第9話 ぷるぷるの正体
「不公平だ」
菓子職人のルネさんが、大理石の台を長い指で叩いた。
朝の毒見のあと、厨房に顔を出したときだった。ルネさんは再現表の板の前に仁王立ちしていた。白いコック帽は、今日も斜めだった。
「メロンパン、マルタ女史。カレー、ガストーネ氏。ラーメン、マルタ女史とガストーネ氏。……この厨房で、夢の料理に名前が載っていないのは、甘味の芸術家である私だけだ」
「ぼくも、メロンパンにしか載ってません」
ティモが小さく手を挙げた。
「君は見習いだ。私は陛下のお茶の菓子を10年任されている。そして10年間、毒見役の判決はすべて——」
ルネさんは震える指で私を指した。
「無罪か、執行猶予だ。完全無罪は、一度もない」
「泡立てすぎなんです、毎回」
「芸術には、過剰さが必要なのだ」
「過剰な芸術は、ただの泡です」
「その台詞は2回目だ」
「大事なことなので」
ルネさんは長い指で眉間を押さえた。それから、ばっと顔を上げた。
「ミレーユ嬢。君の夢の中に、甘味はないのか。パンではない。純粋な甘味の芸術だ」
前世のコンビニの、冷蔵の棚。仕事帰りの深夜に、自分へのご褒美として買っていたもの。プラスチックのカップに入っていて、ふたを開けると、黄色くてつやつやしていた。
「……プリン」
「プリン」
「ぷるぷるしています」
「ぷるぷる」
「黄色くて、ぷるぷるしていて、上に茶色くて甘くて苦いソースがかかっています」
「材料は」
「卵と牛乳と砂糖。……だったと思います」
「作り方は」
「分かりません」
ルネさんは目を閉じた。
長い沈黙のあと、目を開けた。
「素晴らしい」
「え」
「材料が3つ。形容詞が1つ。それだけの手がかりから至高の甘味を生み出す。これこそ、芸術家への挑戦状だ」
コック帽を、さらに斜めにかぶり直した。もう落ちそうだ。
「受けて立とう。そして今度こそ、君の口から『完全無罪』を言わせてみせる」
厨房の隅で、マルタさんが黒板にチョークを走らせていた。
【本日の賭け】
ルネのプリン:完全無罪 8倍
ルネのプリン:執行猶予 1.1倍
「マルタ女史!」
「統計よ」
「ティモ、あなたはどっちに賭けるの」
「完全無罪です。お小遣い、全部」
「……後で泣いても、胴元は返さないわよ」
*
1つ目のプリンは、煮こごりだった。
牛の骨から取った膠で、卵と牛乳と砂糖を固めてある。皿の上で、確かにぷるぷる揺れていた。
「被告人、煮こごり」
「プリンだ!」
「卵の味がしません。牛乳を甘く固めたゼリーです。プリンはもっと卵の味がして、なめらかで、舌の上でとろけるんです。判決。——執行猶予」
「ぷるぷるなのに、とろける……」
2つ目は、パン窯で焼いた。表面にこんがりと焼き色がつき、ふっくらと膨らんでいた。匙を入れると、固い。断面に、小さな穴がぽつぽつ開いていた。
「『す』が立っています。温度が高すぎて、中の水分が沸騰した穴です。ぷるぷるじゃなくて、ぼそぼそ。執行猶予」
ひと口食べると、甘い卵焼きの味がした。前世の運動会のお弁当の味だ。おいしい。でもプリンではない。
「……たぶん、蒸すんだと思います。お湯を張った天板に器を並べて、ゆっくり、低い温度で」
前世の品質保証部で、プリンの製造ラインを見たことがある。大きな蒸し器の中を、カップの列がゆっくり進んでいく。担当者が、何度も温度計を確かめていた。
「……湯煎か」
ルネさんがふっと笑った。
「繊細な卵のクリームを焼くときに使う手だ。なぜ思いつかなかったのだろう。『ぷるぷる』という言葉に、目を曇らされていた」
*
3つ目の前に、茶色いソースに取りかかった。
銅の小鍋に砂糖を入れて火にかける。溶けて透明になり、縁から色づいていく。淡い黄金色。琥珀色。
「どこまで焦がす」
「茶色くなるまで。甘くて、少しだけ苦いくらい」
琥珀色が、深い茶色に変わった。
ルネさんは鍋を下ろさなかった。
「ルネさん」
「もう少しだ。苦みの深さが、芸術の深さだ」
黒に近い焦げ茶色になったところで、ようやく鍋が下りた。
匙の先に少し取って、なめた。
舌の奥が、きゅっと縮こまった。
「……舌に残るこの苦味は」
ルネさんが身を乗り出した。
「容疑者、トリカブト系」
ルネさんが青ざめた。
「……ではなく、焦がしたカラメル。惜しい」
「何が惜しいんだ」
「焦がしすぎです。あと2つ数えるくらい早く、火から下ろしてください。判決。——執行猶予」
「君はカラメルにまで執行猶予をつけるのか!」
*
その日の午後、ルネさんはカラメルを12回焦がした。
1回ごとに小皿に取って、窓際に並べていく。淡い黄金色から、黒に近い焦げ茶まで。12枚の小皿が、少しずつ色を変えて一列に並んだ。
「3枚目。甘いだけ」
「7枚目。ちょうどいい」
「8枚目。少し苦いけど、これも好き」
「11枚目。トリカブト系」
「もういい! トリカブトから離れたまえ!」
ルネさんは、7枚目と8枚目を並べて、長いこと見比べていた。
「芸術家としての私は、8枚目を推す」
それから、銅の小鍋に新しい砂糖を入れながら付け加えた。
「だが、陛下のお口には、7枚目と8枚目のあいだにしよう」
陛下のお口、という言葉を、ルネさんがこんなに真剣な顔で言うのを、私ははじめて聞いた。
*
4つ目のプリンは、夕方に蒸し上がった。
湯を張った天板の上に、白い陶器の器が6つ。ルネさんが1つを取り出して、そっと揺する。淡い黄色の表面が、ふるん、と揺れた。
それから氷室で1時間。
ルネさんは冷えた器の縁に細いナイフを一周させ、皿をかぶせて、ひっくり返した。器を、そっと持ち上げる。
ぷるん。
皿の上に、黄色い台形の山が現れた。てっぺんから琥珀色のソースが、ゆっくりと山肌を流れ落ちていく。光にかざすと、透き通るような深い琥珀色だった。
山は、皿の上でふるふると震えていた。
厨房中が、息を止めた。
私は手袋を外した。
「被告人、プリン。罪状、毒物混入の疑い」
見る。表面、なめらか。「す」なし。カラメル、7枚目と8枚目のあいだの色。焦げの黒い粒なし。
嗅ぐ。卵。牛乳。バニラの莢。カラメルの、甘くて香ばしい匂い。
匙を入れた。抵抗がほとんどない。すくい上げると、匙の上でぷるぷる震えた。
口に入れる。
冷たい。
舌の上でプリンがほどけた。なめらかで、とろりとしていて、卵の味が濃い。甘さは控えめで、牛乳のまろやかさが卵をやさしく包んでいる。そこにカラメルのほのかな苦みが追いついて、甘さを引き締め、次のひと口を呼んでいた。
前世のコンビニのプリンより、卵の味がずっと濃かった。
舌の奥で、3つ数えた。
ルネさんが、コック帽を両手で握りしめていた。
「……ルネさん」
「な、なんだね」
「判決」
厨房が、静まり返った。
「——完全無罪」
ルネさんが崩れ落ちた。
膝から床に落ちて、そのまま作業台にすがりついた。コック帽が、ついに頭から落ちた。
「……10年……」
帽子のない頭で、ルネさんはつぶやいた。
「10年だ……」
マルタさんが黒板の前で頭を抱えた。
「8倍……8倍よ……誰よ完全無罪に賭けたの……」
「ぼくです! お小遣い、全部です!」
ティモが、小銭の山を抱えて跳ね回っていた。
*
翌日の午後3時。お茶の時間。
プリンは、卵と牛乳と砂糖だけでできている。王宮料理規定のどこにも引っかからない。ヘルマン様は材料の一覧を1回だけ読んで、許可を出した。
毒見の間で確かめて、30分待ちながら、私ははたと気づいた。
プリンは、冷たい菓子だ。30分待っても冷めない。もともと冷えている。3階まで運ぶ12分で少し温度が上がっても、味は落ちない。
42分が、はじめて料理の邪魔をしなかった。
30分が経ったところで、給仕頭が盆を取りにきた。
「ミレーユさん。陛下から、毒見役も一緒に上がるように、と。料理の名前を、毒見役の口から聞きたいそうです」
*
3階の食堂は、午後の光に満ちていた。
長いテーブルの一番奥に、ユリウス様が座っていた。斜め後ろにヘルマン様。
給仕頭がユリウス様の前に皿を置いた。
白い皿の上で、プリンが、ふるん、と揺れた。
ユリウス様の青い目が、少しだけ大きくなった。
「……毒見役。これは何という菓子だ」
「プリン、と申します、陛下」
「プリン」
ユリウス様は、口の中で転がすようにその言葉を繰り返した。
匙を手に取る。匙の背で、プリンの山肌をそっとつついた。
ぷるん。
もう一度つついた。
ぷるん。
「……ぷるぷるだ」
ユリウス様の口の端が、上がっていた。
ヘルマン様が息を止めたのが分かった。
ユリウス様はひと口食べて、しばらく黙っていた。それから、もうひと口。もうひと口。カラメルの最後の1滴まで、皿の上からなくなった。
「毒見役。これを作ったのは、誰だ」
「菓子職人の、ルネと申す者です」
「お前の判決は」
「完全無罪でございます。ルネにとっては、10年ではじめての」
ユリウス様は、少しだけ考えるように目を伏せた。
それから、顔を上げた。
「ルネに伝えよ」
私は背筋を伸ばした。
「私の判決も、完全無罪だ、と」
*
厨房に戻って、そのお言葉を伝えた。
ルネさんは、大理石の台の前で動かなくなった。
「……陛下が」
「はい」
「完全無罪と」
「はい。陛下の判決です」
ルネさんは、白いコック帽を脱いで、顔を覆った。長い指が震えていた。
「……10年、毎日、菓子をお出ししてきた。お言葉をいただいたのは、はじめてだ」
厨房が、静かになった。
ティモが再現表の板に書き足した。
【ミレーユさんの夢の料理 再現表】
メロンパン:完全無罪(マルタさん、ティモ)
カレー:無罪 ※ご飯待ち
ラーメン:完全無罪(マルタさん、ガストーネさん)
プリン:完全無罪 陛下の判決も完全無罪
最後の1行だけ、ほかの字より少し大きかった。
*
——同じ夜、誰もいない厨房では。
ルネは、蝋燭の灯りの下で、小さな厚紙に丁寧な字で書いていた。
『陛下の判決 完全無罪』
それを、菓子の型を並べた棚の一番上に、立てかけた。
しばらく眺めてから、少しだけ角度を直した。
斜めに。




