第70話 ご褒美
昨夜の宿題の答え合わせが今朝来ることくらい、察しはついていた。廊下ですれ違った時の、あの思い詰めた挨拶がその証拠だ。
アルドが二杯目の茶を注いだ頃、エリシャが階段を降りてきた。おはようございます、の声がいつもより硬い。目の下にうっすらと影があるのは、寝不足の名残だろう。皿に取ったパンを千切っては口へ運び、千切っては止まり、時折こちらを窺っては、また皿へ戻る。
切り出す言葉を探している顔だった。急かさず、アルドは茶を啜って待つ。
やがて、エリシャはパンを置き、両手を膝の上で揃えた。
「き、決めました。ご褒美」
「うむ。言ってみろ」
こくり、と喉が動いた。深呼吸がひとつ。それからもうひとつ。準備運動の多い告白である。
一晩掛けて煮詰めた答えを、彼女は一息に注いだ。
「一日、先生と街を歩きたいです。依頼も、研究もなしで」
「まあ、それくらいなら別に普段から……」
「それで、その。手を、繋いでほしいです」
持ち上げかけた茶器が、止まった。
「……はい?」
聞き間違いかと思った。だが、エリシャは目を逸らさない。卓越しに、じっとこちらを見つめたまま、同じ言葉をゆっくり言い直した。
「手を、繋いでほしいです」
言い直せば言い直すほど恥ずかしいだろうに、声は最初より据わっていた。耳まで赤いのは据わっていないが。
アルドは茶器を置き、額を押さえた。
「……手なら、遺跡で繋いだだろう」
「あれは作戦だったじゃないですか! その……作戦じゃないやつが、いいんです。……だめ、ですか?」
語尾が、おずおずと下がる。申し訳なさそうに眉を下げて、それでいて、引っ込める気配だけは微塵もないようだ。
研究資材でも、装備でも、甘味でもない。明細を前に写本の冊数を数えていた本の虫が、悩み抜いて選んだのが、これだ。
金貨に換算できる望みなら、いくらでも安く済ませようがあった。換算できないものを選んでくるから、返答に困る。
「う、ううむ……」
唸りだけが漏れたる
街を歩くだけなら、断る理由はなかった。手についても、遺跡で一度繋いだ実績がある。実績があるなら、二度目を拒む道理も、まあ、ないはずだ。ないはずなのだが、あの時と違って今回は、魔力紋を重ねる必要がどこにもない。必要のない手を繋ぐというのは、それはつまり、なんというか。
思考が空回りを始めたところで、アルドは考えるのをやめた。
「まあ……安い礼だな。いいだろう」
「──!? ほんとですか!?」
エリシャの顔が、朝日を浴びたように晴れた。
安い礼、と口では言った。だが、これが安くない注文であることくらい、受けた側にもわかっている。わかった上で、値札を付けずに請け負うのが、今回ばかりは礼儀というものだろう。
「まあ、褒美の件は俺が自分で言ったことだからな。自分の言葉に責任を持つところも、師匠として見せねばならない」
尤もらしい理由を、何とか並び立てる。
その理由がどこまで信ぴょう性を持つのか、自分でも怪しいことはわかっていた。
「ほら、さっさと食べろ。行くぞ」
「はい、先生!」
やっぱりエリシャは、楽しげに頷いた。
朝の市場通りは、今日も呼び込みの声で賑やかだった。
宿を出てすぐ、エリシャがちらちらとこちらの左手を気にしだしいた。見ては、前を向く。また見る。そのくせ自分からは何も言わないのだから、始末に負えない。
アルドは観念して、手を差し出した。
「ど、どうも」と妙な礼を言って、エリシャがその手を取る。途端、遠慮のない力で握り返された。遺跡のあの時と、同じ握り方だった。
違うのは、流れてくるものだ。
魔力紋は、来ない。開かれる回路の気配も、世界の深みへ沈む冷たさもなかった。手のひら越しに伝わってくるのは、ただの体温だけだ。それだけのはずなのに、命令層に潜るよりも、よほど落ち着かない。
当のエリシャは、繋いだ手を見下ろして、口元を緩ませていた。
「……えへ、えへへ」
「気味の悪い笑い方をするな」
「だ、だって! 手繋ぎデートなんて、恋人みたいじゃないですか!」
「こ、恋──!? ば、バカ者! これは貴様がご褒美にと言うからだな!」
声が裏返った。通りすがりの果物屋が、にやにやとこちらを見ている。
「でもでも、傍から見たらデートにしか見えないですよ!? それは即ち、恋人です」
なぜか自信ありげに、胸まで張っている。詭弁にもほどがあるが、傍目の話をされると否定の材料に乏しいのが悔しいところだった。
「そ、そんなわけ──」
言い返しかけた視線の先に、見知った赤い外套を見つけて、アルドは硬直した。
鍛冶屋の軒先。注文した篭手の打ち合わせにでも来たのだろう。エストファーネが、腕を組んでこちらを眺めていた。その視線が、繋がれた手の高さで、一度だけ止まる。
「……ふむ。任務報告に書くべきか迷うところだが」
「書かんでいい!」
「では、アリア殿に報告だけでも」
「それだけは絶対にやめろ!」
エストファーネは、くっくっと喉の奥で笑った。
「安心しろ。手繋ぎは監査の対象外だ。良い休日を」
言い残して、監査役は店の奥へ戻っていった。仕事が早くて助かるが、あの含み笑いは間違いなく貸しにされている。
エリシャは隣で茹で上がっていた。それでも、手は離さない。むしろ、指の絡みが一段深くなっていた。
見られて恥ずかしいのと離したくないのとが同居して、後者が勝つらしい。その優先順位のつけ方が、いかにもこの弟子だった。
焼き菓子の露店では、店主の老婆に「仲がいいねえ」と冷やかされた。
エリシャが「は、はい! 大の仲良しです!」と胸を張るので、否定の機を完全に逸した。おまけだと言って袋に足された一枚は、後で見てみたらハート型。この街の商人は、どうにも目敏くていけない。
書店では、報酬の使い道が本格的に吟味された。
神代語関連の写本の棚の前で、エリシャは真剣そのものの顔になり、背表紙を端から見ていく。片手が塞がったままなので、棚から抜くのはアルドの仕事だ。ふたりがかりで一冊ずつ開いては、対句の型の載り具合を確かめる。店主が怪訝な顔をしていたが、構ってはいられない。結局、三冊が包まれた。
露店で買った焼き菓子を齧りながら、街を歩く。人混みで一度だけ手が解けかけ、エリシャが慌てて握り直してきた。逸れないための握り直しだ、と本人は言い張ったが、この身長差で逸れるものか。
昼を回った頃、足は自然と水路沿いへ向いていた。
水門亭。
石造りの店構えも、水路を見下ろす窓際の席も、あの日のままだった。あの日と同じ席が空いていたのは、ただの偶然だ。偶然だが、エリシャは迷わずそこへ座った。
注文まで、あの日と同じ川魚の香草焼きにするあたり、徹底している。運ばれてきた皿を前に、エリシャが窓の外へ目をやって、ふっと息を吐いた。
「前にここへ来た時、先生の秘密を教えてもらったんですよね。世界を説得する前に、頷いてもらえるって話」
「よく覚えているな」
「弟子ですから。それで、私……次の目標を決めたんです」
「ほう。殊勝なことだな。聞かせてみろ」
エリシャは背筋を伸ばした。なんだか、宣誓するかのような姿勢だ。
「……先生の隣に、ちゃんと並べるようになりたいです。無詠唱魔法の使い手として」
あの日この席で、彼女は師の秘密を聞く側だった。
今は火花を灯し、紋の開け方を身体で覚え、無詠唱魔法の使い手としての一歩を歩み始めている。聞く側から、並ぼうとする側へ。この僅かな間に、この弟子はそこまで歩いてきたのだ。
「急ぐな。お前の詠唱は、それ自体が芸術的で完成品だ。無詠唱は、その上に足すくらいでいい」
「はい。……でも、絶対に辿り着きたいんです。先生と、同じ場所に」
「……その頃には抜かれていそうな気がするがな」
「そんなことありませんよ。その頃には、先生はもっと上の方にいってると思います」
迷いのない即答だった。アルドは苦笑して、茶を置く。
「お前は俺をなんだと思ってるんだ?」
「史上最強の魔導師です」
これも即答である。
「学院から追放された最強魔導師なんて、いてたまるか」
窓の外で、水門の陽が水路に砕けていた。
急ぐな、とは言った。だが、並ばれる日は、そう遠くないだろう。あの伸び方を隣で見てきた身として、それだけは疑いようがなかった。
(並びたい、か……)
あの日この席には、打ち明ける秘密があった。無詠唱のこと、追放の本当の理由。卓の下に隠した手札を、一枚ずつ表に返すような午後だった。
今日は、隠すものがひとつもない。鍵穴の件も、紋の開け方も、手帳の写しの中身も、この席の向かいは全てを知っている。手札を全部表にして、それでも話が尽きない相手というのは、思えば得難いものだ。
食後のデザートを追加で頼むエリシャを眺めながら、アルドはそんな勘定を、茶と一緒に飲み込んだ。
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