1巻発売記念SS!
湯上がりの髪が、まだ少しだけ重い。
宿の二階、いつもの部屋。エリシャはベッドの端に腰掛けて、タオルで毛先を押さえていた。白銀の髪は乾くと軽いのだが、水を含んだままだと肩に纏わりついて厄介だ。
窓辺の机では、アルドが研究ノートにペンを走らせている。魔導灯の琥珀色の光が、彼の横顔を静かに照らしていた。ペン先が紙を引っ掻く音だけが、一定の間隔で部屋に落ちる。
いつも通りの、何でもない夜だ。
──何でもない夜の、はずだった。
タオルを持つ手が、ふと止まる。
視線が手元から離れて、アルドの椅子の背に掛けられたローブのほうへ引き寄せられていた。昼間、図書館で自分の肩に掛けられていたあのローブ。今はもう持ち主の元に戻っているのに、エリシャの肩のあたりには、まだ布の重みの名残のようなものがある。
重さ、とは違う。温度、とも少し違っていた。
消えたはずなのに熱だけが留まっている──残り火みたいだ、とエリシャは思った。
「風邪を引くぞ。早く乾かせ」
アルドがペンを止めずにそう言った。こちらの手が止まっているのに気づいたらしい。目線はノートに落としたままだが、背中越しにこちらの様子を察するのはもう慣れたものだ。
「……はい」
返事をして、タオルドライを再開する。
いつも通り。何でもない。アルドは先生で、自分は弟子で、それだけのこと。
そう言い聞かせているのに、肩に残ったあの感触が、じわじわと胸のほうに広がっていく。
こういう時はだめだ。考えないようにしなければ。
でも、髪を拭いている間は手だけが動いて、頭は暇を持て余してしまう。
暇を持て余した頭は、決まって今日の記憶を引っ張り出してくるのだ。
*
あの瞬間のことを、エリシャは何度も反芻していた。
脚立の最上段。棚に手を伸ばした時、木がぐらりと揺れた。
身体が傾いて、視界が回る。ローブの裾がふわりと浮いて、落ちる──そう思った刹那、背中に手のひらが当たった。
それがアルドのものだとわかるまでに一拍かかった。
怖かったのは、落ちることではない。背中を支えた手のひらの大きさと温度。それに気づいた途端、心臓が跳ね上がったのだ。
降りようとして足を滑らせ、勢い余って胸元がアルドの胸にぶつかってしまった。ほんの一瞬の接触。それだけのことなのに、触れた場所から体温が染み込んでくるようで、耳の奥まで熱くなった。
慌てて離れて、謝った。何事もなかったような顔を取り繕えた、とは思う。
アルドは「片手は棚か脚立を持てと言っただろう」と呆れた声で言うだけで、それ以上は何も言わなかった。
(……もうちょっと、何かあってもいいと思うんですよね)
何でもないことのように振る舞われると、何でもなくないのは自分だけなのだと突きつけられるようで。こっちは同じ部屋で泊まることになった初日から覚悟しているというのに、困ったものだ。
あの後、エリシャは午後の作業に没頭した。
神代語の痕跡を追う作業は地味で、根気がいる。だが、集中していれば余計なことを考えずに済んだ。ペンの先に意識を注ぎ込んで、文字を追って、書き写して、仮説を立てて。
そうやってひたすらペンを走らせていたはずなのに、気がついたら意識が途切れていた。
目を開けた時、最初に感じたのは紙とインクの匂いに混じった、もうひとつの匂いだった。
肩に、自分のものではない布の重みがある。寝ぼけた目にぼんやり映った紺色で──ようやく、それがアルドのローブだとわかった。
頭の奥が、じん、と痺れた。
目覚める直前、夢の中で何かを探していた気がする。何を探していたのかまでは覚えていない。ただ、何かに手を伸ばしていた。それだけは、何となく覚えている。
そしてもうひとつ、覚えていることがあった。
夢と現のあわいで、声が聞こえた気がしたのだ。とても近くで、とても静かな声。何と言っていたのかは、はっきりしない。でも、その声を聞いた瞬間に、探していたものを見つけたような安堵があった。
夢だったのかもしれない。いや、きっと夢だ。
でも、もし夢でなかったとしたら。
そこまで考えて、エリシャは頭を振った。確かめる術がないし、確かめてはいけない気もする。
目覚めた後、アルドは何事もなかったように言った。
「寒そうだったからな。風邪を引かれても困る」
特別なことなど何もしていないという顔で。いつもの淡々とした口調で、そう言っていた。
この人はいつもそうなのだ。大切なことほど、何でもないことのように言う。学院にいた時からずっとそうだった。
だから余計に、ずるい。
*
タオルを椅子の背に掛けて、エリシャは膝の上に研究ノートを広げた。
帰り道で「図書館で寝落ちしないこと」を書き足すと宣言した手前、ペンを持って白紙のページに先端を近づける。
だが、どうしてか書けなかった。
代わりに、全く別のことが頭に浮かんでくる。学院にいた頃の記憶だ。
講義室の最前列で、いつも一番乗りで席に着いて、教壇に立つアルドの言葉をひとつも漏らすまいとノートを取った。講義が終われば質問を持って教卓に向かう。質問はいつも二種類用意していた。教科書の範囲のものと、教科書が触れない境界線の、さらに向こう側のもの。
前者は他の生徒もする。でも後者に目を輝かせてくれるのは、アルドだけだった。
あの頃は「学びたい」という気持ちだけで足りていた──と、思っていた。先生の講義を聞いて、先生の知識に触れて、先生に認めてもらえたら。それだけで、充分だったはずだ。
でも、今は違う。
いつからか「学びたい」の奥に、別の感情が根を下ろしてしまっていた。
脚立で支えられた時の、手のひらの大きさ。ローブ越しの、紙とインクと、かすかな香草の匂い。目覚める直前に聞こえた──あるいは聞こえなかった──あの声。
そのどれもが胸を締めつけるのは、ただの師への尊敬ではないからだ。
とっくに、わかっている。
わかっているからこそ、困るのだ。
この気持ちを口にしたら、今の距離が壊れるのではないか、と。師弟という関係が、変わってしまう。先生の隣にいる理由が「学ぶため」から別のものにすり替わったら、もうこの場所にいさせてもらえなくなってしまうのではないだろうか。
それが怖い。
アルドの方から踏み越えてくれたならば、こちらとしては気が楽だった。隣にいることを、許されると思えるから。
しかし、彼はきっと、こちらの気持ちになど気づいていない。鈍いとかではなく、あの人はそもそもこちらを弟子としてしか見ていないのだ。初めて同じ部屋で夜を過ごした時も、最後まで〝師匠〟でしかなかった。自分がどれだけ期待していたかも知らずに。
だから、黙っているしかなかった。隣にいて、胸の奥の熱をひとりで抱え続ける。今日みたいな日は、その熱がときどき息を吹き返して苦しくなるけれど。
(……ダメですね。もう、完全に沼ってます)
エリシャはそっと顔を上げて、窓辺のアルドを見た。
ペンを走らせる横顔は、眉間にわずかな皺を寄せて何かを考え込んでいる。魔導灯の光が輪郭を柔らかく縁取って、その向こうに夜の闇が広がっていた。
没頭している時の彼は、こちらの声が届かないくらい遠いところにいる。神代語の体系、その向こう側にある世界の仕組み。エリシャにはまだ手が届かない場所に、この人はとっくに指をかけていた。自分はまだ、そこに手を伸ばすことさえ満足にできないのに。
(いつか、あの場所に並び立てたら)
その時には、この気持ちを伝えてもいいのだろうか。
アルドと同じ景色を見て、同じ言葉で語れるようになった時に──弟子としてではなく、対等な誰かとして隣に立てる日が来たら。
今はまだ、その資格がなかった。
だから今は、黙ったままでいい。
エリシャはペンの先をノートに当てた。
反省事項ではなく、ページの端に、今日の日付を小さく書き込む。
そしてその下に、一行だけ。
何を書いたのかは、エリシャだけが知っている。
インクが紙に染みるのを待ってから、静かにノートを閉じた。表紙を両手で軽く押さえて、膝の上にそっと置く。
「何を書いていた?」
顔を上げると、アルドがこちらを見ていた。
いつの間にかペンの手が止まっていて、少しだけ怪訝そうな目をしている。弟子がこっそり何かを書いているのが気になったのだろう。この人は、こういう些細なところに妙に鋭い。
「秘密です」
少し意地悪く笑ってみせた。
アルドの眉が、ぴくりと動く。
「弟子が師に秘密を持つのは感心しないな」
その声には咎めるような鋭さはなく、ただ純粋に訝しんでいるだけだ。それがわかるから、エリシャは怖がらずに言い返せた。
「先生だって、秘密をたくさん持ってるじゃないですか」
アルドが、一瞬詰まった。
無詠唱魔法のこと。学院を追放された本当の理由。世界の深層について、まだ語られていない仮説。エリシャが知っていること、知らないこと、その全部をひっくるめた秘密の山は、きっとアルドのほうがずっと大きい。
それを指摘されて、先生は小さく苦笑した。
「……まあ、それは否定できん」
その笑い方が好きだった。
──あ、だめだ。また抑え込んだはずの熱が、顔に出そうになっている。
エリシャは慌てて視線をノートに落とした。閉じたばかりの表紙を、両手の指先でそっと撫でる。
窓の外で、夜風が石畳を撫でる音がした。どこか遠くで、酒場の笑い声が聞こえてくる。
肩のあの感触は、まだ消えていなかった。
たぶん明日も、明後日も消えない。図書館で並んで座って、同じ文献を覗き込んで、時にはまた寝落ちして──そのたびに少しずつ、積もっていくのだろう。
それでいい、とエリシャは思った。
この気持ちを口にするのは、もう少しだけ先でいい。
今はただ隣にいられるだけで、十分だから。
そう思っていると、アルドがふと言った。
「ほら、エリシャ。さっさとこっちに来い」
「え!?」
思わず吃驚の声を上げる。
いきなりこっちに来いとはどういうことだろうか。まさか、ベッドに来い、と?
しかし、そんな少女の淡い期待をあっさりと裏切ってくるのがアルドだ。
「タオルドライは済んだのだろう? ほら、乾かしてやるから、こっちにこい」
「ああ……はい。お願いします」
そういうことか、と思わず落胆してしまう。
この男がそんな気障ったらしいことを言うわけがなかった。変なことを考えていたがために、期待してしまっていた。
「……?」
どこかしょぼくれた弟子を見て、アルドが怪訝そうに首を傾げる。
アルドの椅子に座ると、ほどなくして彼が生み出す温風が髪を乾かし始めた。
エリシャはその音を聞きながら、ノートを胸に抱えて目を閉じる。
確かに、まだまだ自分の思い描く関係にはなれないかもしれない。でも──こうして一緒にいれるなら。
こうして彼に、髪を乾かしてもらえるなら。
──明日も明後日も、その先も。ずっと、隣にいれますように。
そう、密かに願った。
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