第8話 すすっていいんです
「陛下は、昨夜の匂いの料理をご所望だ」
ヘルマン様は、懐中時計を閉じながら言った。
「だが、薬草の入った料理はお出しできない。規定の範囲の食材で、同じように陛下のご興味を引く料理はないのか」
ヘルマン様の眉間のしわは、いつもの1本だった。怒りのしわではない。困りのしわだ。この人のしわも、12年見ていると3種類くらいは判別できる。
「規定の範囲、というと」
「小麦、肉、野菜、卵、乳、塩、香草、ワイン。胡椒と、交易品の一部」
ヘルマン様は、第3条の一覧を指折りそらんじた。この人の頭の中には、規定集が丸ごと入っている。私の頭の中に毒物図鑑が丸ごと入っているのと同じだ。似た者同士というのは、あまり認めたくない。
「……少し、考えさせてください」
*
ヘルマン様が去ったあと、厨房の作業台を全員で囲んだ。
「匂いが強くて、あったかくて、規定の食材でできるもの」
ティモが、帳面に条件を書き出した。
小麦。肉。野菜。塩。
前世の深夜。ファミレスでもコンビニでもない日に、ときどき寄った店があった。駅の裏の、カウンターだけの小さな店。のれんをくぐると、湯気と豚骨と醤油の匂いがした。
「……ラーメン」
「ラーメン?」
「小麦で作った細長い麺を、熱いスープに入れて食べる料理」
ティモの目が輝き、マルタさんが腕まくりをし、ガストーネさんが大鍋に手を伸ばした。この厨房の反応速度は、前世の工場の生産ラインより速い。
*
ラーメンの再現は、麺から始まった。
「小麦粉と水と塩で練るのよね。パンと同じじゃない」
「麺には、もうひとつ大事なものが要るんです。かん水っていう、アルカリ性の水。……灰の上澄みで代わりになると思います」
前世で中華麺の工場を見学したとき、そう教わった。昔は草木の灰を水に溶かして、その上澄みを使っていたらしい。この国でも灰の上澄みは洗濯に使われていて、毒物図鑑には「濃いものは肌を荒らす。薄めれば害はない」と載っている。
最初の麺は、灰の上澄みを薄めずに使った。
マルタさんが練った生地は、妙につやつやしていた。茹でると、湯がみるみる黄色く濁った。すくい上げた麺は、鮮やかすぎる黄色で、指でつまむとぬるりとした。
私は、手袋を外して端をかじった。
舌が、びりっとした。苦い。石鹸をかじったような、えぐい苦み。
「被告人、黄色い何か。容疑者、洗濯場。判決、差し戻し」
「洗濯場って何よ!」
「洗濯の灰汁の味がします。つまり、洗濯場の味です。……濃すぎました。私の指示ミスです。是正処置として、灰の上澄みは水で10倍に薄めてください」
マルタさんが、じっと私を見た。
「あんた、自分の指示ミスにも判決を出すのね」
「自分に甘い品質保証は、ただの感想文ですから」
ティモが帳面に書きつけた。書かなくていいのに。
2回目。マルタさんが、灰の上澄みを薄めて小麦粉に練り込んだ。生地はパンよりずっと固かった。太い腕で体重をかけて、何度もこねる。麺棒で薄く伸ばし、細く切る。
切った麺は、ほんのりと黄色かった。
「黄色くなったわ!」
「それが正解です」
隣でガストーネさんが、朝から煮込んでいた大鍋のふたを開けた。鶏の骨と豚の骨、玉ねぎ、にんにく、生姜。スープは白く濁り、黄金色の脂の粒が浮いていた。
「醤油は……ないですよね」
「醤油?」
「黒くて、しょっぱくて、豆で作った調味料です」
ガストーネさんは少し考えてから、棚の奥から小さな壺を出した。ふたを開けると、魚の強烈な匂いが立ちのぼった。
「南の港の交易品。魚醤」
小魚を塩漬けにして発酵させた調味料だ。規定の交易品の一覧にも載っている。指先に1滴取ってなめると、しょっぱさの奥に深い旨みがあった。醤油とは違う。でも、舌の上で醤油と同じ場所を叩いてくる。
「……これで、いけます」
*
夕方、作業台の上に深い器が置かれた。
白く濁ったスープに、魚醤の琥珀色がほんのり差している。黄色い麺。ガストーネさんが焼いた豚の肩肉の薄切りが2枚。半分に切ったゆで卵。刻んだ青ねぎ。
湯気が顔にかかった。
——駅の裏の、あの店の匂いだった。
私は、手袋を外した。
「被告人、ラーメン。罪状、毒物混入の疑い」
見る。
「スープの脂の粒、大きさ不均一。骨を長時間煮込んだ証拠。……ガストーネさん、何時から煮てました?」
「朝の5時」
マルタさんが、手にしていたお玉を落とした。
「朝の5時って……あたしがパン窯に火を入れるより早いじゃない」
「ん」
嗅ぐ。
「魚醤の発酵臭。容疑者、腐敗。……ですが、腐敗臭とは方向が違う。発酵は、旨みの方向に振れている」
フォークで麺をすくった。この国に箸はない。
麺を口元に運んで、すすった。
ずずずっ。
厨房中に、大きな音が響いた。
全員が、一斉にこちらを向いた。
麺がスープをまとったまま口に飛び込んでくる。熱い。すすった勢いで、スープの香りが鼻の奥まで一気に抜けていく。豚骨の濃い旨み。魚醤の深い塩気。
麺を噛む。ぷつり、と歯が麺を断ち切った。パンとはまったく違う歯ごたえだ。弾力があって、噛むたびに小麦の甘みがにじむ。
ずずずっ。
もう一度すすった。
「……ミ、ミレーユさん」
厨房の入り口に、給仕頭が立っていた。夕食の打ち合わせに来たらしい。顔が真っ青だった。
「今の、音は」
「すすったんです」
「すする」
「ラーメンは、すすって食べるものなんです」
給仕頭は両手で口を覆った。
「王宮では、食事中に音を立てるのは、最も無作法なこととされておりますが……」
「すすると、麺と一緒に空気を吸い込むから、香りが鼻に抜けるんです。熱いスープも少しだけ冷めて口に入る。だから、すすったほうがおいしい。これは作法ではなく、物理です」
私は、大真面目に言った。
「ラーメンは、すすっていいんです」
厨房が、顔を見合わせた。
最初にティモが、自分の器の麺をおそるおそるすすった。ずずっ。
「……ほんとだ。すすると、おいしい!」
次の瞬間、厨房中でずずずっという音が鳴り響いた。マルタさんが豪快にすすった。ルネさんは「品がない」と言いながら、小さく、しかし確実にすすった。ガストーネさんは、黙ってひときわ大きな音ですすった。
給仕頭は、入り口で両手で耳を塞いでいた。指の隙間から、ちらちらとラーメンの器を見ていた。
私は、器を置いた。
「判決。——完全無罪」
厨房が沸いた。今日の完全無罪は、マルタさんとガストーネさんの共同受賞だ。
*
ラーメンは、規定の範囲の料理だった。小麦、肉、野菜、卵、塩、交易品の魚醤。ヘルマン様は材料の一覧を3回読み返してから、しぶしぶ許可を出した。
「ただし、手順は規定どおりだ。毒見のあと、30分」
私は、何か言おうとした。
麺は、時間が経つとスープを吸ってのびる。30分と12分のあとには、今日厨房で食べたラーメンとは、まったく別の食べ物になってしまう。
この石頭。材料の一覧を3回読み返す暇があったら、麺が30分でどうなるか、1回でいいから想像してほしい。
——と、口から出かかったのを、ぎりぎりで飲み込んだ。今日は、飲み込めた。えらい。自分に完全無罪を出したい。
でも、それを言っても規定は変わらない。この人は、そういう人だ。そして規定があるから、この城は12年間、一度も毒を出していない。それも、分かっている。
「……承知しました」
*
その夜、陛下の夕食にラーメンが加えられた。
毒見の間で、私はいつもどおり確かめた。ぷつりと切れる麺。すすって、香りを確かめて、判決を出した。
「判決。——完全無罪」
そして、30分待った。
30分のあいだ、私はずっと、布をかけられた器の中で麺がスープを吸っていく様子を想像していた。1分ごとに、完全無罪が遠ざかっていく。
*
夜9時過ぎ、給仕頭が空の盆を持って毒見の間に下りてきた。
「……どうでしたか」
訊くのが怖かった。
給仕頭は盆を机に置いた。
ラーメンの器は、空だった。スープが少し残っていたが、麺は1本も残っていなかった。
「全部、召し上がりました」
私は器を見つめた。
「麺は、ずいぶん柔らかくなっていたと思います。スープもほとんど吸ってしまって。……それでも陛下は、最後までフォークを置かれませんでした」
給仕頭は少しだけ笑った。
「5年ぶりです。陛下が、お料理を残さずに召し上がったのは」
それから、声をひそめた。
「それと、陛下から毒見役に、伝言がございます」
「伝言」
「『すする、とは、どうやるのだ』と」
私は目をしばたかせた。
「厨房で音を立てて召し上がっていたと、どなたかが陛下のお耳に入れたようで」
給仕頭は、ちらりと目をそらした。この人だ。
「それから、もうひとつ」
給仕頭は背筋を伸ばして、陛下のお言葉をそのまま伝えた。
「『次は、のびていないものを』」
私は、しばらく何も言えなかった。
のびる、という言葉を、陛下は知らないはずだ。この国に麺料理はない。のびた麺しか食べていない陛下は、のびていない麺を知らない。
給仕頭が、私の説明をそのままお伝えしたのだろう。毒見のときの麺はぷつりと切れる、と。
陛下はそれを聞いて、知りたいと思ったのだ。自分の知らない、「のびていない」味を。
給仕頭が去ったあと、記録帳を開いた。ラーメンの行の横に書き足した。
——毒見時の判決、完全無罪。
——陛下のお口に届いたとき、推定、執行猶予。
——次は、のびていないものを。
私の完全無罪は、陛下に届く前に、執行猶予に変わっている。
42分。
この数字が、ますます憎らしくなった。
*
——同じ頃、3階の寝室では。
給仕頭は、就寝前のハーブティーを下げに入って、足を止めた。
寝台に腰かけた少年が、ハーブティーの杯を両手で持ち、そっと口をつけていた。
ず。
小さな、小さな音がした。
少年は、杯を下ろして首をかしげた。それからもう一度、口をつけた。
ずず。
給仕頭と、目が合った。
少年は、何事もなかったような顔で杯を置いた。
「……下げてよい」
「かしこまりました」
給仕頭は、盆を持って寝室を出た。廊下に出てから、ずいぶん長いこと、肩を震わせていた。




