第12話 温かいまま、届けたい
敵は2つあった。
毒見のあとの30分。地下から3階までの12分。
合わせて42分。陛下のスープを冷ましているのは、この42分だ。
私は毒見の間の机に紙を広げて、2つの数字を大きく書いた。前世の品質保証部で叩き込まれた基本だ。不良が出たら、工程を分解して、数字にする。数字にできれば、手が打てる。
30分は、規定で決まっている。毒見役ひとりの考えでは動かせない。
なら、先に12分を片づける。
*
「12分を、短くしたいんです」
厨房で言うと、料理人たちが顔を見合わせた。
「給仕を走らせたら?」
「スープがこぼれます」
「じゃあ、速く歩く」
「今でも十分速いです。私が運んだときは12分でしたけど」
「それはあんたが遅いのよ」
マルタさんの指摘は、いつも正確で容赦がない。
「階段が多すぎるんですよね」
ティモが帳面に城の絵を描いた。四角い箱が3段重なり、一番下に「厨房」、一番上に「食堂」。その間を、ぐねぐねの線がつないでいる。
「地下から1階に上がって、使用人用の通路を通って、2階の回廊を半周して、3階へ。遠回りなんです。まっすぐ上がれればいいのに」
「まっすぐ、ね」
マルタさんが天井を見上げた。
厨房の天井の右奥。ミレーユの焦げ跡の、すぐ隣。
古い木の板で塞がれた、四角い穴の跡があった。
「……あれ、何ですか」
「井戸の穴だ」
ガストーネさんがぼそりと言った。
「砦だった頃の。地下の井戸から、上の階へ水を汲み上げた縦穴。俺が来たときには、もう塞がれていた」
私は四角い跡を見上げた。
もし、あの穴が、まっすぐ上まで続いているなら。
*
城の古い図面を持っているのは、侍従長だけだ。
翌朝、執務室の扉を叩くと、ヘルマン様は書類の山の向こうから顔を上げた。
「毒見役が、何の用だ」
「城の古い図面を——」
言いかけて、止まった。
ヘルマン様の机の上に、黄ばんだ羊皮紙が広げたままになっていた。城の断面図。地下の井戸から、まっすぐ上に伸びる1本の線。3階の、食堂の隣の部屋で止まっている。
「……それ」
「給仕の控えの間だ。今はハーブティーの湯を沸かす部屋になっている。壁の一部が、塞がれているはずだ」
ヘルマン様は、羊皮紙を私のほうへ押しやった。
「先王陛下が、同じことを考えておられた。狩りから戻られて、冷えた料理を召し上がるのが嫌だと、よくこぼしておられた。この縦穴を使えないかと、私に相談された」
ヘルマン様は懐中時計を開いた。
「私は、予算がないとお答えした。その翌年に、落馬で亡くなられた」
懐中時計が、ぱちんと閉じた。
「……予算は、今もない。城の大工は貸せん。厨房の者が、手の空いた時間にやるなら、止めはしない」
この石頭。
予算がないなら、最初からそう言えばいいのに。……いや、言っている。今まさに言っている。言いながら、羊皮紙を出してくれている。
この人は、石頭の中に、先王陛下の頼みを5年間しまっていたのだ。
「ありがとうございます」
「礼は要らん。規定に定めのないことに、礼の手続きはない」
石頭。でも、いい石頭だ。
*
工事は夜、厨房の仕事がすべて終わってから行われた。
天井の板を外すと、黒い四角い穴がまっすぐ上へ伸びていた。ランプをかざすと、石組みの壁に、古い滑車の金具が錆びついたまま残っていた。
「生きてる」
ガストーネさんが金具を指で叩いた。
錆を落とし、油を差し、新しい綱を通す。滑車に吊るす籠は、マルタさんのパン籠を改造した。底に板を張り、取っ手をつけ、鍋がちょうど1つ入る大きさに。3階の控えの間の塞がれた壁は、給仕頭が外してくれた。
1回目の試運転。
籠に水を張った鍋を載せて、ガストーネさんが綱を引いた。籠はするすると上がっていき、2階のあたりで、がくんと止まった。綱が古い滑車の溝から外れたのだ。
次の瞬間、籠が逆さまになった。
縦穴の上から、水が滝のように降ってきた。真下にいたティモが、頭から全部かぶった。
「……スープじゃなくて、よかったです」
ティモは、びしょ濡れのまま帳面を掲げた。帳面だけは守り抜いていた。
2回目は、綱がよじれて籠がくるくると回り出した。3階に着いたとき、鍋の水は半分になっていた。
「被告人、昇降機。判決、執行猶予」
「機械にまで判決を出すな」
「機械じゃありません。被告人です」
ルネさんは、返事の代わりにため息をついた。
ルネさんが縦穴をのぞき込んで言った。
「籠の底に重しをつけたまえ。重心が低ければ回らない。菓子の型を吊るして冷ますときと同じ理屈だ」
籠の底に、厨房で一番重い鉄の鍋ぶたが取りつけられた。
3回目。
ガストーネさんが綱を引く。籠は、まっすぐ静かに上がっていった。
上から、給仕頭の声が降ってきた。
「届きました! こぼれていません!」
ティモが砂時計をひっくり返していた。
「地下から3階まで、2分です!」
12分が、2分になった。
厨房が沸いた。その夜、ティモは籠の取っ手に小さな木札を結びつけた。
【陛下のお膳籠】
乗るべからず
揺らすべからず
綱から手を離すべからず
「乗るべからずって。誰が乗るのよ」
「1回乗ってみたいなって思ったので。自分への戒めです」
「乗ったら、どうなるの」
「たぶん、2階で止まって、逆さまになります」
実験済みのような言い方だった。
*
翌朝、ヘルマン様が厨房に下りてきた。
縦穴を見上げ、籠を見下ろし、ティモの木札を読んだ。
「乗るべからず」
「自分への戒めだそうです」
「……よい心がけだ」
ヘルマン様は、懐中時計を開いた。籠が3階まで上がって、降りてくるまでを、黙って計った。
「2分」
「はい」
「……先王陛下にも、お見せしたかった」
小さな声だった。聞き返す前に、ヘルマン様は懐中時計を閉じて、いつもの顔に戻っていた。
「王宮料理規定に、昇降機の定めはない。したがって、禁じる理由もない。ただし、綱が切れたら、毒見役の責任とする」
「なんで私なんですか」
「言い出したのは君だ」
この石頭。……いや、筋は通っている。筋が通っているのが、余計に腹立たしい。
ヘルマン様が去ったあと、ガストーネさんは、綱を握った自分の手のひらを見つめていた。赤い跡が残っていた。この綱を、これから1日3回引くことになる。
手のひらを1回だけ握って、開いた。
「……ん」
11種類目の「ん」。引き受けた、の「ん」だ。
*
昇降機が使えるようになった最初の夜、ガストーネさんは鶏と根菜のスープを作った。
5年ぶりの、あのスープだった。
毒見の間で、大鍋から少しだけ取り分けた。
「被告人、鶏と根菜のスープ」
見る。澄んだ黄金色。脂の粒は小さく少ない。人参の橙色が、ほかの野菜の倍くらい沈んでいる。
嗅ぐ。鶏と玉ねぎとローリエ。人参の、甘い土の匂い。
口に入れる。熱い。鶏のスープが舌の上にやさしく広がる。塩は控えめで、野菜の甘みがそのまま生きている。人参を噛むと、ほろりと崩れて甘い汁がにじんだ。
素朴な味だった。王宮の料理とは思えないくらい、家庭の味だ。前世の実家で、母が作っていた豚汁に、少しだけ似ていた。
「判決。——完全無罪」
そして、30分。
大鍋にふたをして、厚い布で何重にも包んだ。脈を測りながら、ずっと布に手を当てていた。布越しの温かさが、少しずつ弱くなっていくのが分かる。
30分が、長い。
12年でいちばん長い30分だった。
時間が来ると、ティモが鍋を抱えて厨房へ走った。籠に載せる。ガストーネさんが綱を引く。
2分。
上から、声が降ってきた。
「届きました!」
*
私は階段を駆け上がった。
12分かかる道のりを、7分で上がった。息が切れて、3階の廊下で壁に手をついた。前世の運動不足と今世の運動不足が、合算で私の足を殺しにきていた。
食堂の扉の隙間から、中をのぞいた。
ユリウス様の前に、深い器が置かれていた。
湯気が、かすかに立っていた。
目を凝らさないと見えないくらいの、細い湯気。でも、確かに。
ユリウス様は匙を取り、器の中の人参をすくった。口に運ぶ。しばらく噛んで、次の人参。また次の人参。器の中の人参が、1つずつなくなっていく。
人参がなくなってから、ようやくスープを飲んだ。
器は、人参でいっぱいではなかった。給仕頭は先王陛下ほど人参を盛らなかったはずだ。それでもユリウス様は、人参から食べた。
器が空になった。
ユリウス様は、匙を置いて、扉のほうを見た。
「毒見役。そこにいるのだろう」
びくりとした。
扉を開けて入り、頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「息が切れている」
「階段を、走りましたので」
ユリウス様は空の器を見下ろした。
「父上のスープより、ぬるかった」
分かっていた。私はうなずいた。
「だが」
ユリウス様は顔を上げた。
「冷めたスープより、温かかった」
それから、給仕頭のほうへ器を差し出した。
「もう一杯」
給仕頭の手が、震えた。大鍋のふたを開けて、器にスープをよそう。今度は、人参を器いっぱいに。
ユリウス様はまた人参から食べ始めた。
*
地下に戻ると、厨房の全員が縦穴の下で待っていた。
「どうだった!」
「おかわり、されました」
一瞬の静寂のあと、厨房が爆発した。ティモがガストーネさんに飛びつき、ガストーネさんはティモを片手で持ち上げた。ルネさんのコック帽が宙を舞った。マルタさんは、なぜか小銭をばらまいていた。何に賭けていたのか、訊くのはやめておいた。
私は輪の中で少しだけ笑っていた。
でも、頭の中では、もうひとつの数字を見ていた。
30分。
12分は2分になった。それでも陛下は「ぬるかった」と言った。舌を焼くほど熱いスープを、陛下は覚えている。
あと30分。
毒見役の30分だけが、まだ、陛下のスープを冷ましている。
*
——同じ頃、3階の寝室では。
「給仕頭。今夜のスープは、何分で届いた」
「厨房から、2分でございます。その前に、毒見の30分が」
「30分」
少年は寝台の上で膝を抱えた。
「……30分は、変わらないのか」
「規定でございますので」
「そうか」
少年はしばらく黙っていた。
「毒見役は、その30分、何をしているのだ」
給仕頭は答えを知らなかった。




