第16話 はじめての、いただきます
食堂での毒見が始まって、2週間が経った。
毎日3回、鍋が昇降機で上がってくる。ガストーネさんが暖炉の前に立つ。私が第一審をする。30分。第二審。判決。ユリウス様が召し上がる。
その30分のあいだ、食堂ではいろいろな話をした。
前世の、とは言えないので「遠い国の」話。たこ焼きの丸め方。回転寿司という、皿が勝手に回ってくる店。自動販売機という、硬貨を入れると温かい飲み物が出てくる箱。
「箱の中に、人が入っているのか」
「入っていません」
「では誰が温めている」
「……箱が、自分で」
「フロリアンの箱のようなものか」
「あれよりは、焦げません」
ヘルマン様は、そのあいだずっと懐中時計を見ていた。ときどき、先王陛下の話をぽつりとした。
ガストーネさんは、ずっと「は」だった。ただ、2週目に入ってから、ユリウス様に「今日の肉は何だ」と訊かれて、「鹿です。北の森の」と、7文字もしゃべった。厨房に戻ってから、マルタさんが黒板に「料理長、7文字」と書いて、額に入れて飾った。
ユリウス様は毎日、器を空にした。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
*
「毒見役」
2週目の終わりの夜、30分の途中で、ユリウス様が言った。
「お前は、食べないのか」
「毒見で食べております」
「あれは、ひと口だ」
「ひと口で十分です。毒見ですので」
「私が食べているあいだ、お前は立って見ている」
「給仕頭も、侍従長も、料理長も立っております」
「そうだ」
ユリウス様は、長いテーブルを見渡した。24脚の椅子。座っているのは、一番奥の1脚だけだった。
「……皆、立っている」
私は何と答えていいか分からなかった。
ひとりで食べるのは嫌だ、と陛下は言った。だから30分、皆がここにいる。でも、陛下が食べるときには、やっぱりひとりだ。周りに人が立っているだけの、ひとり。
前世の、深夜の品質保証部を思い出した。
窓の外が真っ暗で、フロアの照明が半分落ちていて、私の机の蛍光灯だけがついていた。警備員さんが1時間に1回、懐中電灯を持って通り過ぎていった。人はいた。でも、ひとりだった。
「毒見役は、陛下と同じ卓に着いてはならない」
ヘルマン様が、懐中時計から目を上げずに言った。
「規定には、ございませんが」
「慣例だ」
「規定にないことは、慣例でも——」
「毒見役」
ヘルマン様の眉間のしわが、2本になった。
「前の職場とやらでは、どうだったか知らんが、王宮には、規定の前に礼というものがある」
この、融通の利かない時計じじ——
「……時計じじ……ジンジャーブレッド、食べたくなりますね。冬ですし」
食堂が、静まり返った。
ユリウス様が、口を押さえた。肩が震えていた。
ヘルマン様は懐中時計を開いて、閉じた。
「ジンジャーブレッドは、王宮料理規定第3条の食材一覧に載っている。生姜、小麦、糖蜜。すべて認められている」
「……はい」
「作りたければ、菓子職人に申しつけよ」
この人は、どこまで本気でどこから皮肉なのだろう。12年経ってもまだ分からない。
「……毒見役」
ユリウス様が、口元を押さえたまま言った。声がまだ震えていた。
「明日の夕食は、何だ」
「クリームシチューを、料理長にお願いしてあります」
言ってから、私は少しだけ黙った。
クリームシチュー。
前世の私が、最後に食べたもの。
*
正確には、食べていない。
品質保証部の検査室で、新商品のレトルトのクリームシチューを官能検査していた。夜の11時を回っていた。電子レンジで温めて、ひと口含んで、評価表に書こうとして。
そこで、記憶は終わっている。
評価表には何を書くつもりだったのか、もう覚えていない。「塩味やや強め」だったか、「じゃがいもの食感、規格内」だったか。いずれにしても、あのシチューを「おいしい」と思って食べたわけではなかった。
ひとりで、蛍光灯の下で、評価表を片手に。
あれが、前世の最後の食事だった。
*
翌日の夕方、厨房でガストーネさんの鍋を見て、私はしばらく動けなかった。
白い。
とろりと白いスープの中に、鶏のもも肉、じゃがいも、人参、玉ねぎ、それから、ブロッコリーに似た緑の野菜。表面に、バターの黄色がかすかに浮いている。
前世のクリームシチューだった。レトルトの袋の写真と、同じ顔をしていた。
「作り方、言わなかったのに」
「グラタンの白いソースを、スープで伸ばした」
ガストーネさんは、木べらで鍋の底をひと混ぜした。
「……お前の顔が、そう言っていた」
どういう意味か訊く前に、昇降機の籠に鍋が載せられた。
*
暖炉の火が、ぱちぱちと鳴っていた。
「被告人、クリームシチュー。罪状、毒物混入の疑い」
手袋を外す。お玉で小皿に取る。
「見ます。乳白色、均一。分離なし、だまなし。具材、変色なし。嗅ぎます。牛乳、バター、小麦粉、鶏、玉ねぎ、ローリエ、白胡椒。三日月草の甘ったるい花の匂い、なし。含みます」
口に入れた。
熱い。
とろりとしたソースが舌を包んだ。牛乳の甘さ。バターのこく。小麦粉を炒めた香ばしさが、奥のほうで静かに支えている。鶏肉を噛むと、皮の脂がじゅわっとにじんだ。じゃがいもは、角が少しだけ崩れて、ソースに溶けかけている。
レトルトのシチューとは、違った。
あれは、塩と化学調味料と、とろみをつける澱粉の味だった。これは、牛乳とバターと、鶏と野菜が何時間もかけて出した味だ。
でも、どこか、同じだった。
白くて、温かくて、とろりとしていて。冬の夜に、誰かが「今日はシチューだよ」と言う、あの匂い。
「……舌の奥で、3つ数えます」
声が、少しかすれた。
「1、2、3。容疑者、なし。第一審、無罪。これより、経過観察」
ヘルマン様が懐中時計を開いた。
*
その30分、私はほとんど話さなかった。
ユリウス様も何も訊かなかった。
ガストーネさんが、薪を1本足した。ぱちり、と火が鳴った。
「……毒見役」
27分を過ぎたころ、ユリウス様が言った。
「今日は、何を考えている」
陛下には、嘘をつかない。
「昔、遠い国で、ひとりでシチューを食べたことを考えていました。冷めかけのを、夜遅くに。仕事をしながら」
「うまかったか」
「……分かりません。味を確かめるので精一杯で」
ユリウス様はしばらく黙っていた。
「毒見役と、同じだな」
私ははっとして顔を上げた。
「お前は毎日、味を確かめている。だが、食べてはいない」
30分が、経った。
第二審。見る、嗅ぐ、含む。とろりとした熱いソース。3つ数える。
「判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
ガストーネさんが、器にシチューをよそった。給仕頭が、ユリウス様の前に置いた。
そして、ガストーネさんは、もうひとつ器を出した。
同じシチューを、同じだけよそって、ユリウス様の右手の、角を挟んだ席の前に置いた。
「料理長、それは」
ヘルマン様が懐中時計を握った。
ユリウス様が口を開いた。
「ヘルマン」
「……は」
「毒見役が、毒見の続きをするのは、規定に反するか」
ヘルマン様は、目を閉じた。また、頭の中で規定集をめくっている。第1条から第63条まで。
目を開けた。
「……反しません。毒見の延長と、記録いたします」
ヘルマン様は手帳を出して、何かを書きつけた。
「毒見役。座れ。延長だ」
*
24脚の椅子の、2脚目に座った。
テーブルの角を挟んで、すぐ隣にユリウス様がいた。同じ器。同じシチュー。同じ湯気。
ユリウス様は、匙を取らなかった。私を見ていた。
「遠い国では、食べる前に何か言うのか」
「……はい」
「何と言う」
12年間、一度も言わなかった言葉だった。
毒見役は、食べるのではなく確かめる者だ。確かめる前に「いただきます」とは言わない。アデライデさんも言わなかった。だから私も言わなかった。
「いただきます、と言います」
「どういう意味だ」
「食べ物の命を、いただきます、という意味だと、子供のころに教わりました。それから、作ってくれた人に、ありがとう、という意味も」
ユリウス様は、器を見下ろした。それから、暖炉の前のガストーネさんを見た。
両手を、テーブルの上で合わせた。私がやるのを見たことはないはずなのに。たぶん、「遠い国」の話のどこかで、私が手を合わせるしぐさをしていたのだろう。
「……いただきます」
私も手を合わせた。
「いただきます」
同時に、匙を取った。同時に、シチューをすくった。同時に、口に入れた。
「あつっ」
「熱い」
同時に、舌を焼いた。
ユリウス様が、口を押さえて目を丸くした。私も、口を押さえていた。
顔を見合わせた。
ユリウス様が笑った。
ハーゲンの実のときの、こらえきれない笑いとは違った。声を出して、肩を揺らして、13歳の子供みたいに笑っていた。いや、13歳の子供なのだ。
私も、笑った。舌がひりひりしていた。涙が出ていた。舌のせいか、そうでないのか、自分でも分からなかった。
ヘルマン様は懐中時計を見ていなかった。
ガストーネさんは、暖炉のほうを向いていた。背中が、少しだけ震えていた。
2口目は、ふうふう吹いてから食べた。
おいしかった。
ただ、おいしかった。評価表も、判決も、3つ数えることもなく。12年と前世の分を足して、ずいぶん久しぶりに、ただおいしかった。
ユリウス様の器が、先に空になった。
「料理長。もう一杯」
それから、私の器を見た。
「……毒見役にも、もう一杯」
「延長の、延長です」
「では、それも記録せよ。ヘルマン」
2杯目を食べ終えて、ユリウス様は匙を置いた。
「遠い国では、食べたあとにも何か言うのか」
「ごちそうさまでした、と言います」
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
*
——同じ夜、侍従長の執務室では。
ヘルマンは手帳を開いていた。
几帳面な細い字で、今日の記録が書いてあった。
【記録】
冬の月、6日 夕食
献立:クリームシチュー
毒見:第一審・第二審とも無罪
毒見(延長):毒見役、陛下と同卓にて摂食
摂食量:陛下2杯、毒見役2杯
備考:2杯目は、陛下が先にご所望
ヘルマンは、最後の一行を長いこと見ていた。
それから、ペンを取って、もう一行だけ書き足した。
備考2:陛下、お笑いになる
書いてから、少し考えて、線を引いて消そうとした。
ペン先が、紙の上で止まった。
ヘルマンはそのまま手帳を閉じた。




