第69話 土産話
リーヴェの門が見えてきたのは、峡谷を発って四日目の昼下がりだった。
護送の列が街道を折れると、見慣れた城壁が陽を受けて白く光る。荷馬車の揺れまで、心なしか柔らかくなっていた。
帰路の道中は、穏やかなものだった。
魔物の襲撃はなく、天候にも恵まれ、フィルへの報告も焚き火を囲みながら少しずつ済ませてある。後付けの門番〝鎖竜〟の顛末。黒い命令文の三層構造。設置室の改竄痕と、その補修。学者は目を輝かせたり青ざめたりと忙しく、そのたびに山ほどの問いを手控えへ書き付けていた。
ただ、ひとつだけ話していないことがある。
鎖竜が何を参照していたか。鍵穴が、誰だったのか。
その一件だけは、焚き火の輪の外に置いたままだった。どう扱うかは、正式な報告の前に決めねばならない。それが、帰路の間じゅう荷台の隅に転がっていた宿題だった。
鍵穴の当人──エリシャはといえば、荷台でノートの清書に励んだり、火花の自主練で護衛隊の子供扱いされたりと、いつも通りに過ごしていた。もっとも、時折こちらを窺う目が、宿題の行方を気にしているのは察しがついていたが。決めるのは師の仕事。そう思わせておくのも、保護者の役目のうちである。
門衛が列を認め、通行の手続きは驚くほど早く済んだ。というより、顔を見た途端に敬礼が飛んできた。門をくぐれば、市場通りの喧騒だ。呼び込みの声、焼き菓子の匂い、荷車の軋み。数日ぶりの街の音が、耳に一度に流れ込んでくる。
すれ違う商人や冒険者の目に、「例の」という色が浮かんでは流れていった。ノア=セリアへ向かった護送隊が戻った、という報せは、先触れより早く噂の足で駆け回っているらしい。〝封印核〟の一件からこちら、この三人組はすっかりリーヴェの顔になってしまった。
「やっと帰ってこれました〜……! お風呂! ちゃんとしたベッド!」
「私は鍛冶屋に寄ってくる。この篭手を、一日でも早く引退させてやりたい」
荷台から飛び降りたエリシャが、両腕を空へ突き上げて伸びをした。四日分の旅塵を浴びてなお、その声は元気なものだ。
隣では、エストファーネが早速、通りの先へ目星を付けている。
アルドはそんなふたりに、喟然として言った。
「報告が先だ。ふたりとも、ギルドに寄ってからにしろ」
「はぁい。……先生、報告って、その、全部話すんですか? 私の、あれも」
エリシャの声が、後半で小さくなった。
あれ、が指すものは訊くまでもない。鍵穴の一件だろう
「……それを今から決める」
短く答えて、アルドはギルドの扉を押した。
ギルドの中は、昼下がりの依頼ラッシュが引けた気だるい時間帯だった。それでも三人が入ると、酒場の側から口笛やら歓声やらが飛んでくる。手を挙げて応えるエリシャの隣で、アルドは足早に受付を抜けた。
応接室に通されると、待っていたのは赤毛の受付嬢──アリア=ガーネット。三人の顔ぶれを見るなり、書類の束を胸に抱えたまま、にんまりと笑う。その目は挨拶より先に、装備の傷み具合を上から下までしっかりと確認していた。外套の裂け目、篭手の亀裂、荷の減り方。それだけで大体の察しをつけるのが、この受付嬢である。
「護送、儀式、おまけにドラゴン退治。相変わらず報告書に書ききれない仕事ぶりねぇ……」
アルドたちの話を聞きながら、アリアが呆れた様子で言った。
「ドラゴンは正確ではないがな。石と鎖の、門番もどきだ」
「ギルドの帳簿上は『竜種相当』で処理するわよ。討伐報奨の等級が変わるから、そこは譲れないの」
言いながら、アリアの手は淀みなく動いていた。
護送任務の完了確認、儀式協力の達成報告、想定外戦闘の特記事項。羽根ペンが行を埋めるたび、長かった依頼が一枚ずつ「済み」の側へ移っていく。
エリシャが身を乗り出した。
「ほんと、大変だったんですよ!? 途中で私ばっかり狙われて、それで、先生が手を──」
「コホン!」
アルドは咳払いで遮った。少々、大きすぎる咳払いだった。
エリシャがはっと口を押さえる。
「……なんでもないです」
「あらあらあら〜?」
アリアが、途端に顔を緩める。
「なぁんだか今、聞き捨てならない言葉があった気がするけど?」
「何でもない、気のせいだ。それより、仕事を進めてくれ」
「そういうアルドさんも、顔が赤いわよ?」
アリアの目が、獲物を見つけた猫のそれになっていた。書類の手は止まっていないのだから、質が悪い。
「今日は暑いからな。長旅で少々疲れてるんだ」
「ふぅん? まあ、そういうことにしておきますか。魔導師師弟、手を繋ぐ……っと」
「何を書いてるんだ、貴様は!」
「あったことをちゃんと報告書に書かないと」
羽根ペンが、わざとらしく大きな音を立てて走る。
「これは関係ないだろ!」
覗き込めば、余白には確かに小さな走り書きがあった。アリアは笑いながら、その一行に二重線を引いてみせる。最初から、からかうために書いたのだろう。
ひとしきり遊んで満足したのか、受付嬢は書類を揃えて立ち上がった。
「報告は受理。査定と報奨の計算は夕方までに終わらせておくわね。……それと、学会のフィルさんが、奥の部屋で待ってるわよ。『正式な報告書を書く前に、突き合わせをしたい』ですって」
律儀なことだ。
アルドは頷き、弟子と監査役を連れて、奥の小部屋へ向かった。
小部屋には、既に茶が三つ、いや四つ並んでいた。
フィル=ナルカスは手控えの束を卓に広げ、こちらが座るのを待って、深々と頭を下げた。学会の名において、儀式完遂への礼。定型の口上が済むと、彼は羽根ペンを構え、いよいよ本題という顔になる。
アルドは先に、外套の内から手帳を出した。
写し取った黒の残滓。崩れの型、三種の整理。頁を開いて卓の中央へ滑らせると、フィルの目の色が変わった。
「これは……鎖に走っていた文の、写しですか」
「ああ。設置室の改竄痕と同じ手だ。対句の崩れ方に癖がある。書き手は、世界の言葉に触れられる何者か。ただし、原文の書き手と同格ではない。筆は、はっきり言って拙い」
「拙い……それなのに、封印の弱体化と門番の設置を、実際にやってのけているんですね」
フィルは写しを食い入るように追い、手控えへ猛然と書き付けていく。その羽根ペンが、ふと止まった。
「……それで、あの。門番は、何を基準に攻撃対象を選んでいたのでしょう? 『同調者ヲ拒メ』の、同調者とは」
来たな、と思う。
誠実な学者ほど、正確な記録を欲しがる。そして正確な記録ほど、組織の中では一人歩きをするものだ。学会の書庫に「鍵穴」の正体が綴じられれば、それを読む人間を、アルドは選べない。エリシャ=リュミエールという名前が、研究対象の欄に載る未来も想像に容易かった。
アルドは、湯気の立つ茶を一口含んでから、落ち着いた声で言った。
「写しはすべて渡す。ただ、門番が何を参照していたかは……戦闘中に無効化した。報告はそれで足りるはずだ」
部屋が、少しだけ静かになった。
フィルの視線が、写しの上で止まっている。それから、ゆっくりと上がった。アルドへ、その隣のエリシャへ、また写しへ戻る。エリシャは膝の上で手を握り、まっすぐ座っていた。エストファーネは腕を組んだまま、置物のように動かない。
若手研究者は羽根ペンを、そっと置いた。
「……鍵穴の中身は、聞かないでおきます」
選んだ、というより、区切った声だった。
「報告書には『儀式は完遂、門番は排除、参照先は無効化済み』と。それ以上は、僕の調査不足ということにしておきましょう」
「すまんな。借りがひとつ増えた」
「いえ。……その代わり、下層の正式調査が決まったら、真っ先にあなた方に依頼を出しますからね。その時は、断らないでください」
「元より、そのつもりだ」
フィルは頷き、写しの残りを丁寧に書き写し始めた。
その手元へ、エリシャが黙って頭を下げる。学者は顔を上げず、「僕は写字で忙しいので、何も見ていません」とだけ応えた。杓子定規な声色が、かえって答えになっていた。
嘘は、誰も吐いていない。無効化したのは事実で、調査不足も、記録の上ではそういうことになる。それでも、この男が自分から範囲を区切ってくれたことの意味は、軽くなかった。渡さなかったのはこちらで、呑み込んだのはフィルだ。借りの帳簿には、そう書いておくべきだろう。
突き合わせは、日が傾く頃に終わった。
応接室へ戻ると、アリアが約束通り、報奨の明細を用意して待っていた。
卓に置かれた革袋と明細を覗き込んで、エリシャが硬直する。
「……えっ。えっ? ゼロの数、合ってますか、これ」
「合ってるわよ。護送と儀式協力が基本額、竜種相当の討伐が特別報奨、それから学会からの謝礼が上乗せ。文句なしの満額査定ね」
アリアの言葉に、エリシャはまだ明細と革袋を見比べている。ただの学生に過ぎなかった娘には、縁のなかった額なのだろう。やがて指を折り始め、「写本が……何冊……」とぶつぶつ数え出した。使い道の筆頭が本なあたり、筋金入りである。
アルドは明細を一瞥し、配分を即決した。三等分。それから、経費の欄を指で叩く。
「エストファーネ。篭手の新調は、ここから出す。特注でいい」
「篭手は自分で購うつもりだ。監査役が護衛対象から装備を貰っては、示しがつかん」
「監査役の任は続くのだろう? なら、装備は必要経費だ。あれだけ削られた篭手を見て、知らん顔をする雇い主がいるか。何なら、でっかい盾を買っても構わんぞ。どうせ俺たちだけでは使い切れん額だからな」
エストファーネは口を開きかけ、閉じ、それから小さく噴き出した。
「……ふっ。では、遠慮なく。良いものを頼むとしよう。盾は、自腹で買わせてくれ」
任の継続が、値切りの間に確定していた。本人も承知の上での固辞だったのだろう。監査役どのは、存外に義理堅い。
エストファーネはその場で、明細の余白に篭手の注文を書き付け始めた。魔導金属の等級、逸らし面の角度、手首の可動。注文の細かさが、次も前衛に立つ気満々の証拠だった。
と、その時。視線を感じた。
隣のエリシャが、じーっ、とこちらを見上げている。
「……何だ、その目は」
「べっつにー?」
言葉と目つきが、これほど一致しない返事も珍しい。
エストには篭手。では自分には、と顔に書いてあった。だが、アルドは気付かなかったことにして、革袋を仕舞う。
弟子への礼は、勘定台の前で済ませるようなものではないからだ。
*
宿への帰り道は、夕暮れだった。
エストファーネは宣言通り鍛冶屋へ寄り、フィルは学会の出張所へ戻った。石畳の通りを、師弟ふたりで歩く。西日が家々の壁を橙に染め、夕餉の匂いがどこかの窓から流れてきた。遺跡の石に慣れた鼻には、それがやけに沁みる。
隣を歩くエリシャは、鼻歌でも始めそうな足取りだ。
その横顔を眺めるうち、勘定がひとつ、まだ済んでいないことに思い至った。
鍵穴の役目を引き受け、恐怖を誇りに裏返し、紋を開き、読み上げで儀式を支えた。今回の一件、最大の功労者はこの弟子だ。報告の席では名前ひとつ載せてやれず、載せないことをこちらの都合で決めた。エストには篭手、フィルには借りの約束。なのに肝心の本人にだけ、まだ礼のひとつも渡していない。
記録に残せない手柄なら、せめて礼くらいは、形にして渡すべきだろう。
「そういえば、お前にはまだ何の礼もしていなかったな。今回の礼だ。何か望みを言え」
「……え。な、なんでも、ですか?」
「常識の範囲でな。研究資材でも、装備でも、甘味の店でも」
エリシャの足が、止まった。
口が開き、閉じる。もう一度開いて、やっぱり閉じた。視線が右往左往し、両手の指先が忙しなく絡み合う。夕陽のせいばかりではない色が、頬からみるみる広がって──・
「じょ、常識の範囲内……えっと、ううんと」
「何を想像しているんだ?」
「……ちょっと、考えさせてください」
絞り出すように言って、エリシャは俯いてしまった。頭から湯気が出ているのではないかと思うほどの赤さだ。
望みが多すぎて選べない、ということだろうか?。
それとも、選んだ望みが口に出せないのか。どちらにせよ、急かす理由はない。
「そんなに難しい問いだったか?」
「難しいんです! 先生のせいですからね!」
なぜ叱られたのかは、よくわからなかった。
俯いたまま早足になった弟子を追って、アルドも歩調を上げる。
通りの先に、馴染みの宿の灯りが見えてきた。
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