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毒見役に転生した私、12年間一度も毒に当たらないので、ただの食レポ係だと思われています  作者: 中原九尾
第一部 本日も、毒なし

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15/18

第15話 同じ卓で

 王宮料理規定を、最初から最後まで読み直した。


 全部で63条。12年間、毎日のように引いてきた規定集だ。どの条文がどのページにあるか、目を閉じていても分かる。それでも、一文字ずつ読み直した。


 前世の品質保証部で、監査の前夜によくやった。規格書を頭から読む。自分に都合のいい解釈をしていないか、確かめるために。


 都合のいい穴を探すためではない。


 ……半分くらいは、探すためだった。


 夜中の2時に、私は3つの条文に印をつけた。


 【王宮料理規定 抜粋】

  第8条 毒見ののち、30分を待つべし

  第9条 毒見を終えた料理に、何事も加えてはならない

  第21条 料理人でない者が、陛下の料理を火にかけてはならない


 第21条は、先王陛下が亡くなられたあとにできた条文だ。暖炉で料理を温め直すことを禁じた、あの条文。


 でも、よく読むと、禁じられているのは「料理人でない者」だけだった。


   *


「つまり」


 侍従長の執務室で、ヘルマン様は私の紙を指先でつまみ上げた。この光景を見るのは、今月3回目だった。


「料理長が、食堂の暖炉で鍋を火にかける。第21条には反しない。料理人だからな」


「はい」


「だが、第9条がある。毒見を終えた料理に、何事も加えてはならない。火も、加えるものだ」


「ですから」


 私は2枚目の紙を出した。


「毒見を、終えなければいいんです」


 ヘルマン様の眉間のしわが、1本から2本になった。


「毒見役が、鍋ごと食堂に上がります。暖炉の前で、最初の毒見をします。そこから30分、鍋は料理長の火の上にあります。30分が経ったら、陛下の器によそう直前に、もう一度毒見をします。3分で。6つの毒の兆候を、全部」


「白雫は」


「白雫は、最初の毒見から30分を数えます。最初の毒見のあとで白雫を入れる者がいないことは——」


「誰が保証する」


「食堂にいる全員が」


 私はヘルマン様の目を見た。


「鍋は30分間、ずっと皆の目の前にあります。給仕頭も、料理長も、私も、陛下も。そして」


 一拍置いた。


「侍従長も」


 執務室が、静かになった。


 懐中時計のかちかちという音だけが聞こえていた。


「毒見は、陛下の器に料理がよそわれた瞬間に終わります。だから、第9条の『毒見を終えた料理』には、何も加えていません」


 ヘルマン様は長いこと紙を見ていた。


「……屁理屈だ」


「屁理屈です」


「認めるのか」


「前世……前の職場で教わりました。規則を守るための屁理屈は、規則を破るための屁理屈とは違う、と」


 嘘ではない。前世の課長の口癖だった。ただし課長の場合、主に経費精算で使っていた。


 ヘルマン様は紙を机に置いた。


「30分」


 懐中時計を開いた。


「私が、見ている。その条件なら、試してみることは許す」


   *


 厨房に話が伝わると、真っ先に騒ぎになったのは料理そのものではなかった。


「料理長が、陛下の前に出るのよ」


 マルタさんが深刻な顔で言った。


「食堂で。暖炉の前で。陛下のお目の前で、30分」


 厨房じゅうの視線が、ガストーネさんに集まった。


 12年間、ガストーネさんが食堂に上がったことは一度もない。料理人は地下にいるものだ。


 ガストーネさんの前掛けには、今朝の玉ねぎと、昨日のソースと、たぶん先週の何かがついていた。灰色の口ひげは伸び放題で、顎には3日分の無精髭が散っていた。髪は、寝癖と湯気で天を向いていた。


「……ん」


 これまでの11種類のどれにも当てはまらない、自信のない「ん」だった。12種類目。追い詰められたときの「ん」だ。


 そこから、厨房総出の身支度が始まった。


 マルタさんが新しい前掛けを縫った。ティモが髭剃りの湯を沸かした。ルネさんは、菓子の型を磨く布で料理長の靴を磨き、ついでに口ひげの先を整える係に立候補した。曲線は、私の専門だ、と言って。私は、髪を梳かす係になった。


「痛い」


「動かないでください。この寝癖、12年ものですよ」


「12年も寝癖はつかない」


「つきます。12年分の湯気がここに固まってます。是正処置が必要です」


 梳かしても梳かしても、頭のてっぺんの一房が戻ってくる。3回目で諦めて、ルネさんのコック帽用の油で押さえつけた。


 鏡の前に立ったガストーネさんは、別人だった。


 無精髭の消えた顎は、思ったより若かった。口ひげは、ルネさんの手で、ほんの少しだけ上向きに跳ねていた。白い前掛けは、ぴんと張っていた。頭のてっぺんの一房だけが、まだ少しだけ抵抗していた。


「……料理長、男前じゃないの」


 マルタさんが言うと、ガストーネさんは耳まで赤くなった。


「ん」


 13種類目。照れたときの「ん」。今日だけで2種類増えた。


   *


 その日の夕方。


 昇降機で上がってきた大鍋を、ガストーネさんが食堂の暖炉にかけた。


 5年間、火の入らなかった暖炉だった。給仕頭が朝から薪を運び、煤を払っていた。火は、ぱちぱちと小気味よく燃えていた。


 鍋の中身は、ポトフだった。


 大ぶりに切った牛のすね肉。丸ごとの玉ねぎ。太い人参。じゃがいも。キャベツが4つ割りで。腸詰め。全部が、澄んだ金色のスープの中で、ことことと揺れている。


 前世で言えば、おでんの洋風版。冬の夜の、鍋の真ん中にどんと置くやつだ。


 長いテーブルの一番奥に、ユリウス様が座っていた。


 その斜め後ろにヘルマン様。暖炉の脇に、ガストーネさんと私。扉の脇に給仕頭と、見慣れない若い給仕がひとり。


「毒見役。はじめよ」


 ユリウス様の声で、手袋を外した。


「被告人、ポトフ。罪状、毒物混入の疑い」


 お玉で、鍋の中身を小皿に取る。


「見ます。スープ、澄んだ金色。濁りなし。脂は表面に薄く。具材、変色なし。嗅ぎます。牛、玉ねぎ、ローリエ、丁子、黒胡椒。夜霧茸の土臭さ、なし。含みます」


 スープをひと口。


 熱い。牛の骨と肉から出た深い旨み。野菜の甘み。丁子の、ほのかな甘い香り。


 すね肉を口に入れた。繊維がほろりとほどけた。ゼラチン質がとろりと舌に絡む。噛むほどに、スープを吸い込んだ肉汁がにじみ出た。


「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。容疑者、なし。——第一審、無罪。これより30分、経過観察に入ります」


 ヘルマン様が懐中時計を開いた。


   *


 30分は、長い。


 毒見の間でひとりのときは、脈を測って、記録を書いて、それで過ぎていた。


 でも、今日は食堂だ。陛下の前だ。何をしていればいいのか分からない。


 ガストーネさんは、暖炉の前で薪の位置を黙々と直していた。鍋が煮立たないように、でも冷めないように。その背中を見ていたユリウス様が、ぽつりと言った。


「料理長」


 ガストーネさんの肩が、跳ねた。


「……は」


「その鍋は、いつも地下で作っているのか」


「は」


「毎日、地下で、火の前にいるのか」


「は」


 ガストーネさんが陛下にお答えするのを、私ははじめて聞いた。「ん」ではなかった。「は」だった。ほとんど同じだった。


「毒見役」


「はい」


「ぷるぷるの次は、何を作る」


 私は少し考えた。


「頭の中の再現表には、まだたくさん残っています。たこ焼き、お好み焼き、唐揚げ、餃子。どれも、ほとんど作り方を覚えていませんが」


「たこ焼き、とは何だ」


「小さな丸い粉の玉に、蛸という海の生き物が入っています」


「蛸とは何だ」


「足が8本あります」


「……足が8本ある生き物を、丸めて焼くのか」


「丸めてから焼くのではなく、焼きながら丸めます」


 ユリウス様が、真剣な顔で考え込んだ。ヘルマン様の眉間のしわが2本になった。規定第3条の食材一覧に、蛸はない。


 そのときだった。


 暖炉の火が、ぱちんと大きく爆ぜた。


 ヘルマン様が、懐中時計から顔を上げて、暖炉を見た。


「……先王陛下は」


 全員が、ヘルマン様を見た。ヘルマン様自身が、自分の口から出た言葉に驚いたような顔をしていた。


「この暖炉で、スープを3回焦がされた」


「3回」


「1回目は狩りの話に夢中になって。2回目は、陛下が……当時のユリウス殿下が、膝の上で眠ってしまわれて、動けなくなって。3回目は」


 ヘルマン様は少しだけ言葉を切った。


「3回目は、私が止めなかったからです。焦げたスープもうまいと、先王陛下がおっしゃったので」


 ユリウス様がヘルマン様を見上げていた。


「……ヘルマン。お前も、あの暖炉の前にいたのか」


「毎回、おりました」


「私は、覚えていない」


「殿下は、まだ7歳でいらっしゃいましたので」


 ヘルマン様は懐中時計に目を落とした。


「……27分です」


   *


 30分が経った。


 私は鍋からもう一度小皿に取った。


「第二審。見ます、嗅ぎます、含みます」


 熱い。30分前と同じ、いや、30分前よりも野菜の甘みがスープに溶け出していた。キャベツがくたりとして、芯までとろけている。


「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決」


 食堂の全員が、私を見ていた。


「——完全無罪。本日も、毒なし」


 ガストーネさんが、器にポトフをよそった。人参を多めに。給仕頭がそれをユリウス様の前に置いた。


 湯気が、はっきりと立っていた。


 目を凝らさなくても見える、太い湯気。


 ユリウス様は匙を取って、人参を口に入れた。


 熱かったのだろう。はふ、と小さく息を吐いた。


 それから、すね肉。じゃがいも。スープ。黙って、ひと匙ずつ。


 器が空になった。ユリウス様は、ゆっくりと匙を置いた。


「毒見役」


「はい」


「明日からも、ここで毒見をせよ」


 ヘルマン様が、懐中時計を閉じた。何も言わなかった。


「それから」


 ユリウス様は空の器を見下ろした。


「30分、私も、ここで待つ」


「陛下が、お待ちになる必要は」


「ある」


 ユリウス様ははっきりと言った。


「ひとりで食べるのは、嫌だ」


 食堂の中で、暖炉の火だけが音を立てていた。


 13歳の王様が、はじめて口にした「嫌だ」だった。


   *


 地下に戻る途中、階段の踊り場で、さっきの若い給仕とすれ違った。


 栗色の髪をきれいに撫でつけた、感じのいい青年だった。私に気づくと、にこやかに頭を下げた。


「毒見役様。今日から陛下の給仕を務めます、クラウスと申します。以後お見知りおきを」


「毒見役のミレーユです。様は要りません」


「では、ミレーユさん。先ほどの判決、見事でした。第一審、第二審。まるで本物の裁判のようですね」


「本物の裁判は見たことがないので、だいたい想像です」


 クラウスさんは、声を立てて笑った。歯が白い。姿勢がいい。言葉遣いが丁寧。


 ティモが、あとで教えてくれた。クラウスさんは、評議会のさる方の推薦で、城に上がったばかりなのだそうだ。


「いい人ですよね、クラウスさん。ぼくにまで丁寧に挨拶してくれました」


「うん。いい人すぎて、逆に怪しい」


「ミレーユさん、それ、誰にでも言いますよね」


「言うわね。前世……前の職場の教えよ。書類がきれいすぎる取引先は、一度疑え」


「前の職場って、どんなところだったんですか」


「毒のない食べ物を、毎日疑うところ」


 ティモは首をかしげ、帳面に書きつけた。


  ミレーユさんの名言:いい人すぎて、逆に怪しい


 あとから思えば、この日の私の軽口は、12年でいちばん正しい判決だった。


   *


 ——同じ夜、3階の食堂では。


 暖炉の火は、まだ熾火になって残っていた。


 ヘルマンはひとり、その前に立っていた。


 懐中時計を開く。夜の9時。


 閉じる。


 熾火の上に、手をかざした。温かかった。


「……先王陛下」


 ヘルマンは小さく言った。


「本日、殿下が、おかわりをなさいませんでした」


 少しだけ間があった。


「代わりに、ひとりは嫌だと、仰せになりました」


 熾火が、かすかに赤く息をした。

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