第7話 黄色くて、辛くて、茶色い
前世の私が、深夜のファミレスで一番よく頼んでいたのは、カレーだった。
会社を出るのが夜10時。コンビニの弁当に飽きた夜は、駅前の24時間営業のファミレスに入る。窓際のカウンター席に座って、メニューを開かずに言う。
「ビーフカレー、ご飯少なめで」
5分で出てくる。辛くて、甘くて、少しだけ苦い。あの味を、私はこれからこの世界の人間に説明しなければならない。
前世の品質保証部で、新商品の味を言葉だけで工場に伝えたことがある。3か月かかった。
*
「黄色くて、辛くて、茶色い」
ティモが、再現表の板の前で腕を組んでいた。
「黄色いのか茶色いのか、どっちなんですか」
「両方」
「両方」
「材料が黄色いの。できあがると茶色いの」
「辛いんですよね」
「辛い。でも甘い」
「……辛くて甘い」
ティモは、木炭を握ったまま途方に暮れた顔をした。
無理もない。この国の料理には、辛いものがほとんどない。胡椒は高価で、ひとつまみずつしか使わない。味つけは塩と香草とバターとワイン。それで十分おいしい国なのだ。
「黄色い材料って、何ですか?」
そこで、私は、はたと気づいた。
この国で、カレーの材料を見たことがある。料理の中ではない。
「……薬草庫」
*
王城の地下2階に、薬草庫という部屋がある。宮廷の医師や薬師が使う薬草と、毒草の標本が並ぶ部屋だ。毒と薬は紙一重。同じ草が、量によって薬にも毒にもなる。だから薬草庫の管理は、代々毒見役の仕事だった。
鍵は、私が持っている。
重い扉を開けると、乾いた草と土の匂いが押し寄せてきた。棚の間を歩きながら、瓶を探す。
あった。
黄根。鮮やかな黄色の、乾燥させた根の粉末。胃の薬として少量が処方され、布の染料にも使われる。前世の名前はターメリック。
姫茴香。細長い種。お腹の張りを取る薬。クミン。
香菜の種。丸い小さな種。これも胃の薬。コリアンダー。
小豆蔻。緑の小さな莢。口臭を消す薬。カルダモン。
そして、火の実。真っ赤な細長い実。気を失った人の鼻先にかざして目を覚まさせる、気付け薬だ。前世の名前は唐辛子。
全部、ここにあった。
12年間、毎月この部屋の棚卸しをしていたのに、今まで一度も気づかなかった。前世の知識と今世の知識が、頭の中の別々の棚にしまわれていたらしい。整理整頓ができていない。是正処置が必要だ。
*
籠いっぱいの瓶を抱えて厨房に入ると、料理人たちが一斉に後ずさった。
「ミ、ミレーユさん。それ、薬草庫の……」
「毒見役が、毒草の部屋から瓶を山ほど持ってきた」
誰かが、震える声でつぶやいた。厨房が静まり返った。
考えてみれば当然の反応だ。毒見役が毒草の部屋から何かを持ってきたら、誰だって身構える。前世で言えば、品質保証部の人間が薬品棚から試薬を抱えて社員食堂に入ってきたようなものだ。通報される。
「全部、薬です。毒じゃありません」
「量によっては毒になるって、聞きましたけど」
「なるものもあるわ。だから量は私が決める。黄根はこの小匙に2杯まで。火の実はこの量なら辛いだけ。姫茴香と香菜の種はもう少し多くても平気」
図鑑のページ数まで言えたが、言わないでおいた。言ったら余計に怖がられる。
料理人たちは、まだ遠巻きにしていた。
そこへ、厨房の奥からガストーネさんが歩いてきた。黄根の瓶を手に取り、ふたを開けて匂いを嗅ぐ。それから指先に粉を少しつけて、なめた。
厨房中が息を呑んだ。
「……ん」
ガストーネさんは瓶を置き、エプロンの紐を締め直した。
「料理長が、作るんですか!」
ティモが叫んだ。ガストーネさんは答えずに、大鍋をかまどに載せた。
料理長の「ん」は、やると決めたときの「ん」だった。12年も聞いていると、「ん」の種類が分かるようになる。今のところ、7種類まで判別できる。
*
「まず、玉ねぎを炒めます。たくさん。薄切りで」
私はかまどから3歩離れて説明した。厨房規則第一条、毒見役はかまどに近づかないこと。12年前の火柱の記憶が、この3歩を守らせている。
ガストーネさんが、玉ねぎ10個をあっという間に薄切りにした。大鍋にバターを溶かして、玉ねぎを入れる。じゅわっ、と音がした。
「どのくらい炒める」
「飴色になるまで」
「飴色」
「茶色くて、つやつやして、甘い匂いがするまで。……1時間くらい」
ガストーネさんの眉が、少しだけ上がった。玉ねぎを1時間炒める料理は、この国にはない。
それでも、木べらは止まらなかった。
10分。透き通る。20分。かさが半分になる。30分。淡い黄金色。40分。ガストーネさんの額に汗が浮かぶ。夏の厨房のかまどの前で、木べらを動かし続けている。
1時間後、鍋の底に、濃い茶色のつやつやとした玉ねぎが溜まっていた。焦げる手前の、甘い匂いがした。
「……これです」
声が弾んだ。
ここに香辛料。鶏肉、じゃがいも、人参。水を注いで煮込み、最後にバターで炒めた小麦粉を溶き入れる。ガストーネさんは私の説明を一度聞いただけで、全部その通りにやった。この人は、言葉は少ないが、耳はいい。
*
1回目のカレーは、胃薬の味がした。
「被告人、カレー。判決。——執行猶予。黄根が多すぎます。胃薬です」
「胃薬」
「私の決めた量が多すぎました。私のミスです」
ガストーネさんは、ひと口すすって、無言で鍋を下ろした。
2回目は黄根を半分にした。色は茶色に近づいたが、辛さばかりが前に出て、甘みがない。
「執行猶予。甘みが足りない」
「砂糖か」
「……夢の中のカレーには、りんごと蜂蜜が入っていました」
子供の頃、テレビの宣伝でそう言っていた気がする。
ガストーネさんは、りんごを1個すりおろし、蜂蜜を匙に1杯加えた。3回目の鍋が、ことことと煮え始めた。
*
日が暮れる頃には、厨房中がその匂いで満たされていた。
飴色の玉ねぎの甘い匂い。香辛料の、鼻の奥をくすぐる匂い。りんごの、かすかな酸っぱさ。
深皿に、茶色いとろりとしたものが注がれた。大ぶりの鶏肉、ほくほくのじゃがいも、人参。隣にマルタさんの丸パン。
「本当は、白いご飯と一緒に食べるんだけど」
「白いご飯?」
「……それは、また今度」
この国には、米がない。少なくとも私は見たことがない。
私は手袋を外した。
「被告人、カレー。罪状、毒物混入の疑い」
見る。
「色、茶色。……泥と、見分けがつきません」
厨房の何人かが吹き出した。
「表面の油、赤みがかった橙色。火の実の色です」
嗅ぐ。
「刺激臭、強め。鼻の奥につんとくる。容疑者、ヒメオオバの種子。しびれを伴う刺激臭。ですが、方向が違う。これは」
「辛いやつですね!」
「辛いやつです」
匙ですくって口に入れた。
熱い。
最初に甘みが来た。飴色の玉ねぎの、とろけるような甘み。りんごと蜂蜜の、やわらかな甘み。それを追いかけるように、辛さがやってきた。舌の上がじわりと熱くなる。熱いのか辛いのか、区別がつかなくなる。額に汗がにじんだ。最後に、姫茴香の土っぽい香りと、小豆蔻のすっとした香りが鼻に抜けていった。
丸パンをちぎって、ルーをすくう。
——白いご飯じゃなくても、おいしい。
前世のファミレスのカレーより、ずっと手間のかかった味だった。1時間炒めた玉ねぎの味。3回作り直した味。
「判決。——無罪」
「完全じゃないのか」
ガストーネさんが、珍しく「ん」以外の言葉を口にした。
「ご飯がないので。ご飯があれば、完全無罪です」
「……ん」
料理長の「ん」は、8種類目の「ん」だった。悔しいときの「ん」だ。
*
厨房の全員がカレーを食べて、全員が汗だくになった。マルタさんは「辛い、辛い」と言いながら3杯おかわりした。ティモはひと口目で真っ赤になって水を5杯飲んだ。ルネさんは「刺激的だが品がない」と言いながら、皿の底まで丸パンでぬぐっていた。
その夜、厨房の窓はすべて開け放たれていた。夏の夜で、暑かったからだ。
カレーの匂いは窓から流れ出し、中庭を渡り、王城の壁を這いのぼっていった。
*
翌日の昼過ぎ、ヘルマン様が厨房に下りてきた。
紫の上着が一緒だった。香水が、カレーの残り香と混ざって、ひどいことになっていた。
「侍従長。お聞きになりましたかな」
ベルトラン伯爵が、大げさに鼻を覆った。
「毒見役が、薬草庫の毒草を持ち出して、厨房で得体の知れないものを煮ていると。城中の噂ですよ。陛下のお命を預かる者が、毒草で料理とは」
私は、にっこり笑った。
心の中で、伯爵の後頭部の髪を、飴色になるまで1時間炒めた。
「伯爵様。薬草庫から持ち出したのは、薬です。毒草ではありません」
「同じことでしょう」
「王宮料理規定、第17条」
ヘルマン様の眉が、ぴくりと動いた。
「『薬草庫の管理は、毒見役の職務とする。薬草の用途と分量は、毒見役の判断に委ねる』。私は職務の範囲で、薬草の分量を判断し、料理長に渡しました。記録は、ここに」
私は、薬草庫の出納帳を差し出した。瓶の名前、持ち出した量、日時、用途。前世の品質保証部で叩き込まれた、書式のとおりに。
ヘルマン様は、出納帳を2回読んだ。
「……記録に不備はない」
「侍従長!」
「伯爵。規定上、毒見役の行為に問題はない」
伯爵は、何か言おうとして口を閉じ、踵を返して出ていった。香水の匂いだけが残った。窓を開けたい。いや、もう開いている。
ヘルマン様が、私のほうを向いた。
「ただし。陛下のお食事に、薬草庫の薬を入れることは認めない。王宮料理規定、第3条。使ってよい食材の一覧に、薬草はない」
「……承知しています」
「それと」
ヘルマン様は、懐中時計を開いた。
「昨夜、陛下がお休みの前に寝室の窓を開けられて、お尋ねになった」
私は、嫌な予感がした。
「『この匂いは何だ』と」
*
——同じ頃、3階では。
少年は、寝室の窓辺に立っていた。昨夜の匂いは、もう風に消えていた。
「給仕頭。昨夜の匂いを、侍従長は何と言った」
「『厨房の者が、何か妙なものを煮ているようです』と」
「妙なもの」
少年は、窓の外の中庭を見下ろした。地下の厨房の窓が、小さく光っていた。
「妙なもの、とは何だ」
給仕頭は、答えられなかった。
少年は、少しだけ唇を尖らせた。13歳の子供らしい顔をするのは、ずいぶん久しぶりのことだった。




