第11話 陛下の好物
翌朝、朝の毒見を終えたところで、給仕頭が毒見の間に飛び込んできた。
「ミレーユさん、食堂へ。陛下がお呼びです。侍従長も」
終わった。
減俸の次は、解任だ。規定違反の常習犯として、城から叩き出される。前世で言えば懲戒解雇。退職金なし。いや、そもそも退職金という制度がこの国にあるのかどうか。
階段を上がりながら、私は城下の求人を思い浮かべていた。毒見役の経験を活かせる職場。……ない。ひとつもない。
強いて言えば、酒場の味見係。あるいは、市場の八百屋で、試食の桃をかじる係。どちらも、給金が出る気がしない。
*
食堂には、ユリウス様とヘルマン様がいた。
ユリウス様は、いつもの一番奥の席に座っていた。ヘルマン様は、その前に立っていた。懐中時計を、両手で握りしめて。
「毒見役」
ユリウス様が言った。
「減俸3か月と聞いた」
「……はい。規定違反です。当然の処分です」
「そうか」
ユリウス様はヘルマン様のほうを向いた。
「ヘルマン。毒見役の減俸分は、私の菓子代から払え」
食堂が、しんとなった。
「……陛下。それは」
「規定に、王が自分の菓子代を誰に払うかの定めはあるか」
ヘルマン様の懐中時計が、止まった。
ヘルマン様は、目を閉じた。頭の中で、規定集を最初から最後までめくっているのが分かった。第1条から、最後の条まで。
長い沈黙のあと、ヘルマン様は目を開けた。
「……ございません」
「では、そうせよ」
「……御意」
私は口を開けたまま立ち尽くしていた。
規定の穴を突いた。陛下が。13歳の陛下が、あの石頭の侍従長から、規定の穴で一本取った。
この城の穴探し病は、ついに王族にまで感染したらしい。感染源は、たぶん私だ。
「毒見役」
「は、はい」
「昨日の問いの答えは、分かったか」
——私は、何が好きなのだろうな。
「……まだです。ですが、調べます」
「調べられるのか」
「毒見役ですから。陛下のお口に入ったものは、全部記録してあります」
ユリウス様は少しだけ目を見開いた。
「では、調べよ」
*
毒見の間の奥の棚には、12年分の記録帳が並んでいる。1冊に3か月分。12年で48冊。一番古い1冊は背表紙の文字が読めない。
そのうち、右から20冊。ユリウス様が即位されてからの5年分。
その夜、全部を机に積み上げた。机が、みしりと鳴った。
前世で、監査の前夜に3年分の記録を一晩で読んだことがある。翌朝、目が開かなかった。今夜は5年分だ。明日の朝は、たぶん目が開かないどころか、目がどこにあるのか分からなくなる。
ページをめくる。
【毒見記録】
日付:秋の月、3日 朝食
白パン:無罪
ベーコン:無罪
茹で卵:無罪
ハーブティー:無罪
所見:異常なし
献立と判決。それだけだ。
記録帳は毒見の記録で、陛下が何を召し上がったかは書いていない。余白の書き込みを始めたのは、ついこのあいだのことだ。前世の品質保証部なら、「記録項目の設計不備」で指摘を受ける。自分で自分に是正処置を出したい。
それでもページをめくる手は止まらなかった。
献立の行を指でなぞると、その日の味が舌の上によみがえる。この白パンは焼きが浅かった。このベーコンは塩が強かった。
毒見役の舌は、覚えている。
でも、下げられてきた皿の中身までは、私ひとりでは覚えきれない。
*
翌日の午後、20冊を抱えて厨房に下りた。
「……何、その山」
「陛下の5年分の献立です。皆さんに、手伝ってほしいんです。陛下が何をお残しになって、何を召し上がったか」
ティモが勢いよく手を挙げた。
「皿を洗うのは、ぼくの仕事です! 陛下のお皿は分けて洗う決まりなので、3年分、全部見てます!」
「全部?」
「全部です。帳面にも書いてます」
ティモが広げた帳面には、私の独り言の名言集に混ざって、陛下の食べ残しの記録がびっしり書き込まれていた。
「……あなた、何でも書き留めるのね」
「書かないと、忘れちゃうので」
この少年の記録癖を、今日だけは褒めたい。今日だけは。
ガストーネさんが作業台の端に腰を下ろした。ルネさんが長い指を組んだ。マルタさんが小銭を数える手を止めた。給仕頭が、打ち合わせのついでに顔を出して、そのまま残った。
私が献立を読み上げ、みんなが記憶を持ち寄った。
持ち寄りながら、マルタさんは、いつのまにか黒板に何か書いていた。
【本日の賭け】
陛下の好物:肉料理 2倍
陛下の好物:パン 3倍
陛下の好物:菓子 50倍
「マルタ女史!」
ルネさんが、大理石の台を叩いた。
「統計よ。帳面、見たでしょ」
ルネさんは、何か言い返そうとして、口をつぐんだ。自分の菓子が手つかずで戻ってくるのを、一番よく知っているのはルネさん自身だった。黙ったまま、菓子の欄に銅貨を1枚置いた。
芸術家の意地だった。
*
日が傾く頃には、作業台に帳面が5冊並んでいた。
「手つかず、が多いのは」
ルネさんが帳面を指でなぞった。
「……私の菓子だ」
誰も何も言わなかった。
「プリンの日までは、ね」
マルタさんが言うと、ルネさんの口の端が少しだけ上がった。棚の上の「陛下の判決 完全無罪」の厚紙が、ちらりと視界の端に入った。斜めに立てかけてあった。
私は帳面を読み返した。
白パン、半分。ベーコン、1枚。オムレツ、半分。肉料理、2口か3口。スープ、半分。菓子、手つかず。
どれも同じだった。何をお出ししても、同じように少しだけ召し上がって、残される。好き嫌いの差がない。
嫌いなものがないのではない。
たぶん、好きなものもないのだ。
「……全部、同じですね」
ティモがしょんぼりと言った。
「待って」
私は2つの行を指さした。
「ハーブティー。5年間、毎朝、空」
「それから、温野菜。人参だけは、毎回なくなってる」
全員が帳面をのぞき込んだ。
「ハーブティーは」
給仕頭がおずおずと言った。
「食堂の脇の小部屋でお湯を沸かして、その場で淹れてお出ししています。茶葉だけを毒見役に確かめていただいて」
「……じゃあ、ハーブティーだけは」
「はい。陛下のお口に入るもので、淹れたての熱いものは、ハーブティーだけです」
厨房が、しんとした。
5年間毎朝空になっていたのは、陛下の食卓で唯一の、温かい飲み物だった。
では、人参は。
そのとき、作業台の端で、低い声がした。
「……根菜のスープ」
ガストーネさんだった。
全員が振り向いた。料理長は、自分の大きな手を見下ろしていた。
「先王陛下が、毎週、頼まれた」
ぽつり、ぽつりと話した。料理長がこんなに長くしゃべるのを、12年で2回目に聞いた。
先王陛下は、週に一度、必ず鶏と根菜のスープを所望された。玉ねぎと、じゃがいもと、人参を、鶏の骨のスープでことことと煮たもの。王宮の料理としては、素朴すぎるほどの一品だった。
「ある日、使いが来た」
ガストーネさんは少しだけ目を細めた。
「人参を多めに入れてくれ、と。……息子が、人参が好きでな、と」
*
記録帳を、さかのぼった。
右から21冊目から先。先王陛下の時代の7年分。毒見役になりたての頃の、角張った私の字。
あった。
【毒見記録】
日付:冬の月、8日 夕食
鶏と根菜のスープ:毒なし
(先王陛下のご要望により、人参多め)
仔牛の煮込み:毒なし
所見:異常なし
当時はまだ、記録に判決を書く習慣がなかった。アデライデさんに教わった口上を、記録帳にまで持ちこむようになったのは、もっと後だ。
毎週。鶏と根菜のスープ。人参多め。
先王陛下が亡くなられる、前の週まで。
それから先の記録帳には、一度も出てこなかった。
「……作らなくなったんですか」
「頼まれなくなった」
ガストーネさんは短く答えた。
「頼まれないものは、作らない。王宮の料理は、そういうものだ」
スープを頼む人がいなくなった。8歳の子供は、自分から料理を頼むことを知らなかった。誰も、何が食べたいかを訊かなかった。
「先王陛下は、スープだけは大鍋ごと食堂に運ばせて、ご自分で取り分けておられました」
給仕頭が懐かしそうに言った。
「冬の間は、食堂の暖炉に鍋をかけ直して。狩りの野営と同じだと、笑っておいででした。……亡くなられてから、暖炉で料理を温め直すことは規定で禁じられました。料理人でない者が、陛下の料理を火にかけてはならない、と」
陛下の好物は、人参ではなかった。
父親が自分の器に取り分けてくれた、人参のたくさん入った、温かいスープだった。
*
その夜、給仕の手が「たまたま」足りなかったので、私は夕食の盆を持って食堂に上がった。
「毒見役。分かったか」
「陛下は、鶏と根菜のスープを覚えておいでですか。先王陛下が毎週ご所望になった。人参を多めに、と」
ユリウス様の手が、止まった。
長いこと、黙っていた。
「……父上が、取り分けてくださった」
小さな声だった。
「人参ばかり入れるので、私はいつも人参から食べた。そうしないと、器がいっぱいでスープが飲めなかった」
「はい」
「あれは、熱かった。舌を焼いた。父上が、笑っておられた」
ヘルマン様が、懐中時計を握ったまま、床を見ていた。
「毒見役。あのスープを、また食べられるか」
作ることはできる。ガストーネさんは覚えている。
でも、熱いままお出しすることは、今はできない。42分。暖炉は規定で使えない。
ユリウス様が覚えているのは、舌を焼くほど熱いスープだ。
陛下には、嘘をつかない。
「……作ることは、できます。でも、熱いままお届けすることは、今は、できません」
ユリウス様は、少しだけ目を見開いた。それから、小さくうなずいた。
「そうか」
冷めたポタージュの夜と、同じ言葉だった。
でも、今は、と私は言った。今は、だ。
*
地下に戻ると、厨房の灯りがまだついていた。
ガストーネさんがひとりで、作業台の前に立っていた。台の上に、人参が山のように積まれていた。
「……聞いてたんですか」
「給仕頭から」
ガストーネさんは、人参を1本取って皮をむき始めた。
「作る」
「でも、熱いままは」
「それは、お前が考えろ」
包丁の音が、夜の厨房に響いた。
「俺は、作る。5年分、作っていなかったからな」
ティモが、再現表の板の一番下に書き足した。
(番外)鶏と根菜のスープ:陛下の好物 人参多め
課題:熱いまま、届ける
「課題」の下に、線が2本引かれた。
*
——同じ夜、侍従長の執務室では。
ヘルマンは、背後の棚の奥から、筒状に巻かれた古い羊皮紙を1本取り出した。
城の断面図だった。地下の井戸から、まっすぐ上に伸びる1本の線。3階の、ある部屋で止まっている。
「……先王陛下」
ヘルマンは羊皮紙を撫でた。
「あのとき私は、予算がないとお答えしました」
懐中時計を開く。夜の10時を回っていた。
ヘルマンは羊皮紙を机の上に広げたまま、明かりを消さずに執務室を出た。




