第67話 合鍵
咆哮の余韻が石壁を震わせている間に、鎖竜は動いていた。
総身に巻き付いた鎖が、二筋、同時にほどける。一本は宙で大きく撓り、エリシャの頭上へ。もう一本は床すれすれを蛇行して、アルドの足元へ走った。
二点狙い。数え直した敵を、まとめて閉じにかかる腹らしい。
アルドは指先を振り、六角の紋を斜めに立てた。〈魔法障壁〉の面が鎖の先端を受け、火花に似た粒を散らして軌道を逸らす。同時に、エリシャの側でも氷壁が立ち上がり、振り下ろされた鞭を白い飛沫ごと弾き返した。
だが、弾いた端から次が来る。二本の鞭は互い違いに間合いを詰め、呼吸を合わせる暇を与えてくれなかった。片方を受ければ、もう片方が空いた側を突く。単純で、だからこそ厄介な二拍子だった。
しかも、拍子は少しずつ速くなっている。施錠の手順が、期限でも切られたように急いていた。命令層へ潜ろうにも、潜った先で身体ががら空きになる。読解と防御の両立が、一気に苦しくなった。
四本目の鞭が、障壁の縁を掠めて外套の裾を裂いた。布の千切れる音が、耳元で鳴る。浅い。それでも、確実に詰められている。
その隙間へ、赤い外套が割り込んだ。
「二匹に増えたようなものだぞ、これは……!」
エストファーネが剣を横に薙ぎ、アルド側へ走った鞭を撥ね上げる。篭手が軋みを上げた。受けの衝撃が肘まで抜けているのが、傍目にもわかる。
「贅沢を言うな。増えた分、一本ごとの威力は落ちている」
「落ちてても痛いものは痛いんです!」
「なら、手早く終わらせるぞ。エリシャ、こっちへ来い」
「は、はい!」
エリシャが氷壁を盾代わりに残し、瓦礫の間を縫って駆け寄ってくる。アルドは彼女の腕を取り、崩れた柱の陰へ引き込んだ。
太い石柱の残骸が、鞭の射線を一時だけ塞いでくれる。それだけあれば足りた。
エストファーネが正面で吠え、鎖竜の目を己へ引きつけている。あの篭手が保つうちに、手順を渡し切らねばならなかった。
「いいか、一度しか言わん。あの黒の第三層は、お前の紋を『閉じる対象』として参照している。なら、参照元のお前が紋を開いて、俺がそこに認証の文を重ねる。言ってしまえば、合鍵を作るんだ」
エリシャの視線が、忙しなく泳いだ。
「合鍵って……わ、私も無詠唱で書くんですか!? まだ火花ひとつがやっとなんですよ!?」
「書くのは俺だ。お前は差し出すだけでいい。あの日、無意識にやったことを、今度は自分の意思でやる。それだけだ」
エリシャの喉が、こくりと鳴った。
指先に小さな火花をひとつ灯すのがやっと、と本人はよく膨れていたが、無詠唱で文を書けとは言っていない。言う必要もなかった。あの日、彼女は世界の命令文とアルドの命令文を、己の内側で束ねてみせた。求めるのは、その再現だけだ。ただし今度は、無我夢中ではなく、自分の意思で。
後付けの門番は、正規の管理者に逆らえない。書き手の拙い継ぎ目が、そのまま割り込み口になるはずだ。理屈はそれで完結していた。
「ほら、エリシャ。俺の手を取れ」
アルドが手を差し出すと、エリシャはそこで動きを止めた。上目でこちらを窺ってくる。
「……手、繋ぐ必要あります?」
「魔力紋を重ねるのに接点が要る。嫌なら髪の毛一本でも構わんが」
「い、いえ! 繋ぎますッ、、全力で!!」
「う、うむ。全力である必要はないのだが」
食い気味の返事に、こちらの方がたじろいでしまった。
差し出された彼女の右手を、左手で握り込む。細い指が、遠慮を捨てた力で握り返してきた。戦いの最中だというのに、耳の先が薄く赤い。
場違いな体温に、思考が一拍だけ揺れる。アルドはその一拍を息と一緒に吐き捨てた。今は、錠前が先だ。
「エストファーネ! 三十数える間、正面を頼む!」
「引き受けた! ……ただし、二十五で済ませてくれると助かる!」
軽口の形をした、本音なのだろう。篭手の軋みは、もう隠しようがなかった。
エストファーネは剣を返し、鎖竜の正面へ躍り出る。
石の顎の先で剣先を躍らせ、黒い渦の注意を己の胸元へ縫い留めた。二本の鞭が彼女へ引き寄せられ、柱の陰への圧が、はっきりと薄れる。
今だ。
アルドは目を閉じ、繋いだ手のひらへ意識を沈めた。
「エリシャ。開けるか」
「……はい」
声の震えは、最初のひと呼吸だけだった。
握った指先から、細い流れが染み込んでくる。最初は細く、途切れがちで、それでも確かにこちらへ向かってきた。エリシャの魔力紋だ。彼女が己の回路の扉を、内側から一枚ずつ開いている。
流れが太くなった。手のひら越しに、彼女の鼓動まで伝わってくる。速いが、乱れてはいなかった。
「……世界の音が、遠くなってます。あの時と、同じです」
エリシャがぽそりと呟いた。
「怖いか?」
「いいえ……だって、先生が手を握ってくれてますから」
「無駄口を叩く余裕があるなら上等だ。そのまま開いていろ。すぐ終わらせる」
「はぁい」
彼女の間延びした返事に頷きながら、アルドは内心では舌を巻いていた。
世界の音が遠のく領域。詠唱者が踏み込めば正気を削られる深さだ。そこに彼女は、自分の意思で立っている。指先の震えは、いつの間にか止まっていた。呼吸も深い。
開かれた紋を、そっと拾い上げた。
触れた接点から、彼女の紋を己の魔力に乗せる。壊さないように。歪めないように。薄い硝子を扱う手つきで、命令層の深みへと運んでいく。
黒の第三層が見えた。
『鍵穴ヲ閉ジヨ』
施錠の一節は、今もエリシャの紋を参照し続けている。その参照の継ぎ目。対句の崩れた、あの拙い縫い目へ。
アルドは、彼女の紋を差し込んだ。
錠前が、鍵を咥えた。
参照先と参照元が一致した刹那、黒の文がぐらりと揺れる。閉じるべき対象が、正規の署名を掲げて目の前に現れたのだ。門番の手順書には、この事態への備えがない。書き手は、鍵穴が自分から鍵を差しに来るとは考えもしなかったのだろう。
その硬直の隙に、アルドは書いた。
『鍵穴ヲ閉ジヨ』の上へ──『鍵穴ヲ認メヨ』と、一語ずつ、確かめるように書き重ねていく。
古い層の対句に倣い、節の間隔を正しく揃えた文だ。書きながら、指先に抵抗が返ってくる。黒の残滓が、上書きを拒もうと粘っているのだ。
もっとも、その粘りは長くは続かなかった。足場にしている継ぎ目そのものが歪んでいるのだから、踏ん張りが利くはずもない。
むしろ、後押しがあった。黒の下で眠っていた古い光の層が、整った文の律動に応えて、微かに明度を上げた。世界は、より筋の通った説得に頷くものである。原初の書き手が遺した厳格な文は、拙い落書きよりも、正しい対句の側に味方するらしかった。
認証の光が縫い目を走り、参照の向きが裏返る。
閉じる対象から、認めるべき鍵へ。
「……あっ」
「どうした?」
「先生の声が、聞こえます。世界に、割り込んでいくのが」
エリシャの声は、震えの代わりに熱を帯びていた。
直後、黒が剥がれ始めた。
第三層の末端から、光が抜けていく。乾いたインクが古い羊皮紙から浮き、ぱりぱりと剥落するように、黒い文字列が輪郭を失って崩れ落ちた。第三層が落ちれば、それを土台にしていた第二層も支えを失う。『同調者ヲ拒メ』が千切れ、『扉ヲ守レ』が最後にほどけた。
鎖竜の全身で、鎖を走っていた黒い脈が、末端から順に消えていく。目の窪みの渦が薄れ、ただの暗い穴に戻った。
施錠の意思が、消えた。
残ったのは、命令を失った石と鎖の塊だけだった。持ち上げかけた前脚が行き場をなくし、巨体が慣性のまま、ぐらりと傾ぐ。倒れ込む先は、柱の陰。アルドとエリシャのいる側だった。
「仕上げは、私の仕事だな」
何かが変わったのを、エストファーネも察したのだろう。彼女は剣を構え直し、にやりと笑った。
「頼む。胸元の継ぎ目だ。そこが要になっている」
「承知した!」
エストファーネは、すでに駆けていた。
傾ぐ巨体の懐へ、低い姿勢のまま滑り込む。鎖の輪が幾重にも集まる胸元の継ぎ目へ、両手で握り直した剣を、体重ごと叩き込んだ。
「はああああああッ!」
乾いた破断音が、広間の天井まで突き抜ける。
要の一節を断たれた鎖が、端から解けていった。巨体を編み上げていた輪が次々と外れ、石の骨格が支えを失って沈む。轟音と土煙。竜の輪郭が雪崩れて低くなり、最後に頭部だった石塊が床へ落ちて、鈍い音をひとつ残した。
土煙が薄れる。床いっぱいに広がったそれは、もう門番の形をしていなかった。ただの古びた鎖と、石塊の山だ。目の窪みに渦巻いていた黒も、どこにも残っていない。
晴れきらない煙の向こうで、エストファーネが剣を納めた。
「エスト、かっこいいです……」
「ふっ。たまには私もいいところを見せないとな」
言いながら、彼女はこちらへ歩いてくる。歩きながら、篭手の腕をゆっくりと回していた。限界の手前で仕事を終えられた安堵が、肩の線に滲んでいる。
握っていた手から、力が抜けた。
エリシャが、その場にゆっくりと膝をつく。
「む。やはりきついか?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、腰が抜けただけで……頭は、はっきりしてます」
アルドが慌てて肩を支えると、彼女は顔を上げて、はにかんだ。
声に濁りはない。魔力の気配も、細くはなったが途切れてはいなかった。あの時のような空洞の手触りはない。膝をつく程度で済んだのなら、上出来を通り越して満点だ。
アルドは彼女を柱の残骸に凭れさせてから、崩れた鎖の山へ歩み寄った。
しゃがみ込み、鎖の輪をひとつ拾い上げる。表面に走っていた黒は、もうほとんど消えていた。それでも、節の窪みに残滓がこびりついている。手帳を開き、消えかけの字形を写し取っていった。対句の崩れ方、節の詰まり方、借り物の言い回し。ひとつ残らず、紙の上へ移していく。
「同じ手だ。設置室の改竄と、この門番。……相変わらず、出来の悪い論文だがな」
「先生、それ、査読で言ったら泣きますよ」
「書き手が目の前に来たら言ってやるさ」
軽口に紛れさせながら、胸の内では別の評が転がっていた。
拙い。だが、迷いがなかった。守れ、拒め、閉じよ。三層の文は、どれも同じ一点へ向かって書かれている。稚拙な筆で、確信だけを持って書く者。壊したいのか、変えたいのか。その問いは、口には出さず、手帳の隅へ小さく畳んで仕舞い込んだ。答え合わせは、材料が揃ってからでいい。
手帳を閉じ、アルドは弟子のもとへ戻った。
柱に凭れたエリシャが、こちらを見上げてくる。頬にはまだ汗が残っているのに、その顔は、やけに晴れやかだ。
「……よくやった、エリシャ。上出来だ」
言いながら、その頭にぽんと手を置く。
「ふぇ!? は、はい……」
エリシャが、ぴしりと固まった。銀髪の下で、耳まで一気に赤くなる。撫でるというほどのこともしていないのに、口をぱくぱくとさせて、それきり言葉が出てこないらしい。
わざとらしい咳払いが、横から挟まった。
「……それで、儀式はどうする」
エストファーネだった。腕を組み、視線だけは広間の奥、静まり返った光の扉へ向けていた。
扉は、もう鳴っていない。表面の膜は穏やかに脈だけを打ち、命令層の張力も、読み取れる限りでは儀式前の水準へ戻りつつあった。門番を失っても、扉そのものは揺らいでいない。あれは最初から、後付けの鎖とは別の存在なのだ。
「最後までやるさ。結び直しの途中で帰ったのでは、依頼を受けた意味がないからな」
アルドは答えて、設置室へ続く通路を見やった。
中断していた『結ぶ』の儀式。張力を緩め、封印を締め直す仕事が、まだ半分残っている。
エリシャが柱に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。足取りを確かめるように二歩、三歩。それから、いつもの調子で袖をまくってみせる。
「じゃあ、続きですね。ノートは、ちゃんと無事です」
「お前はまず休め。半刻だ」
「ええ〜……」
不満げな声を上げつつも、弟子の口元は緩んでいた。半刻の休みと引き換えに続きへ立ち会えるなら、悪くない取引だと踏んだのだろう。
エストファーネが鎖の山を一瞥し、通路の安全を確かめるように先へ立つ。その背に続きながら、アルドはもう一度だけ、手帳の膨らみを外套の上から押さえた。写し取った黒の残滓。稚拙で、確信に満ちた筆跡。答え合わせの日は、そう遠くない気がしていた。
崩れた鎖の山を背に、三人は設置室への通路へ歩き出す。
広間の奥で、光の扉が静かな脈を打ち続けていた。
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