新しいインク壺をひとつ買った。
依頼も研究もなしの一日に、買ったものが写本三冊とインク壺。筋金入りにも、ほどがある。
宿の前まで戻ると、日はまだ石段の上に残っていた。夕食には少し早い。どちらからともなく、石段に並んで腰を下ろした。手はいつの間にか解けていて、その代わり、肩が触れるかどうかの距離だけが残っている。
エリシャが、膝の上でノートを開いた。
真新しい頁に、几帳面な字が躍る。意図的無詠唱・習得計画。研究計画二〇三号、と番号まで振ってあった。
「おい。今日は研究なしの約束だったろうが」
「これは研究じゃありません。お喋りです。……ほら先生、火花の次は何がいいと思いますか?」
「水滴だな。火より制御の粗が見える。いや、待てよ? お前は雷の適性が高いから、そちらを先に進めても……」
言いかけて、気付けば身を乗り出していた。
火花の安定までの日数、紋の開閉の訓練法、詠唱との併用の是非。話すべきことは、いくらでも湧いてくる。段階を三つに割り、各段の判定基準を決め、危険の線引きまで話が及んだ。世界の音が遠くなる深みには、当面ひとりで潜らせない。そこだけは計画の頭に、太字で書かせた。
エリシャはペンを走らせながら、時折こちらの顔を、嬉しそうに見上げていた。書き取りより、眺める方が忙しそうだった。
こほん、とアルドは咳払いをひとつ挟んだ。
「全く、お前というやつは。結局、いつもみたいな話になっているではないか」
「えへへ。だって、先生の話を聞いているのが一番楽しいですから」
悪びれもせずに言って、弟子はノートに次の行を足す。
夕陽が石段を橙に染め、通りの向こうで宿の主人が軒灯へ火を入れ始めた。ノートの頁が埋まっていく速さと、日の沈む速さが、ちょうど競り合っている。
いい弟子を持ったものだ。
そんな呆れ半分の結論に落ち着いて、アルドは夕陽の残りを眺める。依頼も研究もなしの約束は、日暮れを待たずにあっさり破られた。破った当人たちが、揃って上機嫌なのだから、世話はない。
*
夜になった。
湯上がりのエリシャが、いつものように椅子へ座る。アルドは指先を振って、温めた風を細く起こした。銀の髪をすくい上げ、根元から毛先へ、乾いた風を通していく。
図書館通いの頃から続く、宿の定番だった。風の温度は覚えている。梳く順番も覚えた。手早く済ませようと思えば半分の時間で済むのに、いつの間にか、急がない乾かし方が標準になっていた。
エリシャは目を細めて、されるがままになっている。半分眠りかけているような横顔に、一日分の疲れが滲んでは、風に紛れて消えていった。今日は依頼も研究もなかったはずだが、丸一日を全力で過ごせば、疲れるものは疲れるらしい。
乾かし終えて、風を解いた。
「ほら、終わりだ。今日はもう寝ろ」
これで、ご褒美の一日も店じまいのはずだった。
だが、エリシャは椅子から立ち上がると、こちらへ向き直った。両手を後ろに組んで、上目遣いでこちらを見る。
「先生。最後に、おまけをひとつだけ、いいですか」
「ご褒美におまけを付ける気か。……まあ、いいだろう。言ってみろ」
どうせインクの色の相談か、明日の鍛錬の前倒しあたりだろう。そう高を括っていた。
括っていたのだが──。
「……ぎゅーって、してほしいです」
エリシャは深呼吸をひとつして、言った。
沈黙が落ちる。
ぎゅーってなんだ。一瞬だけ考え込んで、すぐに意味がわかる。顔が熱くなった。
「は、はあ!? ででで、できるかそんなもん!」
「望みを言えって言ったのは先生じゃないですか!」
「常識の範囲内と言っただろうが!」
声がまた裏返る。だが、エリシャは一歩、詰めてきた。
「でも、今日は手繋ぎデートをしましたよね?」
「まあ……」
「手繋ぎデートが常識の範囲内で、ぎゅーが範囲外になる理由は、なんですか?」
「そ、それは……」
答えに詰まった。詰まった隙に、もう一歩詰められる。
「なんですか?」
背中が、壁についた。
落ち着け。反論の文を組めばいいだけだ。査読なら本職である。
一つ。手繋ぎは屋外、これは屋内で密着度が違う。
……密着度に境界線を引く基準を、こちらが示せない。棄却だ。
二つ。師弟の分を越える。
……手繋ぎデートの時点で越えていなかったと言えるのか。前提が既に崩れている。棄却。
三つ。俺が困る。
……それは常識の話ではなく、こちらの都合だ。論外。棄却。
三本とも、対句が崩れていた。出来の悪い論文なら突き返せるのだが、目の前の弟子の文は、腹立たしいほど筋が通っている。手繋ぎが範囲の内なら、これが範囲の外になる理由は──なかった。
世界に「筋の通った方」を選ばせてきた身だ。自分だけが例外というわけには、いかなかった。
「……三秒だ」
「え?」
「三秒だけだからな」
観念して、両腕を開く。
言い終わるより早く、エリシャが飛び込んできた。
「やった~っ! 一番のご褒美ですっ」
ふわり、と風呂上がりの女の匂いが鼻孔を擽ってくる。
実に心臓に悪い匂いだった。
「先生……」
「なんだ」
「五秒がいいです」
「値上げ交渉をするな!」
腕の中で、くすくすと笑う振動が伝わってくる。
重い、というほどの重さではない。ただ、確かな重みと、湯上がりの温度が、胸元にあった。
石鹸の匂いと、乾かしたばかりの髪の柔らかさ。風魔法でも、繋いだ手でも拾えなかったものが、腕の内側に収まっている。
三秒は、とうに過ぎていた。数えるのを忘れたのではない。数える気が、最初からなかっただけだ。
「先生、あったかいです」
「それは……俺も湯上がりだからな。むしろ、お前も暑いだろ。そろそろ離れていいんじゃないか?」
「嫌です。全然暑くありません。むしろ、ずっと……このままが、いいです」
小さな声が、胸のあたりでくぐもった。
ずっとって……それでは、本当に。
そこまで考えて、思考を中断した。これ以上は考えてはいけないような気がしたのだ。
「というかお前、こっちのご褒美が本丸だったな?」
「えへへ。バレました? さすがに朝にこれを言うのは恥ずかしかったので……」
「夜だと恥ずかしくない道理があるのか?」
「あるんですっ!」
弟子は怒ったようにそう返すと、背中に回した腕の力を強めた。
腕を解いたのは、五秒どころか、結局十を数え終えてもまだ先のことだった。
名残惜しげに、するりと離れる。彼女はやっぱり上目遣いのまま、おずおずとこちらを見上げていた。
「なんだ、まだあるのか?」
「その。このご褒美って、またしてもらえますか……?」
「……お前の働き次第だ」
そう答えると、エリシャは「やった!」と満面の笑みを浮かべた。
それから「また頑張りますっ。おやすみなさい!」と一礼し、逃げるように自分のベッドに潜り込んだ。
(やれやれ……何が働き次第だ)
アルドはそんな弟子を横目に、椅子に沈み込んだ。
保護者の帳簿を、頭の中で開いてみる。礼はご褒美で払った。手繋ぎ一日、おまけの十数秒。貸し借りの欄は、これで釣り合ったはずだ。
はずなのだが──勘定が、合わない。
払ったのはこちらのはずが、胸元にはまだ温度が残っていて。差し引きすると、むしろ受け取った側の残高になっている。
この差額をどの欄に付ければいいのか。めくってもめくっても、帳簿に項目が見当たらなかった。
……答えは、出さないでおく。これはきっと、学問よりも遥かに難しいことだ。
息を吐いて、卓上の手帳を引き寄せた。明日からの計画でも眺めて頭を冷やすつもりが、頁を繰る手は、古い書き付けの上で止まった。
『選定ヲ受ケシモノ』
ノア=セリアで最初に拾った、神託の写しだった。
選定。鍵穴。拙い筆の書き手。手帳の中では、まだ何も繋がっていない断片たちが、静かに次の頁を待っている。
こっちの問題も、まだ残ったままだ。アルドたちは、まだこれらの解決の糸口さえ見つけられていなかった。
(まあ……何とかなるだろう。この弟子もいることだしな)
毛布からこちらを覗き見るようにしていた弟子と、目が合う。
目が合うや否や、弟子は隠れるように毛布を頭まで被った。
「ほら、もう寝るぞ。明日から、研究再開だからな」
「はぁい」
布団の中から、出来の悪そうな生徒の返事。
アルドは小さく笑ってから手帳を閉じ、灯りを消した。
──この弟子との研究旅行は、まだまだ先が長そうだ。
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