第6話 冷めたスープ
翌朝の毒見は、生きた心地がしなかった。
「被告人、オムレツ……」
「ミレーユさん、声が小さいです」
「うるさい」
判決は無罪だった。ティモはいつもどおり廊下を駆けていった。私はいつもどおり30分待った。首は、まだつながっている。
*
昼前、給仕頭が毒見の間にやってきた。50代の、穏やかな顔の男だ。陛下のお食事を運ぶ給仕たちをまとめている。
「ミレーユさん。陛下から、お尋ねがございまして」
来た。
「……何でしょう」
「『ハーゲンの実とは、何だ』と」
私は手鏡を取り落とした。
「……故郷の、夏の、果物です」
「さようですか。陛下にそのようにお伝えします」
「待ってください」
給仕頭が振り返った。
私は、床に落ちた手鏡を拾った。鏡の中に、顔色の悪い毒見役が映っていた。
「……私から、直接お答えします。機会があれば」
毒見役は、陛下に嘘をついてはいけない。
伯爵には、いくらでもつく。ハーゲンの実でもスイカの種でも、好きなだけでっち上げる。でも陛下は別だ。陛下のお口に入るものを、私は確かめている。そのお口に、嘘を入れるわけにはいかない。
給仕頭は、少し不思議そうな顔をしてから、うなずいた。
「では、ちょうどよかった。今夜、給仕が1人熱を出しまして。陛下の夕食を3階まで運ぶのを、手伝っていただけませんか」
*
夜6時。夕食の毒見。
じゃがいもとリーキのポタージュ。深い器に、淡いクリーム色のスープが満ちていて、刻んだ青ねぎが散らしてある。湯気がふわりと立ちのぼった。
「被告人、ポタージュ」
見る。嗅ぐ。じゃがいもの土の匂い、リーキを炒めた甘さ、バター、牛乳、ほんの少しのナツメグ。
口に入れる。熱い。裏ごしが丁寧で、ざらつきがまったくない。じゃがいもの甘みが舌全体を包み、喉を通るとき、胃のあたりがふっと温かくなった。
「判決。——無罪。本日も、毒なし」
30分待った。脈、正常。舌、正常。いつもと同じ30分。
それから、盆を持ち上げた。
給仕頭が、心配そうに私の手元を見ていた。毒見役が盆を運ぶのは、たぶん、この城の歴史ではじめてのことだ。前例がない仕事ほど、前世の私は燃えた。燃えすぎて、最後は燃え尽きたのだけれど。
ポタージュの器には布がかけ直されている。布の上から触ると、まだほんのり温かかった。
毒見の間を出て、地下の廊下を歩く。石の壁が夜の冷気を溜め込んでいた。階段を上がって1階。使用人用の通路を抜けて2階。回廊を半周して、さらに階段。
重い。
盆が、思っていたよりずっと重い。給仕の人たちは、これを毎日1日3回運んでいるのか。前世の職場なら、腰痛で労災が下りる。
階段を上がるたびに、布越しの温かさが弱くなっていくのが、手のひらで分かった。
2階の回廊で、窓から夜風が吹き込んできた。思わず盆を体に引き寄せる。布の下の器を、風から守りたかった。意味がないことは分かっていた。
3階に着くまでに、12分かかった。
毒見のあとの30分と、階段の12分。合わせて42分。
——この42分で、スープは冷める。
12年間、毒見の間で数字として知っていたことを、私ははじめて、手のひらで知った。
前世には、ピザの宅配というものがあった。注文から30分を過ぎたら、代金をいただきません。そんな売り文句の店まであった。
この城の料理は、毎食42分かかって届く。前世の基準なら、陛下のお食事は、12年間ずっと無料だ。
笑えない冗談だった。自分で考えておいて、ひとつも笑えなかった。
*
「ありがとうございます、ミレーユさん。……あの、もしよろしければ、中まで」
給仕頭に促されて、食堂の扉をくぐった。
広かった。
天井が高く、壁には歴代の王の肖像画が並んでいる。中央に、白い布をかけた長いテーブル。椅子が24脚。
そのうち23脚が、空だった。
一番奥の一番大きな椅子に、ユリウス様がひとりで座っていた。昨夜、大広間の上座で笑い転げていた、あの少年。背筋を伸ばして、膝の上に両手を置いて、まっすぐ前を見ている。前には、23脚の空の椅子しかない。
その斜め後ろに、ヘルマン様が立っていた。私の顔を見て、眉がほんのわずかに上がった。昨夜ハゲと言った女が、今夜は盆を持って現れたのだ。無理もない。
給仕頭が、皿を1枚ずつユリウス様の前に並べていく。最後に、ポタージュの布が取られた。
湯気は、立たなかった。
クリーム色の表面に、薄い膜が張っていた。青ねぎが、その膜の上で少ししおれていた。
ユリウス様は匙を取り、膜をそっと押しのけて、スープをすくった。
表情は変わらなかった。
もうひと匙。もうひと匙。背筋を伸ばしたまま、一度も顔を上げずに。広い食堂に、匙が器に当たる小さな音だけが響いていた。
私は壁際に立っていた。
——あのスープは、熱かったのに。
42分前には、確かに。
*
前世の私は、一人暮らしだった。
夜11時過ぎに駅前のコンビニに寄って、弁当を買う。店員さんが「温めますか」と訊いてくれる。電子レンジの音が鳴って、湯気の立つ弁当を受け取る。誰もいない部屋に帰って、テレビをつけて、ひとりで食べた。
寂しいと思ったことはなかった。忙しくて、思う暇がなかっただけかもしれない。
目の前の少年は、あの頃の私より、ずっと若い。そしてあの頃の私が持っていたものを、何ひとつ持っていなかった。
温かいご飯も。テレビの笑い声も。
心の中で、盛大に毒づいた。
この城の大人たちは、何をしているのか。24脚も椅子を並べておいて、13歳の子供をひとりで座らせて。昨夜の晩餐会で両隣に座っていた宰相と公爵は、今どこで何を食べているのか。温かいものを、誰かと笑いながら食べているに違いない。
全員まとめて、是正処置だ。
*
ユリウス様は、ポタージュを半分ほど残して匙を置いた。
「毒見役」
声がした。
ユリウス様がこちらを見ていた。
近くで見ると、戴冠式の頃よりずっと背が伸びていた。それでも肩はまだ細い。青い目が、まっすぐに私を見ていた。
ヘルマン様が、小さく咳払いをした。お食事中に使用人と言葉を交わすのは、作法に反するのだろう。ユリウス様は、咳払いを気にする様子もなかった。
「お前が毒見をしたとき、このスープは、温かかったか」
答えに詰まった。
温かかったと答えれば、陛下は、自分が食べたスープとの違いを知ることになる。冷めていたと答えれば、嘘になる。
毒見役は、陛下に嘘をつかない。今朝、そう決めたばかりだ。
「……はい、陛下。湯気が、立っておりました」
ユリウス様はしばらく黙っていた。
「そうか」
それだけ言って、前を向いた。23脚の空の椅子のほうを。
それから、少しだけ間を置いて、もう一度こちらを向いた。
「もうひとつ訊く。ハーゲンの実とは、何だ」
来た。
ヘルマン様の懐中時計が、ぴたりと止まった気がした。
私は背筋を伸ばした。
「……ございません」
「ない?」
「ハーゲンの実という果物は、この世のどこにもございません」
ユリウス様の目が、少しだけ大きくなった。
「昨夜、私は伯爵様に、『黙れハゲ』と申し上げました。そのあと、ハーゲンの実と申し上げて、ごまかしました」
食堂が、しんと静まった。
ヘルマン様が天井を仰いだ。
「申し訳ございません。陛下にだけは、嘘を申し上げたくありませんでした」
ユリウス様は私の顔をじっと見ていた。
それから、口元に手を当てた。肩が、小さく震え始めた。
「……っ、そうか。ないのか」
「ございません」
「ないのか……」
ユリウス様は、テーブルに片肘をついて、声を殺して笑っていた。昨夜ほど大きな声ではなかった。でも、確かに笑っていた。
やがて、笑いを収めて、ユリウス様は言った。
「毒見役。お前の判決は、毎日、給仕頭から聞いている」
「……え」
「朝の判決。昼の判決。夜の判決。オムレツが無罪だったとか、胡椒を挽くのが早かったとか。魚が差し戻しになったとか」
ユリウス様は、空になりかけた皿を見下ろした。
「この食卓で、私に話しかける者はいない。だから、給仕頭の報告を聞くのが、食事の時間の……」
ユリウス様はそこで言葉を切った。
「……何でもない。下がってよい」
*
階段を下りながら、私は、盆を持つ手に力を込めていた。
毎日、判決を聞いている。
私が毒見の間でひとりで叫んでいる「被告人、オムレツ」を。ティモに笑われて、厨房の賭けの種にされている、あの口上を。
あの広い食堂で、23脚の空の椅子に囲まれて、あの子はそれを聞いていたのだ。
私の判決は、陛下の食卓で唯一の、会話だった。
「……ずるい」
声に出ていた。給仕頭が振り向いた。
「何か」
「何でもありません」
ずるい。そんなことを言われたら、明日から判決の手を抜けない。いや、抜いたことはないけれど。
*
毒見の間に戻って、記録帳を開いた。
【毒見記録】
日付:夏の月、2日 夕食
ポタージュ:無罪
白身魚の香草焼き:無罪
温野菜:無罪
焼き菓子:無罪
所見:異常なし
毒見役:ミレーユ
羽ペンを取って、余白に書き足した。
——ポタージュ、毒見時、湯気あり。
——陛下のお口に届いたとき、湯気なし。
——所要時間、42分(毒見後の待機30分、運搬12分)。
前世の品質保証部で、何百回と書いた書式だった。不良が出たら、まず工程を分解する。どこで、何が、どれだけ起きているのかを数字にする。数字にできれば、手が打てる。
30分は、規定で決まっている。すぐにはどうにもならない。
12分は。
私は、12分の横に、丸をつけた。
——是正対象。
*
——同じ頃、3階の廊下では。
「侍従長」
給仕頭がヘルマンを呼び止めた。
「陛下は、今夜もポタージュを半分お残しになりました。ですが」
「分かっている」
ヘルマンは懐中時計を開いた。
「笑っておられた」
「はい」
「作法に反する。使用人と食卓で言葉を交わし、声を上げて笑うなど」
「……はい」
ヘルマンは懐中時計を閉じ、しばらく黙って廊下の窓の外を見ていた。
「毒見役が食堂に上がる機会は、今後も、給仕の手が足りないときに限る」
「はい」
「……給仕の手は、よく足りなくなるものだな」
給仕頭は少しだけ笑って頭を下げた。




