第68話 結び目
半刻という時間は、瓦礫の広間ではやけにゆっくり流れた。
携行食の乾酪を齧り、水筒を回す。崩れた鎖の山は、灯りの届く端でただの残骸として静まり返っていた。あれだけの咆哮を上げていた門番の成れの果てだと思うと、噛んでいる乾酪の味気なさが、かえって心地よい。
エストファーネは瓦礫のひとつに腰を下ろし、外した篭手を膝の上で具合を確かめていた。魔導金属の表面には、細かな亀裂が幾筋も走っている。腕を回し、肘を曲げ、指を開いて閉じた。動きに引っかかりはないようだ。
「大丈夫か?」
「腕は問題ない。篭手は……帰ったら鍛冶屋行きだな。もうスクラップ寸前だ」
エストファーネが苦笑いを浮かべた。
冗談の口調だが、この篭手がなければブレスの初撃で腕ごと持っていかれていた。スクラップになるまで働いたのなら、道具としては大往生だ。
少し離れた瓦礫の上では、エリシャが右手の人差し指を立てていた。
指先に、ぽっ、と小さな火花が灯る。消える。また灯る。朝ごとに繰り返してきた自主練だ。ただ、今日の火花は、いつもより長く留まっていた。揺らぎも少ない。
「……なんだか、前より言うことを聞いてくれる気がします」
「紋の開け方を一度身体で覚えたからだろう。悪くない副産物だ。お前も無詠唱魔法の使い手になるまで、そう時間はかからんかもしれんな」
エリシャの顔が、ぱっと明るくなった。
無詠唱の入り口は、言葉を捨てることではなく、己の回路を世界へ開くことにある。あの戦いの中で、彼女はそれを意思の側からやってのけた。火花ひとつの安定は、その置き土産というわけだ。
彼女は満足げに火花を眺めていたが、ふと、その手つきが止まった。
立てていた人差し指を畳み、開いた右の手のひらを、じっと見下ろす。それから、指を一本ずつ、ゆっくり折り込んでいった。握り込んだ拳を胸元へ引き寄せて、口の中で、もにょもにょと呟く。
「……手、繋いじゃった」
「何か言ったか?」
「な、何でもないです!」
エリシャは拳を背中へ隠し、そっぽを向いた。耳の先だけが赤い。
聞こえていなかったわけではなかった。ただ、ここで聞き返しを重ねるほど、アルドも野暮ではない。左の手のひらに残る熱を思い出しかけて、その考えごと水で飲み下した。
誤魔化すように手帳を開いた。
写し取った黒の残滓が、頼りない字形のまま並んでいる。対句の崩れ方も、借り物の言い回しの選び方も、眺めるほどに設置室の細工と重なった。同じ手だ。何度検めても、その結論は動かない。ならば、細工の側にも同じ癖が残っているはずで、それは補修の取っ掛かりになるはずだ。
休憩の残り時間で、崩れの型を三つ、頁の隅に書き出した。
水筒の栓を締め、立ち上がる。
「よし、休憩は終わりだ。仕事を片付けるぞ」
「はいっ」
弟子の返事は、火花と同じくらい安定していた。
設置室は、中断した時のままの姿で三人を迎えた。
床に広げた魔法陣の写し。エリシャのノートから書き起こした対応表。部屋の中央では、結びかけの命令文が、淡い光の網目のまま宙に固定されている。
網目の要所には、アルドが刻んだ安全弁の文が小さく灯っていた。中断の衝撃で結び目がほどけ、張力が一気に戻ることを防ぐための楔だ。その役目を、きっちり果たしてくれていた。
「安全弁が仕事をしたな。結びかけの目が、ほどけずに残っている」
「じゃあ、続きからできるんですね」
「いや、その前にひとつ増えた」
アルドは意識の焦点を落とし、命令層を検分した。
扉の縁から流れ込んでいた黒は、もう見当たらない。門番の消滅とともに、供給ごと引いたのだろう。層の張力も、読み上げていた頃の水準へ戻りつつあった。
だが、消えていないものがある。
正規の対句の狭間に、借り物の言い回しで割り込んだ継ぎ足し。封印の骨組みを、内側から壊れやすくするための細工。設置室で最初に見つけた、あの改竄痕だ。
「……これだ。例の細工が残っている」
「門番を倒しても、消えないのか」
「門番は後付けの見張りで、こっちは骨組みへの細工だからな。仕込んだ場所が違う」
エストファーネの問いに答えながら、アルドは細工の走る範囲を指でなぞってみせた。彼女に層は見えないだろうが、位置の当たりくらいは伝わるはずだ。
「歪んだ骨の上から包帯を巻いても、意味がない。先に、こいつから直すとするか」
締める前に、直す。
作業の順番が決まれば、あとは手を動かすだけだった。
エリシャが床に膝をつき、ノートを開いた。
図書館で写し取った対句の型が、几帳面な字でびっしりと並んでいる。改竄痕の前後に残る正規の文と、同じ律動を持つ型を探し当てるのが、彼女の仕事だ。細工を消すのに、力は要らない。要るのは、正しい手本だった。
力ずくで削れば、下敷きの正規の文まで傷む。やることは鎖竜の時と同じだ。正しい対句で上から書き直し、世界に筋の通った方を選ばせる。
頁をめくる音だけが、しばらく設置室に続いた。
「この型です、先生。第三型の対句……図書館の写本と、節の数が同じでした」
「どれ。……ああ、合っている。よく見つけたな」
「ふっふーん。研究計画二〇二号の成果です」
胸を張る弟子の横で、ノートと命令層とを見比べた。
第三型。対を成す節が三つ、間に休止をひとつ挟む律動。改竄痕の前後の文は、確かにこの型で書かれている。ならば、埋めるべき文の骨格は決まったも同然だ。
アルドは細工の一節目に、指先を添えた。
借り物の言い回しの上へ、第三型の律動どおりに、正しい文を書き重ねていく。急がず、ゆっくり。一語置くごとに、下の正規の文と韻が噛み合うのを確かめる。噛み合った端から、細工の字が薄れていった。乾く前のインクに水を差したように、輪郭が滲み、正規の光へ呑まれて消えていく。
通路側を見張っていたエストファーネが、肩越しに問うてきた。
「私にはさっぱりだが、つまり、落書きの上から清書をしている、ということか?」
「概ね正しい。世界というのは案外、字の綺麗な方の味方をするものでな」
「ふむ。なら、世界とやらの気持ちは私にもわかる。報告書も、字の綺麗な方から読むからな」
軽口に付き合いながら、二節目、三節目と赤を入れていった。
作業は単調で、それだけに気が抜けない。査読と同じだ。一箇所でも読み飛ばせば、そこから骨が歪んだままになる。
ノートを構えたまま付き合っていたエリシャが、手元を覗き込みながら、ぽつりと言った。
「……この細工も、鎖竜の命令文と、同じ人、なんですよね」
「だろうな」
それ以上は、どちらも続けなかった。
誰が、なぜ、はここで捏ねても答えの出ない問いだ。今やるべきは、歪められた骨を真っ直ぐに戻すことだけだった。
最後の一節に赤を入れる。
借り物の言い回しが正規の光に溶けて、跡形もなく消えた。命令層を端から端まで辿り直しても、継ぎ足しの影はもう見つからない。対句は対句として、休止は休止として、原初の書き手が刻んだままの律動で並んでいた。
骨は、真っ直ぐに戻った。
「補修完了だ。……さて」
アルドは中央の網目へ向き直った。
結びかけのまま固定された、『結ぶ』の儀式。残りは半分。ここからが本番だった。
役割は、休憩の間に決めてある。
アルドが結び手。エストファーネが通路と広間の警戒。そしてエリシャは、読み上げ係だ。
命令層の張力を、教わった目盛りで声に出して追う。層の変化を聞き取る耳は、紋を開いた経験を経て、以前より格段に鋭くなっていた。魔力を注がせるわけにはいかない身体で、それでも儀式の真ん中に立てる持ち場だ。
エリシャが定位置に膝をつき、目を閉じる。ひと呼吸置いて、澄んだ声が上がった。
「張力、七……六……安定してますね。次、いけます」
アルドは安全弁の楔をひとつ外し、結びかけの目に指を掛けた。
張力を緩め、緩めた分を結び目へ移し、締め直す。指先の仕事としては、それだけの繰り返しだ。ただし一結びごとに、層全体の釣り合いが微かに動く。動いた釣り合いを読み違えれば、揺り戻しが来るからだ。だからこそ、読み上げが必要なのである。
一結び。エリシャの声が、六を告げる。
二結び。五。
網目が順に締まり、宙に浮かぶ光の文が、本来の形へ寄っていく。緩んでいた封印の輪郭が、内側から張りを取り戻した。その手応えが、指先越しに伝わってくる。
読み上げの声は、途切れなかった。数字の合間に「安定」「揺れなし」と短い添えが入る。教えた通りの手順に、彼女なりの工夫がひとつ乗っていた。層の唸りが浅くなる箇所では、声の方も自然と潜められているのだ。耳で層に寄り添っていた。
エストファーネは通路口に立ち、広間側へ半身を向けたまま動かない。剣の柄に添えた手は、警戒のためというより、儀式の静けさを乱さない位置に置かれていた。
残りは、ひとつ。
「最後の一結びだ。読み続けろ」
「はい。五……四……」
アルドは締め残した目に指を掛け、静かに引き絞った。
最後の一結びで──命令層全体が、深く息を吐くように静まった。
張り詰めていた糸の群れが、一斉にあるべき長さへ落ち着く。震えていた光の網目から余分な揺らぎが抜け、文という文が、定位置で音もなく灯った。
「……あ。扉が」
「動くのか!?」
エリシャの声に、エストファーネが柄へ手を掛ける。
広間へ続く通路の先で、光の扉が一度だけ、大きく脈を打った。表面の膜が膨らみ、収まる。それきり、扉は凪いだ。何度待っても、二度目は来ない。
「いや、今のは脈だ。締め直されて、寝返りを打っただけだろう」
アルドは層を確かめ、安全弁の楔をひとつずつ試した。どの楔も、掛かるべき位置で正しく掛かる。張力は目盛りの底で安定し、揺り戻しの兆しもなかった。
封印の締め直しは、無事成功。
扉は完全な形を成し、そして、閉じたままだ。
「……終わったよ。これで『結ぶ』は成った」
言葉にすると、あっけないほど静かだった。
鎖竜の咆哮も、崩落の轟音も要らない。張り詰めたものが、元の場所へ帰っていった。
だが、この静けさのためにここまで来たのだと思えば、悪い幕引きではない。
エリシャが目を開け、ほう、と長い息を吐いた。エストファーネが柄から手を離し、肩の力を抜く。
歓声は、なかった。ただ、三人分の呼吸が、灯りの下で揃って緩んだ。
装備をまとめ終える頃、エリシャが扉の方を振り返った。
「……先生は、開けたくならないんですか? せっかくここまで来たのに」
「なるさ。研究者だからな」
即答すると、彼女は目をぱちくりとさせた。正直すぎたか。だが、ここで見栄を張っても仕方がない。
「だが、開けられることと、開けていいことは別だ。下層に眠るものの正体も、あの細工の狙いも、まだわかっていない。次は、こちらの準備を整えて、正面から開けに来ればいい」
「……はい。次も、三人でですね」
「今回で、監査役の任が解かれなければな」
エストファーネの軽口に、エリシャが「解かれても来てください」と食い下がり、監査役は困ったように眉を上げた。
開く余地は、作ってある。開けるのは、こちらの都合で決めればいいだけだ。
三人は設置室を出て、鎖の山の広間を横切った。守護獣の間を抜ける時、台座の構造体は身じろぎひとつしない。正規の手順で通る者を、正規の門番は咎めないようだ。当たり前のことが、今はやけに信頼できる。
斜面の通路を登り切ると、外の光が目を刺した。
峡谷は、夕暮れに沈みかけていた。岩肌が赤く染まり、野営地の焚き火がぽつぽつと灯り始めている。こちらの姿を認めた護衛隊から声が上がり、天幕の間からフィルが転がるように駆けてきた。
「よくご無事で……! 地鳴りが二度も届いて、気が気ではなかったのです」
「儀式は完遂した。『結ぶ』は成って、扉は閉じたまま安定している。……ただ、余計な土産話がひとつ増えた。遺跡の主でも何でもない、後付けの門番と一悶着あってな。詳細は帰還後にまとめて報告する」
「後付けの、門番……わ、わかりました。道中で、聞かせてください」
フィルは問いを山ほど呑み込んだ顔で、それでも報告の順序を尊重してくれた。この律儀さには、いつも助けられている。
野営地では、湯気の立つ鍋が待っていた。椀を受け取ったエリシャが「生き返ります……」と頬を緩ませ、エストファーネは真っ先に、予備の篭手の有無を輜重係へ確かめに行った。
荷馬車の用意が整い、護送の列が向きを変えた。
行きには封印核を載せていた荷台は、帰りには空だ。代わりに、手帳が一冊、外套の内側で膨らんでいる。写し取った黒の残滓。稚拙で、確信に満ちた筆跡。
アルドは御者台の隣に腰を下ろし、その膨らみに一度だけ触れた。
車輪が軋み、列が動き出す。
夕暮れの峡谷を、荷馬車はゆっくりと帰路についた。
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