一筋の涙
「鈴木くんとつきあってあげればいいのに」
事情を何も知らない会社の人達から、鈴木に関して何度も同じような事を言われた。格好良いし優しいし、仕事面でも期待されている、言わば理想の男性だと。そんな風に言われる度に、喉元まで出かかる言葉を押し留めてきた。
「彼は昔、人前で私を散々に貶して、大嫌いだと言い捨てた人なんですよ」
私を好きだんなんて、ありえない。何を企んでいるのか、どんな思惑があるのかと、ずっと警戒をしていた。
自分の情けなくも辛い過去を他人に話す気もなくて、ずっと口を閉ざしていた。それなのに胸の奥に閉じ込めていた鬱屈を、ようやく鈴木と離れられるというこの段階で言い放ってしまった。
あの時……無性に腹が立ってしまったのだ。
あなただって同じ事を言ったのに、それを棚に上げて彼女達を責めるの、と。
それが大人げない行動だと、冷静になってみれば分かる。わざわざ彼を貶めるような事を言わなくても良かったのに、なぜムキになってしまったのだろう。
これから他の営業所に行く鈴木を送リ出す為の宴席で、皮肉を言う必要などないのに。
少なくとも、これ以上過去を理由に彼を責めるような事はしてはいけない。
「仁科さん、あれは高校時代の行き違いでしたので、もう気にしていませんから」
「安藤さん、いいんだよ」
取り繕おうとした私を、意外にも鈴木の声が止めた。
「安藤さんが話してくれて丁度良かった。俺はきちんとこの場で、営業の皆に説明をしなければならないから」
鈴木は下座へと移動すると腰を下ろして正座をし、営業部全員の顔を見るように周りを見渡した。
「俺は高校時代に、安藤さんに酷い暴言を吐きました。大勢の生徒がいる前で、容姿をその程度と貶しめ、気の利いた事も言えないつまらない女と断定して、顔も見たくないと言い切りました。辻さんの発言は、それに比べれば他愛のないものです」
落ち着いた様子で話し始めた鈴木に、当時を思い出す。
好意を抱いていた相手に散々に人前でこき下ろされて泣きつかれて眠った日以来、私は自分に対する劣等感と男性不信の念を心の中に根付かせてしまった。
「全て俺の勘違いが発端です。安藤さんが俺を見下して、容姿だけの人間だと笑い者にしていると思い込んでしまったんです」
私がその勘違いの経緯を知ったのは、ほんの数ヶ月前の事だった。それまでは、鈴木が私を嫌って悪口を言ったのだと信じ込んでいた。だからこそ、同じ職場になってからの彼の行動が悪意なのか善意なのか、ずっと計りかねていた。
「まともに謝る事もできない内に、彼女は九州に転校してしまいました。悔やんでも悔やみきれず、いつか再会できたなら必ず彼女を傷つけた罪を償おうと、そう決心をしていたんです」
「入社式の日が数年ぶりの再会だったという事か」
筒井課長が訊ねると、鈴木は「はい」と返事をして頷いた。
「あの時から俺の希望部署は営業になり、安藤さんへの贖罪が始まりました。俺の個人的な事情で、皆さんにもご迷惑をかけました。申し訳ありませんでした」
鈴木は深々と頭を下げた。営業に配属された早々に事務員に告白をし、むやみに褒めまくる異端の新人に、部の人達が頭を悩ませなかった訳がない。皆が鈴木の言動に目を光らせ、やり過ぎてトラブルが起きないようにと注意してくれていた事は私も感じていた。
「このバカが!」
いつの間に移動していたのか、筒井主任が頭を下げている鈴木の後頭部を音が出る勢いで叩いた。
「主任……」
床に顔を打ちつけた鈴木が、額に手をあてながら情けない声を出す。
「貶したから、その分褒めた?なんだ、その短絡的思考は」
正にその通り。
ずばりと切り込んだ主任に、思わず頷きたくなる。この場にいる皆もそうだったのだろう、鈴木が作り出していた緊張感が消えて、空気が少し和らいだ。
「確かにあの褒め攻撃はないよな。やられた安藤は、相当恥ずかしかったはずだぞ」
常日頃は穏やかな野々宮さんが、呆れ声で鈴木を咎める。
「アプローチをしているにしてもあれは逆効果だって皆思っていたんだが、贖罪という意味だったのか」
「大げさに褒めているんだったらやめさせていたんだが、止めに入れないようなギリギリのところで褒め倒していたからな」
「それが鈴木の狡猾なところだよ」
いきなり口々に話し出した営業さん達に驚いていると、仁科さんがくすりと小さく笑った。
「マーケティングの女性二人が来てから、皆言いたい事はあったんでしょうけどね。話の通じない相手に諭したところで無駄だし、余計に手間取って時間がかかるのは目に見えていたから、彼女達のお目当てのチャラくんに任せていたんでしょう。今はようやく愚痴解禁というところね」
「愚痴解禁、ですか」
「まあ、気楽に見物していなさい」
仁科さんはそう言うと、ほとんど空になっていた私のコップにビールを注いだ。私、一応この話題の当事者だよね、と頭の隅で思いつつも、とりあえず注いでもらったビールを口に含む。
「高校のガキなんて、言葉の選び方を知らないからな」
「勢いで怒って、好きなのに嫌いと言ってしまう年頃か」
「それは理由にならないし、残念すぎるだろう。おまけに何年も引きずるってどれだけ粘着質なんだよ」
「その詫びを、入ったばかりの会社で実行するんだからいい度胸だよな」
筒井主任に促されて鈴木はビール瓶を持ち、一人一人の席に行ってお酌をしている。その度に浴びせられる言葉に彼は弁解をする事もなく、ただ受け入れて頭を下げていた。
「だいたいお前、安藤の事をどうこう言えるほどの容姿か?」
「ただのチャラ男じゃないか。男らしい印象はないし中性的と言うなら、可愛さでは安藤の方が圧倒的に勝ってるぜ?」
「違いない」
同僚の軽口に、ドッと場が湧く。果たして鈴木の事を貶しているのか、弄っているのか分からないノリだ。
―――鈴木に人前で詰られたあの日、酷い事を言われたと思った。それが事実だと自分で思ってしまったからこそ、余計に辛かった。
相手の暴言をその通りだと飲みこまずに、文句を言えば良かったのかもしれない。何様だと怒って、友達に愚痴って、最終的に皆でこんな風に笑い飛ばせば、何年も引きずる事はなかったのかもしれない。
私も―――そして、鈴木も。
瞬きをすると、一筋の涙が頬を伝った。