第15話 同じ卓で
王宮料理規定を、最初から最後まで読み直した。
全部で63条。12年間、毎日のように引いてきた規定集だ。どの条文がどのページにあるか、目を閉じていても分かる。それでも、一文字ずつ読み直した。
前世の品質保証部で、監査の前夜によくやった。規格書を頭から読む。自分に都合のいい解釈をしていないか、確かめるために。
都合のいい穴を探すためではない。
……半分くらいは、探すためだった。
夜中の2時に、私は3つの条文に印をつけた。
【王宮料理規定 抜粋】
第8条 毒見ののち、30分を待つべし
第9条 毒見を終えた料理に、何事も加えてはならない
第21条 料理人でない者が、陛下の料理を火にかけてはならない
第21条は、先王陛下が亡くなられたあとにできた条文だ。暖炉で料理を温め直すことを禁じた、あの条文。
でも、よく読むと、禁じられているのは「料理人でない者」だけだった。
*
「つまり」
侍従長の執務室で、ヘルマン様は私の紙を指先でつまみ上げた。この光景を見るのは、今月3回目だった。
「料理長が、食堂の暖炉で鍋を火にかける。第21条には反しない。料理人だからな」
「はい」
「だが、第9条がある。毒見を終えた料理に、何事も加えてはならない。火も、加えるものだ」
「ですから」
私は2枚目の紙を出した。
「毒見を、終えなければいいんです」
ヘルマン様の眉間のしわが、1本から2本になった。
「毒見役が、鍋ごと食堂に上がります。暖炉の前で、最初の毒見をします。そこから30分、鍋は料理長の火の上にあります。30分が経ったら、陛下の器によそう直前に、もう一度毒見をします。3分で。6つの毒の兆候を、全部」
「白雫は」
「白雫は、最初の毒見から30分を数えます。最初の毒見のあとで白雫を入れる者がいないことは——」
「誰が保証する」
「食堂にいる全員が」
私はヘルマン様の目を見た。
「鍋は30分間、ずっと皆の目の前にあります。給仕頭も、料理長も、私も、陛下も。そして」
一拍置いた。
「侍従長も」
執務室が、静かになった。
懐中時計のかちかちという音だけが聞こえていた。
「毒見は、陛下の器に料理がよそわれた瞬間に終わります。だから、第9条の『毒見を終えた料理』には、何も加えていません」
ヘルマン様は長いこと紙を見ていた。
「……屁理屈だ」
「屁理屈です」
「認めるのか」
「前世……前の職場で教わりました。規則を守るための屁理屈は、規則を破るための屁理屈とは違う、と」
嘘ではない。前世の課長の口癖だった。ただし課長の場合、主に経費精算で使っていた。
ヘルマン様は紙を机に置いた。
「30分」
懐中時計を開いた。
「私が、見ている。その条件なら、試してみることは許す」
*
厨房に話が伝わると、真っ先に騒ぎになったのは料理そのものではなかった。
「料理長が、陛下の前に出るのよ」
マルタさんが深刻な顔で言った。
「食堂で。暖炉の前で。陛下のお目の前で、30分」
厨房じゅうの視線が、ガストーネさんに集まった。
12年間、ガストーネさんが食堂に上がったことは一度もない。料理人は地下にいるものだ。
ガストーネさんの前掛けには、今朝の玉ねぎと、昨日のソースと、たぶん先週の何かがついていた。灰色の口ひげは伸び放題で、顎には3日分の無精髭が散っていた。髪は、寝癖と湯気で天を向いていた。
「……ん」
これまでの11種類のどれにも当てはまらない、自信のない「ん」だった。12種類目。追い詰められたときの「ん」だ。
そこから、厨房総出の身支度が始まった。
マルタさんが新しい前掛けを縫った。ティモが髭剃りの湯を沸かした。ルネさんは、菓子の型を磨く布で料理長の靴を磨き、ついでに口ひげの先を整える係に立候補した。曲線は、私の専門だ、と言って。私は、髪を梳かす係になった。
「痛い」
「動かないでください。この寝癖、12年ものですよ」
「12年も寝癖はつかない」
「つきます。12年分の湯気がここに固まってます。是正処置が必要です」
梳かしても梳かしても、頭のてっぺんの一房が戻ってくる。3回目で諦めて、ルネさんのコック帽用の油で押さえつけた。
鏡の前に立ったガストーネさんは、別人だった。
無精髭の消えた顎は、思ったより若かった。口ひげは、ルネさんの手で、ほんの少しだけ上向きに跳ねていた。白い前掛けは、ぴんと張っていた。頭のてっぺんの一房だけが、まだ少しだけ抵抗していた。
「……料理長、男前じゃないの」
マルタさんが言うと、ガストーネさんは耳まで赤くなった。
「ん」
13種類目。照れたときの「ん」。今日だけで2種類増えた。
*
その日の夕方。
昇降機で上がってきた大鍋を、ガストーネさんが食堂の暖炉にかけた。
5年間、火の入らなかった暖炉だった。給仕頭が朝から薪を運び、煤を払っていた。火は、ぱちぱちと小気味よく燃えていた。
鍋の中身は、ポトフだった。
大ぶりに切った牛のすね肉。丸ごとの玉ねぎ。太い人参。じゃがいも。キャベツが4つ割りで。腸詰め。全部が、澄んだ金色のスープの中で、ことことと揺れている。
前世で言えば、おでんの洋風版。冬の夜の、鍋の真ん中にどんと置くやつだ。
長いテーブルの一番奥に、ユリウス様が座っていた。
その斜め後ろにヘルマン様。暖炉の脇に、ガストーネさんと私。扉の脇に給仕頭と、見慣れない若い給仕がひとり。
「毒見役。はじめよ」
ユリウス様の声で、手袋を外した。
「被告人、ポトフ。罪状、毒物混入の疑い」
お玉で、鍋の中身を小皿に取る。
「見ます。スープ、澄んだ金色。濁りなし。脂は表面に薄く。具材、変色なし。嗅ぎます。牛、玉ねぎ、ローリエ、丁子、黒胡椒。夜霧茸の土臭さ、なし。含みます」
スープをひと口。
熱い。牛の骨と肉から出た深い旨み。野菜の甘み。丁子の、ほのかな甘い香り。
すね肉を口に入れた。繊維がほろりとほどけた。ゼラチン質がとろりと舌に絡む。噛むほどに、スープを吸い込んだ肉汁がにじみ出た。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。容疑者、なし。——第一審、無罪。これより30分、経過観察に入ります」
ヘルマン様が懐中時計を開いた。
*
30分は、長い。
毒見の間でひとりのときは、脈を測って、記録を書いて、それで過ぎていた。
でも、今日は食堂だ。陛下の前だ。何をしていればいいのか分からない。
ガストーネさんは、暖炉の前で薪の位置を黙々と直していた。鍋が煮立たないように、でも冷めないように。その背中を見ていたユリウス様が、ぽつりと言った。
「料理長」
ガストーネさんの肩が、跳ねた。
「……は」
「その鍋は、いつも地下で作っているのか」
「は」
「毎日、地下で、火の前にいるのか」
「は」
ガストーネさんが陛下にお答えするのを、私ははじめて聞いた。「ん」ではなかった。「は」だった。ほとんど同じだった。
「毒見役」
「はい」
「ぷるぷるの次は、何を作る」
私は少し考えた。
「頭の中の再現表には、まだたくさん残っています。たこ焼き、お好み焼き、唐揚げ、餃子。どれも、ほとんど作り方を覚えていませんが」
「たこ焼き、とは何だ」
「小さな丸い粉の玉に、蛸という海の生き物が入っています」
「蛸とは何だ」
「足が8本あります」
「……足が8本ある生き物を、丸めて焼くのか」
「丸めてから焼くのではなく、焼きながら丸めます」
ユリウス様が、真剣な顔で考え込んだ。ヘルマン様の眉間のしわが2本になった。規定第3条の食材一覧に、蛸はない。
そのときだった。
暖炉の火が、ぱちんと大きく爆ぜた。
ヘルマン様が、懐中時計から顔を上げて、暖炉を見た。
「……先王陛下は」
全員が、ヘルマン様を見た。ヘルマン様自身が、自分の口から出た言葉に驚いたような顔をしていた。
「この暖炉で、スープを3回焦がされた」
「3回」
「1回目は狩りの話に夢中になって。2回目は、陛下が……当時のユリウス殿下が、膝の上で眠ってしまわれて、動けなくなって。3回目は」
ヘルマン様は少しだけ言葉を切った。
「3回目は、私が止めなかったからです。焦げたスープもうまいと、先王陛下がおっしゃったので」
ユリウス様がヘルマン様を見上げていた。
「……ヘルマン。お前も、あの暖炉の前にいたのか」
「毎回、おりました」
「私は、覚えていない」
「殿下は、まだ7歳でいらっしゃいましたので」
ヘルマン様は懐中時計に目を落とした。
「……27分です」
*
30分が経った。
私は鍋からもう一度小皿に取った。
「第二審。見ます、嗅ぎます、含みます」
熱い。30分前と同じ、いや、30分前よりも野菜の甘みがスープに溶け出していた。キャベツがくたりとして、芯までとろけている。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決」
食堂の全員が、私を見ていた。
「——完全無罪。本日も、毒なし」
ガストーネさんが、器にポトフをよそった。人参を多めに。給仕頭がそれをユリウス様の前に置いた。
湯気が、はっきりと立っていた。
目を凝らさなくても見える、太い湯気。
ユリウス様は匙を取って、人参を口に入れた。
熱かったのだろう。はふ、と小さく息を吐いた。
それから、すね肉。じゃがいも。スープ。黙って、ひと匙ずつ。
器が空になった。ユリウス様は、ゆっくりと匙を置いた。
「毒見役」
「はい」
「明日からも、ここで毒見をせよ」
ヘルマン様が、懐中時計を閉じた。何も言わなかった。
「それから」
ユリウス様は空の器を見下ろした。
「30分、私も、ここで待つ」
「陛下が、お待ちになる必要は」
「ある」
ユリウス様ははっきりと言った。
「ひとりで食べるのは、嫌だ」
食堂の中で、暖炉の火だけが音を立てていた。
13歳の王様が、はじめて口にした「嫌だ」だった。
*
地下に戻る途中、階段の踊り場で、さっきの若い給仕とすれ違った。
栗色の髪をきれいに撫でつけた、感じのいい青年だった。私に気づくと、にこやかに頭を下げた。
「毒見役様。今日から陛下の給仕を務めます、クラウスと申します。以後お見知りおきを」
「毒見役のミレーユです。様は要りません」
「では、ミレーユさん。先ほどの判決、見事でした。第一審、第二審。まるで本物の裁判のようですね」
「本物の裁判は見たことがないので、だいたい想像です」
クラウスさんは、声を立てて笑った。歯が白い。姿勢がいい。言葉遣いが丁寧。
ティモが、あとで教えてくれた。クラウスさんは、評議会のさる方の推薦で、城に上がったばかりなのだそうだ。
「いい人ですよね、クラウスさん。ぼくにまで丁寧に挨拶してくれました」
「うん。いい人すぎて、逆に怪しい」
「ミレーユさん、それ、誰にでも言いますよね」
「言うわね。前世……前の職場の教えよ。書類がきれいすぎる取引先は、一度疑え」
「前の職場って、どんなところだったんですか」
「毒のない食べ物を、毎日疑うところ」
ティモは首をかしげ、帳面に書きつけた。
ミレーユさんの名言:いい人すぎて、逆に怪しい
あとから思えば、この日の私の軽口は、12年でいちばん正しい判決だった。
*
——同じ夜、3階の食堂では。
暖炉の火は、まだ熾火になって残っていた。
ヘルマンはひとり、その前に立っていた。
懐中時計を開く。夜の9時。
閉じる。
熾火の上に、手をかざした。温かかった。
「……先王陛下」
ヘルマンは小さく言った。
「本日、殿下が、おかわりをなさいませんでした」
少しだけ間があった。
「代わりに、ひとりは嫌だと、仰せになりました」
熾火が、かすかに赤く息をした。




