第66話 鍵穴
灰色の風が石壁を削り、細かな粉が床に降り積もっていく。その真ん中で、鎖竜がまた身を捻った。
ブレスはエストファーネへ。尾の薙ぎ払いも、前脚の踏み込みも彼女へ。だが、胴からほどけた鎖の鞭だけは、いつも別の的を選ぶ。
エリシャだ。
鞭と化した鎖が宙で撓り、防御陣の光へ叩きつけられる。半球の膜が軋み、火花に似た魔力の粒が散った。膜の内側で、銀髪が大きく揺れる。
「な、なんでこっちばっかり……! 私、そんなに恨まれることしました!?」
悲鳴まじりの抗議とは裏腹に、彼女の足は補助陣の線を正しく踏んでいる。捌けてはいるのだ。ただ、鞭の落ちる先は迷いもなく、彼女の頭上ばかりを選び続けている。
一度なら偶然。二度なら癖。
三度目が来た。
鎖はまずエストファーネの側面へ走ると見せた。剣が迎えに上がる。その途中で、鎖はあり得ない角度に折れ曲がった。関節のない金属が、宙で肘を作ったのだ。折れた先端は床を這うように低く滑り、エリシャの足首へ跳ね上がる。咄嗟の氷壁がぎりぎりで間に合い、先端は白い欠片と共に弾かれた。
「わわっ……私、さっきから運が悪くないですか?」
「運じゃないな」
アルドは命令層へ焦点を沈めたまま、口だけを動かす。
「心当たりなら後で聞いてやる。三歩右だ。柱の残骸を背にしろ」
「は、はいっ」
エリシャが素直に動いた。
崩れた柱を背にすれば、鞭の取れる射角は半分に減る。回り込もうにも、床に散らばった瓦礫が鎖の走りを邪魔するはずだ。彼女は理由を知らされないまま、それでも指示の意図を汲んで立ち位置を締め直している。頬に汗が伝っているのに、構えの手だけは崩れていない。
いい弟子だ、と場違いな評価が胸をよぎった。理由は後で必ず話す。今は、読み終えるのが先だ。
正面では、エストファーネが突き込まれた前脚を剣の腹で受け流していた。石の爪が刃を滑って、火花の代わりに白い粉が散る。息継ぎの合間に、問いが飛んできた。
「アルド殿。これは……偶然ではないな?」
「ああ。偶然なら、三度も同じ的は選ばん」
短い応酬だけで、彼女は察したらしい。頷きもせず、半歩だけ立ち位置をエリシャ寄りにずらす。鞭の射線へ己の身体を差し込むための足運びだった。護衛の職分を、言葉より先に足で果たす女である。
鎖竜が唸った。石と金属の擦れ合う響きが、床下から腹の底へ這い上がってくる。裂けた唇の内側に、また灰色の光が寄り集まり始めた。
喉元。ブレスの前触れだ。
「ブレスの前は喉が光る……エリシャ、あなたから教わった通りだ。さすがだな」
「はいっ。こう見えて、学院首席ですから」
「元、だがな。今のお前は流れ魔導師だ」
「もう、わかってますよ! っていうか、流れなのは先生もじゃないですか!」
アルドの横槍に、エリシャが鋭い声を返す。
言い合う間にも、エストファーネは足の置き場を変えていた。踵は浮かせ、重心は前。受けるためではなく、逸らすための構えに移っている。
「俺は学院を卒業しているし、教員資格も持っているからな。一応、流れではない。ほら、エストを助けてやれ」
「むぅ……氷よ、杭となれ! ──〈氷鎖杭〉!」
エリシャの〈氷鎖杭〉が唸りを上げて飛んだ。狙いは鎖竜の右前脚、鎖と石の継ぎ目。氷の楔が食い込んで、霜が一息に広がる。踏み出しかけた巨体が、一拍だけ遅れた。
その一拍を、エストファーネは待っていた。
ブレスが来る。灰色の奔流が広間を裂いた。
彼女は正面で受けなかった。前傾のまま半身を開き、篭手の面を浅い角度で差し出す。奔流の芯が魔導金属の上を滑り、軌道を斜めへ流されて、後方の壁を削って散った。石壁に新しい溝が刻まれ、粉塵がもうもうと立ち上る。
受け止めるのではなく、逸らす。開幕に篭手ごと削られかけた時とは、もう別物だ。
風の尾が抜け切る前に、彼女は踏み込んでいた。返す刀が、伸びてきた鎖の一本を断ち割る。切られた輪が床で跳ね、重い音を残した。
「ふっ、なるほど。魔法戦も悪くない。……師弟のイチャつきを見せられるのが少々アレだが」
「……今、何か言ったか?」
「何も」
応えながら、彼女は次の斬撃を竜の脚へ叩き込んでいた。氷杭で鈍った足は、その一撃を躱せない。石の表面に、深い亀裂が走る。
鎖竜が苛立ちのままに尾を薙いだ。低い唸りと共に石の尾が半円を描き、エストファーネの胴を刈りに来る。
彼女は跳ばなかった。逆に、懐へ潜っている。尾の付け根、勢いの乗り切らない位置で受ければ、圧は半分で済むからだ。剣の腹で受けて流し、着地と同時にまた間合いを測り直す。
(さすが、元B級といったところか。訓練に付き合わせた甲斐があったな。もう魔法使い相手の間合いになっている)
リーヴェを発ってからの道中、暇を見つけては魔法戦の間合いを叩き込んだ。予備動作の読み方、属性ごとの避け方、逸らしの角度。座学を嫌がる素振りひとつ見せず、剣一本でそれを吸収してみせるのだから、この監査役も大概の化け物である。
前衛ふたりが時間を稼いでくれていた。なら、こちらは読み切るだけだ。
(……急がねばな)
アルドは呼吸を細く整えて、意識をさらに深くへ落とした。
物理の輪郭が薄れ、命令層の文字列が浮かび上がる。鎖の一節ごとに刻まれた、古い光の文。その表面に、後から貼りつけられた黒。扉の縁から流れ込み、血流のように循環する黒インクの文を、一語ずつ辿っていく。
読めない字ではなかった。ただ、書き手の呼吸が古い層と噛み合っていない。おかげで、文の切れ目を探すのに骨が折れた。対句であるべき箇所が対になっておらず、節の間隔も詰まったり開いたりと不揃いだ。出来の悪い論文の査読に似ていた。それでも、拙さは拙さなりに癖を持つ。癖を逆に辿れば、継ぎ目は割れるものだ。
鎖が鳴った。
読解の合間を縫って、鞭がまた低い軌道でエリシャへ走る。アルドは意識を命令層に残したまま、指先だけを振った。六角の紋がひとつ、彼女の膝の高さに咲く。〈魔法障壁〉に弾かれた鎖が、床を打って跳ねた。
「す、すみません先生! でも、読むのに集中しててください!」
「集中しているさ。片手間で足りる」
言葉の上では軽く返したが、この執拗さは度を越している。急かされるほどに、確信は濃くなった。こいつの本命は、最初からひとつしかない。
黒の文を、さらに深く潜った。表層の雑音を捨てて、命令の骨格だけを拾い上げていく。
最初の層は、すぐに割れた。守れ、という単純な文だ。設置室で見た改竄痕と同じ筆致で、同じ辿々しさで書かれている。書いたのは同じ手だろう。そう確信したところで、二層目の継ぎ目が見えた。拒め、の対象を指す語が、古い神代語の言い回しを強引に借りて綴られている。あの命令層で読んだ「同調者」の一節と、寸分違わぬ癖だった。
やがて、黒の構造が三つの層に分かれて浮かんでくる。
第一層。『扉ヲ守レ』。
第二層。『同調者ヲ拒メ』。
そして最深の第三層に、ひときわ濃い一節が居座っていた。
『鍵穴ヲ閉ジヨ』
背筋の産毛が逆立った。
殺せ、でも、排除せよ、でもない。閉じよ、だ。
鎖竜の執拗な鞭は、敵を仕留める動きではなかった。開いてはならない錠前に蓋をする、機構としての施錠だった。あれは戦いですらない。錠前係が、鍵穴に栓を捻じ込もうとしているだけなのだ。
殺意ならば、まだわかりやすかった。憎まれているなら、憎み返せばいい。
だが、これは──書き割りの門番が、感情の一片もなく、ただ手順としてひとりの少女を閉じにかかっているだけだ。その方が、よほど薄ら寒い。
「……読めたぞ。こいつの命令は『排除』じゃない。『鍵穴ヲ閉ジヨ』だ」
「鍵穴……? 扉の、ですか?」
「いや。こいつの狙いは……お前だ、エリシャ」
「わ、私!? な、なんでですか!?」
防御陣越しに、素っ頓狂な声が返ってきた。それでも捌く手を止めないあたり、様になってきたものだと思う。
なぜエリシャが鍵穴なのか。
問いを口にするより先に、記憶の底で符合がひとつ、音を立てて嵌まった。
〝封印核〟が暴走した、あの日。
燃える空の下で、魔力の底が尽きかけてなお、この弟子はアルドを守ろうとした。世界を流れる封印の命令文と、アルドが差し込んだ書き換えの文。そのふたつを、彼女は己の魔力回路の内側でひとつに束ねてみせた。
療養中の聞き取りで、彼女自身がこう言っていたではないか。
世界の命令文とアルドの命令文が、ひとつの文になった気がした、と。
あの時は、才の証としか受け取らなかった。書き手として、弟子の伸びを誇らしく思っただけだ。だが、束ねられた側から数えれば、話は裏返る。
〝封印核〟は、あの刹那に流れ込んだ魔力紋を記録したのだ。管理者の署名の、その一部として。
そして黒い命令文の書き手は、後付けの門番を捏ね上げる時に、その記録を読んだ。扉を開けうる鍵の片割れが、そこに登録されていたからだ。閉じるべき鍵穴として、彼女の紋を鎖に刻みつけた。
「〝封印核〟が暴走した時だな。お前は俺を庇って、世界の命令文と俺の命令文を、自分の中で一つに束ねただろう?」
「あの時の……あれですか」
「ああ。あの時、〝封印核〟はお前の魔力紋を〝署名の一部〟として覚えたんだろうな。こいつはその記録を読んでいる。お前は狙われているんじゃない。鍵と間違われているんだ」
鎖の鞭を新しい氷壁で受け流しながら、エリシャが目を丸くした。
緑の瞳が揺れ、光が一段翳る。世界の機構に名指しされるなど、十七の弟子が受け止めるには重すぎる話だ。庇うべきだったか、と一拍だけ迷いが生まれた。
だが、彼女は俯かない。胸の前で、構えた両手をぎゅっと握り直した。それから、ゆっくりと、瞳の色が別のものに塗り替わっていく。
「……そう、ですか。私の中に、先生と書いた文が残ってるんですね」
膜越しの声は、微かに弾んでいた。
「なんだか……ちょっと、嬉しいかもです」
「こらこら、そこで嬉しがるな。狙われてるんだぞ」
窘めながら、口の端が緩みかけるのを噛み殺した。恐怖を誇りに裏返してしまうのだから、この弟子は度し難い。
ただ、その裏返し方は正しかった。
怯えて縮こまった鍵穴と、胸を張った鍵穴。錠前と向き合うなら、後者の方がはるかに御しやすい。震える手では、鍵は回らないのだから。
前線で剣を打ち合わせていたエストファーネが、鍔迫り合いの向こうから声を投げてきた。
「つまり、エリシャは……門の合鍵扱いをされている、ということか?」
「そういうことだ。だから殺しには来ない。ただ、閉じには来るがな」
「なるほど。理屈はわからんが、質の悪さだけはわかった」
言葉ほどの余裕はないのだろう。篭手に受けた圧で、彼女の踏み足は少しずつ後ろへ削られている。長引かせていい戦いではなかった。
鎖竜が咆えた。
総身の鎖が軋み、目の窪みの黒い渦が、性懲りもなくエリシャの座標を舐める。第三層の施錠命令が、今も最優先で回り続けているのだろう。閉じよ、閉じよ、と。
好きに吠えていればいい。
アルドは一歩、前へ出た。エリシャを背に庇う位置。読む者の立ち位置から、半歩だけはみ出す。
読むのは、もう終わりだ。ここから先は、書く側に回る。
(世界の言葉に触れる者が、自分ひとりだと思うなよ)
黒い命令文の書き手が、彼女の紋を「閉じるべき鍵穴」として刻んだのなら、その筆致の拙さごと、上から書き直してやるまでだ。
「エリシャ。お前が鍵穴なら、話は簡単だ」
「先生……?」
「こいつの鎖は、お前を通じてしか開け閉めできん。──なら、正規の鍵で開けてやろうじゃないか。俺とお前の、ふたりでな」
「……はいっ!」
返事に、迷いの欠片もなかった。防御陣の光を背に、彼女はもう一度、両手を深く構え直す。その指先に灯る魔力は、開幕よりもずっと澄んでいた。
「話がまとまったのなら、早くしてくれ! そろそろ私の腕も限界だ!」
前線から、エストファーネの怒声が飛んでくる。
鎖竜の総身で、鎖という鎖が一斉に逆立った。目の窪みの黒い渦が、初めてエリシャからずれて、アルドとエリシャのふたりをまとめて捉える。鍵と、鍵を握る手。錠前係は、ようやく本当の敵を数え直したらしい。
応えるように、鎖竜が天井を震わせて咆哮した。
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