第10話 おにぎりは、手で
「白いご飯、というのは」
ガストーネさんがぼそりと言った。
プリンの日から3日後の朝。毒見を終えて厨房に顔を出すと、料理長が作業台の前で私を待っていた。
「カレーのとき、言っていた」
「……覚えてたんですか」
「ん」
悔しいときの「ん」ではなかった。9種類目だ。たぶん、誇らしいときの「ん」。
ガストーネさんは作業台に麻の小袋を置いた。口を開けると、白い粒がのぞいた。細長くて、半透明で、小指の爪の先ほどの大きさ。
私は息を呑んだ。
「……お米」
「東方の白麦。港の交易商が持っていた。この国では、病人の粥にする」
私は白い粒を手のひらに載せた。
前世で毎日食べていたもの。コンビニのおにぎりの、弁当の、ファミレスのカレーの、白いご飯。この世界に生まれ直して28年、一度も見なかったもの。
「これ、王宮料理規定に……」
「載っている。『東方の白麦。病人食の粥に限る』」
「粥に、限る」
「侍従長に、話はつけた」
私は耳を疑った。
「ガストーネさんが? 侍従長と? 話を?」
「ん」
あとで給仕頭から聞いた話では、こうだった。規定では白麦は粥に限る。しかし粥の定義は規定のどこにも書かれていない。水で煮たものを粥と呼ぶなら、水で炊いたものも粥の一種と言えなくもない。
ヘルマン様はこの説明を聞いて、懐中時計を3回開け閉めし、「今回に限り」と言ったらしい。
この城の規定は、穴だらけではないのか。いや、穴を見つける人間が増えただけかもしれない。私のせいで。
*
最初の米は、べちゃべちゃになった。
ガストーネさんは、たっぷりのお湯で米を茹で、ざるで湯を切った。麦や豆を茹でるときと同じ、この国の普通のやり方だ。ざるの上の米は、ふやけて、粒が崩れて、糊のようにくっつき合っていた。
「被告人、糊。判決、差し戻し」
「ん」
「お米は、茹でるんじゃなくて炊くんです。決まった量の水を、全部吸わせる」
「水の量は」
私は前世の記憶を掘った。前世の私は炊飯器しか使ったことがない。内釜の目盛りまで水を入れて、ボタンを押す。鍋で米を炊いたことは一度もない。
でもひとつだけ、覚えている言葉があった。小学校の林間学校で、飯盒でご飯を炊いたときに、担任の先生が教えてくれた言葉。
「……はじめチョロチョロ、中パッパ」
ガストーネさんの手が止まった。
「赤子泣いても、ふた取るな」
厨房が静まり返った。
「……呪文か」
ルネさんが眉をひそめた。
「呪文じゃありません。米の炊き方です。最初は弱火、途中から強火。炊いている間は、何があってもふたを開けちゃいけない」
「赤子が泣いても」
「赤子が泣いても」
ティモが帳面に書きつけた。これは名言として書き留めていい。私の言葉ではないから。
水の量は、米の上に手のひらを平らに置いて、手の甲の関節まで。それも林間学校で聞いた気がする。
ガストーネさんは、洗った米を厚手の鉄鍋に入れ、大きな手のひらを沈めて水を測った。重いふたを載せ、火を細くする。しばらくして、強くした。
鍋がことことと鳴り始めた。ふたの隙間から、白い泡が吹きこぼれそうになる。ティモが思わず手を伸ばした。
「ふた取るな」
ガストーネさんが、ティモの手首をつかんだ。
やがて鍋の音が静かになった。火から下ろして、そのまま置く。
甘い匂いが漂い始めた。パンの匂いとは違う。もっと素朴で、湿っていて、ほんのりと甘い匂い。
——ご飯の、匂いだった。
ふたが開いた。白い湯気の向こうに、つやつやとした粒がふっくらと立ち上がっていた。表面に、小さな穴がぽつぽつ開いている。
「……炊けてます」
声が震えた。
その日の賄いは、ガストーネさんがご飯に合わせて作り直したカレーを、炊きたてにかけたものになった。
私は手袋を外して、スプーンを口に運んだ。
熱いご飯が、辛さをやわらげ、甘みを引き立て、香辛料の香りを口いっぱいに広げていく。深夜のファミレスの、窓際のカウンター席の味。
「判決。——完全無罪」
ガストーネさんが、作業台に背を向けた。耳まで赤かった。
「ん」
10種類目。嬉しいときの「ん」だった。
*
おにぎりを作る段になって、問題が起きた。
「手で、握るんです」
私が言うと、厨房の空気が凍った。
「素手で?」
「塩をつけた手のひらに、ご飯を載せて、三角に」
ガストーネさんが、壁の一角を指さした。王宮料理規定の抜き書きが貼ってある。
【王宮料理規定 抜粋】
第12条 陛下のお食事に、料理人が素手で触れてはならない
第13条 盛りつけには、必ず匙、トング、または清めた道具を用いること
「素手、だめなんですね」
「ん」
「でも、おにぎりは手で握らないと、おにぎりにならないんです」
前世の工場にも、おにぎりを握る機械はあった。型に入れて押し固める。形はきれいだけれど、ぎゅうぎゅうに固い。人の手で握った、ふわっとほどける感じは出ない。
私はしばらく考えた。
それから、腕まくりをした。
「手を、洗いましょう」
「手なら洗っている」
「もっと、洗うんです」
私は水桶の前に立った。前世の品質保証部で、何百回とやった手順だ。工場の製造ラインに入る前に、全員が同じ手順で手を洗う。
「石鹸を泡立てて、手のひら。手の甲。指の間。親指を反対の手でねじるように。指先を手のひらに立てて、爪の間。最後に手首。全部で30数える間」
実演してみせた。厨房がぽかんと見ていた。
「流して、乾いた清潔な布で拭く。それから、指先を蒸留した強い酒で清めます」
「酒で?」
「強い酒には、手の汚れを清める力があります。図鑑に載ってます」
ガストーネさんは、黙って私の手順をそのまま繰り返した。泡立てて、手のひら、甲、指の間、親指、爪、手首。30数えて、流して、拭いて、酒で清めた。
入り口で見ていた給仕頭が、ぽつりと言った。
「……規定の『清めた道具』より、ずっと清らかですね」
ガストーネさんが、両手に塩をつけた。炊きたての、湯気の立つご飯を手のひらに載せる。熱いはずなのに、顔色ひとつ変えない。
真ん中を指でくぼませて、塩漬けの鱒を焼いてほぐしたものを少しだけ入れる。前世の鮭の代わりだ。ご飯でくるむように、両手で包む。
ぎゅっ、ではなく、ふわっ、と。
大きな手の中で、ご飯がきれいな三角になっていった。
海苔はない。この国に海藻を食べる習慣はない。白い、ただの三角が皿の上に置かれた。
ガストーネさんの手のひらの形が、うっすらと残っていた。
*
昼12時。
毒見の間でおにぎりを確かめた。ほろりとご飯がほどけて、真ん中の鱒の塩気と脂が、ご飯の甘みと混ざり合う。
「判決。——完全無罪」
30分待っても、おにぎりはおにぎりのままだった。前世のコンビニのおにぎりは、そもそも冷たかった。おにぎりは冷めてもおいしい食べ物なのだ。プリンに続いて2つ目。42分に負けない料理。
その日も、陛下のご希望で食堂に上がった。
ユリウス様の前に置かれた皿には、三角のおにぎりが2つ。給仕頭が、その両脇に銀のナイフとフォークを並べた。
ユリウス様は、ナイフとフォークを取りかけて、止まった。
「毒見役。これは、どうやって食べる」
「手で、お持ちください。陛下」
ヘルマン様の懐中時計が、ぱちん、と大きな音を立てた。
「毒見役。陛下に手づかみで食事をせよと申すのか」
「おにぎりは、手で食べるものです」
「王宮の作法では」
「ナイフで切ると、ご飯がばらばらになります。手で持つと、崩れずに最後までおいしく食べられます」
「作法の話をしている」
「私はおいしさの話をしています」
ヘルマン様の眉間のしわが、今までで一番深くなった。3本。新記録だ。
その間に、ユリウス様が、おにぎりを両手で持ち上げていた。
「陛下!」
ユリウス様は構わずかじった。小さなひと口だった。黙って噛んで、もうひと口。3口目で、手が止まった。
「……中に、何か入っている」
「鱒の塩漬けです、陛下。真ん中に、少しだけ」
ユリウス様は、断面の薄紅色を見つめていた。それから、おにぎりの表面を親指でそっとなぞった。ガストーネさんの手のひらの、うっすらとした跡を。
「これは、誰が作った」
「料理長の、ガストーネでございます」
「手で、作ったのか」
「はい。手で、握りました」
ユリウス様は長いこと黙っていた。
「……手の、形がついている」
小さな声だった。
今まで、ユリウス様の前に出されてきた料理は、全部道具で盛りつけられていた。誰が作ったのか分からない料理を、誰もいない食卓で、ナイフとフォークで食べてきた。
この三角には、作った人の手の形がついている。
ユリウス様は2つとも、最後まで両手で持って食べた。
食べ終えて、指についたご飯粒を見つめながら、ぽつりと言った。
「毒見役。私は、何が好きなのだろうな」
私は答えられなかった。
*
食堂を出たところで、ヘルマン様に呼び止められた。
「王宮料理規定、第12条。陛下のお食事に料理人が素手で触れてはならない。知っていたな」
「知っていました」
「規定を破った」
「はい」
「料理長の処分は」
「料理長は、私の指示に従っただけです。手の洗い方も、私が決めました。毒見役が確認しました。責任は私にあります」
ヘルマン様は懐中時計を握りしめていた。
この石頭。頭の中が規定集でできている、懐中時計付きの石頭。
でも、今日のこの人は、正しい。規定を破ったのは私だ。
「……毒見役に、減俸3か月を命じる」
「承知しました」
私は深く頭を下げた。
減俸3か月。前世なら始末書と賞与の査定に響く案件だ。こちらの世界にボーナスはないので、その点は気楽だった。
頭を下げたまま、ヘルマン様の足音が遠ざかるのを聞いていた。
かつ、かつ、かつ。
今日は、いつもより少しだけ歩幅が重かった。
*
その夜、ティモが再現表の板に1行書き足した。
おにぎり:完全無罪 陛下、手で召し上がる
その下に、小さな字で、もう1行。
※ミレーユさん、減俸3か月
「それは書かなくていい」
「記録なので」
この少年の記録癖は、ときどき容赦がない。
*
——同じ日の夕方、3階では。
「減俸、だと」
給仕頭の報告を聞いて、少年は顔を上げた。
「はい。規定第12条違反で、3か月。毒見役は、料理長をかばって、責任をすべて自分で」
少年は膝の上で両手を握った。
手のひらには、まだ、昼に握ったご飯の感触が残っていた。
「給仕頭」
「はい」
「侍従長を呼べ」
給仕頭は目を見開いた。
この5年間、陛下が自分から侍従長を呼びつけたことは、一度もなかった。




