第13話 毒見は3分
なぜ、30分なのか。
12年間、私はその理由を考えたことがなかった。規定にそう書いてある。アデライデさんもそうしていた。だからそうするものだと思っていた。
前世の品質保証部の上司が、よく言っていた。
「手順には必ず理由がある。理由が分からないまま手順を変えるのは、一番やっちゃいけないことだ。でも、理由が分かったら、手順は変えていい」
私は、毒物図鑑の別冊を開いた。全3巻とは別に、薄い1冊だけの巻がある。表題は、「遅効性の毒」。
*
口にしてすぐには症状が出ず、しばらく経ってから効き始める毒。図鑑に載っているのは7種類だった。
眠り苔。夜霧茸。黄泉蔓。沈み石の粉。灰鼠の胆。三日月草。そして、白雫。
効き始めるまで、早いもので5分。遅いもので25分。
「25分に余裕をみて、30分」
声に出すと、拍子抜けするほど分かりやすい理由だった。
私は7つの特徴を、1つずつ確かめていった。
眠り苔は、舌の奥にわずかな痺れを残す。夜霧茸は、口に入れた瞬間に土の匂いが鼻に抜ける。黄泉蔓は苦い。沈み石の粉は、舌にざらつきが残る。灰鼠の胆は、後味が金属のように冷たい。三日月草は、甘すぎる。
6つまでは、口に入れた瞬間に、何かしらの手がかりがある。毒見役の舌なら分かる。少なくとも、私の舌なら。
問題は、7つ目だった。
白雫。
——無色。無臭。無味。水に溶かすと跡形もなく消える。口にしてから、およそ25分で効き始める。
挿絵はなかった。描きようがないのだろう。白いページの真ん中に、一行だけ書いてあった。
——白雫を見分ける方法は、待つことのみ。
*
本当に6つは分かるのか、試してみることにした。
厨房で事情を話すと、ルネさんが妙に張り切った。
「つまり、毒に似せた味を、菓子で作ればいいのだね。本物の毒を使わずに」
「毒は入れないでくださいね」
「当然だ。私は芸術家であって、暗殺者ではない」
ルネさんは、菓子の材料で7つの小皿を用意した。どれも白い牛乳のプリンに見える。そのうちのいくつかに、毒の特徴を真似た味が仕込んである。
「眠り苔の痺れは山椒の実で。夜霧茸の土臭さはごぼうの皮で。黄泉蔓の苦味は焦がしたカラメルで……いや、焦がしすぎたカラメルで」
「それ、トリカブト系じゃなかったんですか」
ティモが首をかしげた。
「ミレーユ嬢がそう言ったんだ。……ではなく、とも言ったがね」
ティモが3分の砂時計をひっくり返した。
手袋を外す。1皿目、舌の奥がぴりっとする。山椒。2皿目、土の匂いが鼻に抜ける。ごぼう。3皿目、苦い。焦がしすぎたカラメル。4皿目、ざらつく。砕いた粗塩。5皿目、後味が冷たい。薄荷。6皿目、甘すぎる。蜂蜜の入れすぎ。
6皿を終えたとき、砂時計の砂はまだ半分残っていた。
厨房から拍手が起こった。マルタさんが「全問正解に賭けた人、配当2倍よ!」と叫んだ。
私は7皿目を口に入れた。
ただの、牛乳のプリンだった。痺れもない。匂いもない。苦くも、甘すぎもしない。
「……7皿目は、何も入っていません」
「本当に?」
ルネさんがにやりと笑った。
もうひと口食べた。やはり、何も分からなかった。
「分かりません」
私は正直に言った。
「何も入っていないのか、何も感じないものが入っているのか。私の舌では、見分けられません」
ルネさんは少しだけ真面目な顔になった。
「……何も入っていないよ。安心したまえ」
でも、もしそれが白雫だったら、私には分からない。
それが、この試験の答えだった。
*
「つまり」
侍従長の執務室で、ヘルマン様は、私の書いた紙を指先でつまみ上げた。
「7つのうち6つは、口に入れた瞬間に分かる。だから毒見のあとの待ち時間は短くしてよい。そう言いたいのだな」
「3分あれば、6つの毒の初期の兆候は全部確かめられます」
「7つ目は」
「……白雫は、待つしかありません」
「では、30分は必要だ」
ヘルマン様は紙を机に置いた。
「毒見役。君は優秀だ。それは認める。だが、7つのうち6つを見分けられる毒見役と、7つすべてを見分けられる毒見役は別物だ。陛下のお命を預かる手順に、6つで十分ということはない」
正論だった。正論すぎて、ぐうの音も出ない。前世の監査で、監査員に同じことを言われた記憶がある。あのときも、ぐうの音は出なかった。
この石頭。いや、今日のこの人は、ただの正論だ。石頭と正論の区別がつかなくなってきた。
「……白雫は、この100年、王国で使われた記録がないと聞いています」
「記録がないことは、使われないことの証明にはならない。毒見役なら知っているはずだ」
「では、せめて一度だけ見ていただけませんか。3分で、何を確かめているのかを」
*
翌日の昼。毒見の間に、ヘルマン様とガストーネさんとティモと私。4人も入ると息苦しい。
ティモは、砂時計を2つ抱えていた。3分のものと、30分のもの。
「どっちを使うか分からなかったので」
「3分のほうよ」
「30分のほうは」
「侍従長が勝ったときに使うの」
ヘルマン様の懐中時計が、ぱちんと鳴った。ティモは、30分の砂時計をそっと背中に隠した。
布を取ると、湯気がむわっと立ちのぼった。
グラタンだった。ぐつぐつと煮え立つ白いソース。表面にこんがり焦げたチーズの膜。縁のチーズが、皿にかりかりに焼き固まっている。
「ティモ、砂時計」
「はいっ」
手袋を外した。
「見ます。チーズの焦げ目、均一。縁の焼き固まり、炭化なし。ソース、乳白色。黄泉蔓の苦味成分による黄ばみなし。沈み石の粉のような沈殿、表面からは確認できず。匙を入れます」
チーズの膜がぱりっと割れた。中から、マカロニと鶏肉と玉ねぎが顔を出す。湯気が一段と強く立った。
「断面、均一。具材の変色なし。嗅ぎます。バター、小麦粉、牛乳、チーズ、ナツメグ、白胡椒。夜霧茸の土の匂いなし。三日月草の甘ったるい花の匂いなし。含みます」
口に入れた。
熱い。とんでもなく、熱い。
「あふっ」
舌を焼いた。
「……含みます。舌の上、熱い。とても熱い。ソースなめらか、沈み石のざらつきなし。マカロニ、芯がほんの少し残る程度。チーズの塩気強め。灰鼠の胆の金属のような冷たい後味、なし。そもそも熱くて冷たさが分かりません。もうひと口含みます」
ヘルマン様の眉間のしわが、1本から2本になった。
「熱い。舌の奥で3つ数えます。1、2、3。眠り苔の痺れ、なし。……いや、痺れてる。これは火傷です。火傷と眠り苔の違い。眠り苔は舌の奥から来る。火傷は舌の先から来る。これは舌の先。火傷です。問題なし」
ティモが、口を半開きにしていた。ガストーネさんは、腕を組んだまま微動だにしなかった。ヘルマン様は、懐中時計を握りしめていた。
「飲み込みます。喉、問題なし。胃、熱い。脈、やや速い。これは早口のせいです。指先、しびれなし。舌の色、赤い。火傷のせいです」
砂時計の最後の一粒が落ちた。
「判決。——無罪」
毒見の間が、しんと静まり返った。
私は肩で息をしていた。舌がひりひりした。
ヘルマン様は懐中時計を閉じた。
「……早口で言えばよい、というものではない」
「分かっています」
「そして、白雫は」
「分かりません。3分で分かるのは、6つまでです」
ヘルマン様は小さく息を吐いた。
「規定は、変えられない」
扉を出る直前、ヘルマン様は振り返らずに言った。
「……舌は、冷やしておきたまえ」
*
グラタンは、30分と2分のあとで3階へ上がった。
下げられてきた皿には、半分残っていた。私は残りを匙ですくって口に入れた。冷たい。チーズの膜がゴムのように歯にまとわりついた。ソースは粉っぽく、重い。
舌を焼いたあのグラタンと、同じ料理だとは思えなかった。
「……熱いうちは、あんなにおいしかったのに」
ティモがしょんぼり言った。ガストーネさんは、何も言わずに皿を引き取った。
*
その夜、私は毒見の間でひとり、白雫のページを開いていた。
30分はなくせない。ヘルマン様の言うとおりだ。陛下に「6つまでは確かめました」とは、私だって言いたくない。
毒見役は、「毒なし」と言うのが仕事だ。「たぶん毒なし」ではない。
見習いの頃、アデライデさんに訊いたことを思い出した。
「アデライデさんは、この30分、何をしているんですか」
「何も。上で陛下が召し上がる料理のことを考えてるよ。今日のスープは、お口に合うかねえ、ってね」
あの婆さんも、きっと知っていたのだ。この30分で、料理が冷めていくことを。それでも30分をなくそうとはしなかった。なくせないことも、知っていたのだろう。
だから、せめて、考えていた。
私は白雫のページを閉じた。
30分を短くできないなら。
「……30分、冷まさなければいい」
30分待つことと、30分冷めることは、別のことだ。前世には保温ポットというものがあった。魔法瓶とも言った。二重の壁の間を真空にして、熱を逃がさない。
この世界で、真空は作れない。
でも、この世界には、前世になかったものがある。
*
翌朝、厨房でその話をすると、ルネさんが菓子の型を磨きながら言った。
「保温なら、魔術師に訊いてみたまえ。宮廷魔術師のフロリアン。変わり者だがね。去年、菓子を冷やす術式を頼んだら、氷室ごと凍らせた男だ」
ルネさんは少し遠い目をした。
「あの日のシュークリームは、今でも夢に見る。皮まで凍っていた」
私は少しだけ不安になった。
いや、かなり不安になった。氷室ごと凍らせる人に、熱を閉じこめる相談をする。前世で言えば、冷凍庫の故障を、電子レンジの修理屋に頼むようなものだ。
*
——同じ夜、侍従長の執務室では。
ヘルマンは、分厚い王宮料理規定の原本を開いていた。
第8条。「毒見ののち、30分を待つべし」。
その下に、小さな字で起草の理由が書き添えてあった。100年前の日付と、ひとつの毒の名。
白雫。
当時の毒見役の名前と、その者が倒れた日付が、並んで書かれていた。
ヘルマンは、長いことそのページを見つめていた。
それから、原本を閉じて、懐中時計を開いた。
時計の蓋の裏に、先王から賜ったときの小さな刻印がある。
「時を守る者へ」
ヘルマンは蓋を閉じた。




