第14話 理論上は
宮廷魔術師の塔は、城の北の外れに建っていた。
螺旋階段を87段上がった先に、分厚い樫の扉がある。扉には、羊皮紙が1枚、釘で打ちつけてあった。
【来訪者へ】
ノックは3回
返事がなくても、実験中なので入らないこと
返事があっても、実験中かもしれないので慎重に入ること
扉の取っ手は熱い場合がある
熱くない場合もある
私は、手袋をはめた手で取っ手をつついた。熱くはなかった。冷たかった。霜がついていた。
ルネさんの言っていた氷室の件が、頭をよぎった。
ノックを3回。
「どうぞ! ただし足元の青い線より内側には入らないでください、理論上は安全ですが」
扉を開けると、部屋じゅうが本と瓶と、何に使うのか分からない金属の輪で埋まっていた。床にはチョークで青い線が引いてある。線の内側で、小さな鍋が宙に浮いていた。
その鍋の向こうから、ひょろりと背の高い若い男が顔を出した。灰色のローブの袖が焦げている。眼鏡の片方のレンズにひびが入っていた。
「ああ」
男は、ぱっと顔を明るくした。
「食レポの」
食レポの。
私の職名は、ついに城の北の外れまで正しくない形で届いていた。ティモの広報力は、魔術師の塔の87段を上りきったらしい。
「毒見役の、ミレーユです」
「存じています。フロリアンです。いやあ、光栄だなあ。あなたの判決、給仕たちの噂で毎日聞いているんです。あれは素晴らしい観察記録ですよ。見る、嗅ぐ、含む。手順が一定で、記述に再現性がある」
フロリアンさんは、宙に浮いた鍋を指先で押しやりながら続けた。
「特に『差し戻し』と『執行猶予』の区別が興味深い。毒ではないが、出してはいけない。毒ではないが、欠陥はある。これは術式の失敗にもそのまま当てはまるんです。僕の術式は、だいたい執行猶予なので」
この人、話が長い。
前世の研究所の人たちもこうだった。質問をひとつすると、答えが3つと、関係ない面白い話が5つ返ってくる。
「あの、今日は、ご相談がありまして」
「なんでしょう。理論上は、たいていのことはできますよ」
*
私は30分のことを話した。
30分待つことは変えられない。でも、待っている間に料理を冷まさない方法があれば。前世の魔法瓶のことは、「遠い国の道具」ということにして説明した。二重の壁で熱を閉じこめる器。
フロリアンさんの目が、眼鏡のひびの向こうで輝いた。
「熱を、閉じこめる。逃がさない。加えもしない。面白い。実に面白い」
机の上の紙束をばさばさとどかし、白い紙に円と線を描き始める。
「箱の内側に、熱の出入りを止める術式を刻めばいい。理論上は、入れたときの温度が、そのまま保たれます」
「理論上は」
「理論上は」
フロリアンさんはにっこり笑った。
「3日ください」
*
3日後、厨房の作業台に、銀色の箱が1つ置かれた。
大人が両腕で抱えられるくらいの大きさ。蓋の内側に、細かい文字がびっしり刻まれている。
「試作1号です」
フロリアンさんは胸を張った。
厨房の全員が、遠巻きに箱を眺めていた。マルタさんが、黒板に何か書き始めていた。
【本日の賭け】
保温の箱:成功 5倍
保温の箱:失敗 1.2倍
保温の箱:爆発 3倍
「爆発の選択肢があるのはなぜですか」
「統計よ。あの人が来た日は、だいたい何か起きるの」
ガストーネさんが、焼きたてのグラタンを箱に入れた。ぐつぐつと煮え立つ、白いソースとチーズの膜。この前、私の舌を焼いたのと同じ料理だ。
蓋を閉めた。フロリアンさんが蓋の上の紋様に手をかざすと、刻まれた文字がうっすらと青く光った。
「では、30分」
ティモが砂時計をひっくり返した。
10分経ったあたりで、箱から、ぱちぱちという音がし始めた。
「……フロリアンさん」
「理論上は、問題ありません」
20分経ったあたりで、蓋の隙間から煙が出始めた。
「フロリアンさん」
「理論上は」
25分で、厨房じゅうに焦げた匂いが充満した。
ガストーネさんが黙って箱の蓋を開けた。
中のグラタンは、真っ黒だった。
グラタンだったもの、と言うべきだった。チーズは炭になり、ソースは干上がり、マカロニは器の底で黒い化石になっていた。
私は手袋を外さなかった。外すまでもなかった。
「被告人、元グラタン。判決」
厨房が、息を呑んだ。
「毒なし。ただし、食べ物でもなし」
「これは、失敗よね?」
マルタさんが、黒板の前で腕を組んだ。
「でも、焼くことには成功してるのよ。窯としては大成功。爆発はしてないけど、煙は出た。……判定不能。賭け金は、全額胴元預かり」
「ずるい!」
ティモが叫んだ。マルタさんは、聞こえないふりをして小銭を前掛けにしまった。胴元が一番儲かる。前世の競馬場と同じだ。
「なるほど」
フロリアンさんは、真っ黒な器をしげしげと覗き込んだ。
「熱の出入りを止めたつもりが、熱の出口だけを止めていた。入口が開きっぱなしで、周りの熱を集め続けていたんですね。これは箱ではなく、窯です。理論上は、面白い発見ですよ」
「理論上は、グラタンが1皿死にました」
「尊い犠牲です」
作業台の天板に、黒い焦げ跡が四角く残っていた。
ティモが帳面を開いて、何か書きつけていた。のぞき込むと、こう書いてあった。
厨房の焦げ跡 その2:フロリアンの焦げ跡
「その1は」
「ミレーユさんの焦げ跡です」
12年前、見習い1週間目の私が、フライパンから天井まで火柱を上げて作った跡のことだ。記録に残すのは結構だけれど、並べられると私がフロリアンさんと同じ部類の人間に見えるのでやめてほしい。
*
試作2号は、5日後に届いた。
今度は、入口も出口も止めてあるらしい。ガストーネさんは、グラタンではなくスープで試すことにした。王宮の料理を、これ以上化石にするわけにはいかない。
澄んだ鶏のスープを、器ごと箱に入れた。
30分。
蓋を開けた。
湯気が、ふわりと立った。
「おお」
厨房がどよめいた。
私は手袋を外し、匙を入れた。
熱い。確かに熱い。30分前と同じくらい。
口に含んだ。
「……しょっぱい」
舌が縮こまるほど、しょっぱかった。器をのぞくと、スープが3分の2に減っていた。縁に白い塩の輪ができている。
「見ます。量、減少。器の縁に塩の析出あり。嗅ぎます。鶏、玉ねぎ、ローリエ。ただし全体に匂いが濃縮。含みます。塩気、元の1.5倍。舌の奥で3つ数えます。容疑者、なし。……犯人は、蒸発です」
「蒸発」
「湯気が逃げないで、箱の中でぐるぐる煮詰まってます。判決。——執行猶予」
「熱は保ったのに」
「熱は保ちすぎました。30分、ずっと弱火にかけてたのと同じです」
フロリアンさんは塩の輪を指でなぞった。
「熱を止めると、熱が中で動き続ける。なるほど、器の中に小さな竈を作ってしまったわけだ。熱の流れを止めるのではなく、止めた状態で固定しないと」
私はなんとなく思った。
この人は、失敗しても一度も落ち込まない。失敗を、報告書の材料としか思っていない。
前世の品質保証部にいたら、なかなかいい部員になっただろう。報告書の提出が永遠に遅れそうだけれど。
*
試作3号は、さらに1週間後。
フロリアンさんは、今度は何も言わずに箱を置いた。蓋の内側の文字が、前の2つより倍くらい細かくなっていた。目の下に、くまができていた。
鶏と根菜のスープ。器ごと入れて、蓋を閉める。30分。
厨房の誰もしゃべらなかった。マルタさんも黒板に何も書かなかった。
砂時計の最後の一粒が落ちた。
蓋を開けた。
湯気。量は、減っていない。縁に塩の輪もない。
手袋を外した。匙ですくう。口に入れる。
熱い。
舌が、じんとした。鶏の脂の甘さ。人参のやわらかさ。30分前に大鍋からよそったばかりの、あの味。何も足されず、何も引かれていない。
「……判決」
私はフロリアンさんのほうを向いた。
「無罪。完全無罪と言いたいけど、箱に完全無罪は出せないので、無罪」
厨房が爆発した。
ティモが跳ね、ルネさんのコック帽がまた宙を舞った。ガストーネさんが、大きな手でフロリアンさんの背中を叩いた。フロリアンさんは作業台に倒れかかった。
「理論上は」
フロリアンさんは、ずれた眼鏡を直しながら言った。
「……理論上どおりです。はじめてかもしれない」
*
翌朝、私は銀の箱を抱えて侍従長の執務室へ行った。
ヘルマン様は箱の説明を最後まで聞き、蓋の内側の術式を眺め、懐中時計を1回開けて閉めた。
「王宮料理規定、第9条」
来た。
「毒見を終えた料理に、何事も加えてはならない。何事も、だ」
「熱を加えてはいません。逃がさないだけです」
「術式を加えている」
「料理にじゃありません。箱にです」
「その箱に入った料理が、術式の中にある。毒見のあとに料理の状態を変えうるものは、すべて第9条の対象だ。この箱が、術式の失敗で料理を焦がしたと聞いた」
聞いていたのか。ティモの広報網は、どこまで伸びているのだろう。
「それは1号です。3号は」
「3号が100回成功しても、101回目に料理を変えない保証はどこにある」
私は言葉に詰まった。
正論だった。前世の品質保証部で、私自身が何度も言った台詞だった。100回の成功は、101回目の保証にならない。
この石頭。……いや、今日のこの人は、私の口癖をそのまま言っているだけだ。石頭と前世の私の区別がつかなくなってきた。
「却下だ」
ヘルマン様は書類に目を落とした。
「術式の中身が、毒見役の舌で確かめられるものなら、話は別だがな」
*
却下された箱は、厨房に下ろされた。
その日の夜、賄いのシチューが銀の箱に入れられた。料理人たちの夕食は、仕事が全部終わってからになる。いつもは冷めたシチューを、みんなで黙ってかきこんでいた。
蓋を開けると、湯気が立った。
「……温かい」
マルタさんがぽつりと言った。
「賄いが温かいの、何年ぶりかしら」
陛下のための箱が、まず料理人たちの賄いを温めた。それはそれで、悪くない使い道だと思った。
フロリアンさんも、なぜか一緒に賄いを食べていた。3杯目をよそいながら、何気ない調子で言った。
「そうそう。箱の術式を考えているうちに、面白いことを思いつきましてね」
「なんですか」
「熱の流れを読む術式を応用すると、料理に混ざった異物の流れも読めるかもしれない。つまり、毒の反応です。理論上は、ですが。解毒の術式なら、図鑑に載っている毒の分は昔からあるんです。でも、毒があるかどうかを読む術式は、まだどこにもない」
匙が、止まった。
「……それって」
「まだ理論上の話ですよ。形にするには何年かかるか」
フロリアンさんは、シチューを口に運んで、幸せそうに目を細めた。
私は自分の匙を見下ろした。
毒を、術式で読む。
それはつまり、舌の要らない毒見、ということではないのか。
厨房の奥で、ガストーネさんが食堂の方角を見上げていた。
「……もうすぐ、食堂の暖炉に火が入るな」
独り言だった。誰に向けたものでもない。
でも、私の頭の中で、何かがかちりと鳴った。
暖炉。先王陛下が、スープの大鍋をかけ直していた暖炉。
*
——同じ夜、魔術師の塔では。
フロリアンは、机の上に新しい紙を広げていた。
紙のいちばん上に、こう書いた。
『毒物反応の術式について(理論上)』
その下に、小さく書き足した。
『毒見役どのの判決を参考にすること。見る、嗅ぐ、含む』
ペンを置いて、フロリアンはひとつあくびをした。
「……食レポが聞けなくなるのは、困るなあ」
自分が何を言ったのか、彼はまだ気づいていなかった。




