第5話 ハーゲンの実
年に4回、王城では貴族を招いた晩餐会が開かれる。
季節の変わり目ごとの恒例の宴だ。有力な貴族たちが夫人や子息を連れて大広間に集まり、100人近い客が同じ料理を囲む。
そして晩餐会の夜だけ、毒見役は地下を出て、大広間の壇上で仕事をする。
「公開毒見」という。
料理そのものは、先に地下の毒見の間で確かめ、30分待ってから運ばれてくる。公開毒見は、その同じ料理を、客の目の前でもう一度確かめる儀式だ。先々代の陛下の時代、宴の席での毒殺騒ぎが絶えなかった頃に始まったらしい。
それから60年あまり。宴の席で毒が出たことは一度もない。
当然だ。毒見役が目を光らせているのだから。
晩餐会の毒見のあいだ、大広間は水を打ったように静まり返る。100人の貴族が、息を詰めて私の手元を見つめる。恐怖で声も出ないのだろう。気の毒だが、それが防衛線というものだ。
*
夏の月、最初の晩餐会の日。
厨房は朝から戦場だった。100人分の仔羊が鉄串に刺されて並び、マルタさんは夜明け前から300個の丸パンを焼いている。ティモは玉ねぎの山の前で泣いていた。玉ねぎのせいか、忙しさのせいかは分からない。
「ミレーユ嬢」
大理石の台の前で、ルネさんが腕を組んでいた。台の上には、薔薇の形に絞った真っ白なメレンゲ菓子が並んでいる。
「今夜の締めくくりだ。題して『夏の月の白薔薇』。……今夜こそ、完全無罪を」
「確かめてみないと分かりません」
「手加減してくれたまえ」
「毒見に手加減はありません」
「君は毎回、壇上で『泡立て過剰』と言う。100人の前でだ。私の芸術家としての名誉は、あの一言で毎回少しずつ削られている」
「事実を述べているだけです」
「事実ほど人を傷つけるものはない」
ルネさんは、長い指で眉間を押さえた。
厨房の隅で、マルタさんが小さな黒板に何かを書いていた。
【本日の賭け】
白薔薇:完全無罪 5倍
白薔薇:無罪 2倍
白薔薇:執行猶予 1.2倍
「……マルタさん」
「なあに?」
「執行猶予の倍率が一番低いのは、どういうことですか」
「統計よ」
ルネさんが、黒板を見て膝から崩れ落ちた。
*
夜7時。
濃紺の礼装に着替えて、大広間の壇上に立った。
長いテーブルが3列。着飾った貴族たちが、ずらりと並んでいる。壇の正面、一番奥の高い席に、少年が座っていた。
ユリウス陛下。
13歳。5年前に先王陛下が狩りの最中の落馬で亡くなり、8歳で王冠を継いだ。金色の髪を撫でつけて、紺色の上着を着て、背筋を伸ばして座っている。まっすぐ前を見て、誰とも話していない。
両隣には宰相や公爵が並んでいた。大人たちは互いに話し込み、誰も少年のほうを見ていない。
心の中で、舌打ちをした。
13歳の子供の両隣に座って、その子と一言も話さない大人たち。前世の会社の忘年会で、新人を隅に座らせて放っておく部長と同じだ。いや、もっとたちが悪い。こっちは国王陛下だ。
陛下の右斜め前の席に、紫の上着が見えた。香水の匂いが、壇上まで届いている。
ベルトラン伯爵。
今夜も後頭部の髪が、前に向かって無理のある流れ方をしていた。
*
「前菜、薄切りのスモークサーモンと香草のサラダ」
給仕が、壇上の卓に皿を置いた。
私は、手袋を外した。
その瞬間、大広間がしんと静まった。100人の視線が、私の手元に集まる。
ほら。恐怖で声も出ない。
「被告人、スモークサーモン。罪状、毒物混入の疑い」
どこかの席で、誰かが小さく「出た」とつぶやいた。
見る。切り口の橙色、鮮やか。艶、均一。
嗅ぐ。燻煙は樫。香草はディル、チャービル、レモンの皮。
「容疑者、毒芹。見た目がチャービルにそっくりな毒草です。ですが毒芹には、青臭さの奥に、鼻の奥を刺す刺激がある。この香草には、それがない」
口に入れる。ねっとりとした身が舌の上でほどけ、燻煙の香りが鼻に抜けた。ディルが脂をすっと切っていく。
舌の奥で、3つ数えた。
「判決。——無罪」
大広間のあちこちで、ため息が漏れた。落胆なのか安堵なのか。たぶん安堵だろう。命拾いしたのだから。
*
料理が進むにつれて、壇上の空気はますます張りつめていった。
冷製のアスパラガスのスープ。「えぐみの原因の根元が丁寧に落としてある。無罪」。白身魚のバター焼き。「火の通りが、中心の手前でぴたりと止めてある。無罪」。
判決を告げるたびに、客席のどこかで小銭の鳴る音がする気がした。気のせいだろう。
そして、4品目。仔羊のロースト、赤ワインのソース添え。
皿が卓に置かれた瞬間、私は眉をひそめた。
薄紅色の仔羊の上に、艶のある濃い紫色のソース。黒に近い紫。
ベラドンナの実を煮詰めると、ちょうどこんな色になる。甘い実で、子供がよく間違えて口にする毒だ。図鑑の第2巻、7ページ。毒見役が最初に覚える毒のひとつ。
私は、銀の匙でソースを少しだけすくった。
嗅ぐ。赤ワインの酸味。肉汁。甘酸っぱい果実の香り。
「……容疑者、ベラドンナ。色が、非常に紛らわしい」
大広間がざわめいた。
宰相がフォークを持つ手を止めた。婦人の1人が扇で口を覆った。
そのとき、客席から声が上がった。
「毒見役殿。早く判決を。料理が冷めますぞ」
ベルトラン伯爵だった。グラスを片手に、にこやかに笑っている。
「どうせ毒ではないのでしょう? この60年、一度も出ていないのですから。形だけの儀式に、そう時間をかけることもない」
何人かの貴族が、くすくすと笑った。
私は、匙を持ったまま伯爵を見た。
この男。
「判決は、確かめ終えてから出します」
声が、自分でも驚くほど低かった。
「冷めるのがお嫌でしたら、伯爵様が先にお召し上がりになりますか。毒見役の代わりに」
大広間が、凍りついた。
伯爵の笑顔が、ぴくりと引きつった。
私は構わずソースを口に含んだ。舌の上で転がす。赤ワインの渋み。それから、はっきりとした酸味。ぷちり、と舌の上で小さな粒がつぶれた。果実の皮だ。
ベラドンナの実には、甘みはあってもこの酸味はない。
「アリバイ、成立。これはカシスです。赤ワインに、カシスの実を加えて煮詰めてある。色が深いのはそのせいです」
仔羊をひと切れ。肉汁があふれ、ローズマリーとにんにくの香りのあとから、カシスの酸味が脂のしつこさをすっと消していった。
舌の奥で3つ数える。
「判決。——完全無罪」
大広間が、どっと沸いた。
拍手。誰かが「ブラボー」と叫び、誰かが「完全無罪、来たあ!」と叫んだ。なぜ喜ぶ。ああ、命拾いしたからか。
*
その喝采のさなか、伯爵がグラスを置いて立ち上がった。
「いやはや、素晴らしい口上ですな。毒見役殿は、実に優れた——試食係だ」
笑顔だった。目だけが笑っていなかった。
「この平和な60年、王家は試食係に高い年俸を払い続けてきたわけです。評議会の予算担当として、一度きちんと見直さねばなりませんな。あなたの年俸も、平和に削らせていただきましょうか」
くすくす、と笑いが広がった。
私は、にっこりと笑い返した。
口では。
心の中では、伯爵の顔面を毒物図鑑の全3巻で順番に殴っていた。第1巻、毒草。第2巻、毒の実。第3巻、毒茸。一番分厚い巻で3回。
この男、人間としてロット不良だ。出荷前検査で弾かれるべきだった。香水は臭いし、後頭部の髪は物理法則に逆らっているし、言うことは毎回いちいち——
「黙れハゲ……っ」
零れた。
大広間の空気が、音を立てて止まった。
伯爵の笑顔が、固まった。宰相が、フォークを落とした。壇の袖で、ルネさんが両手で顔を覆うのが見えた。
私は、全身の血が足元に落ちていくのを感じながら、口を動かした。
「……ハ、ハーゲンの、実が」
「……は?」
「ハーゲンの実が、おいしい季節ですね、と。申し上げました」
「ハーゲンの実?」
「故郷の、果物です。夏に実ります。とても、甘いです」
沈黙。
100人分の沈黙。
終わった。12年の毒見役人生が、ハーゲンの実で終わる。
そのときだった。
「——っ、ふ」
大広間の一番奥から、小さな音がした。
「ふ、はっ……あはははは!」
笑い声だった。
100人が、一斉に振り向いた。
ユリウス陛下が、口元を押さえて肩を震わせていた。押さえきれずに、声が漏れている。13歳の男の子の、甲高い笑い声だった。
「は、ハーゲンの……実……っ」
陛下は、テーブルに突っ伏して笑っていた。
宰相が、口を開けたまま固まっていた。公爵が、グラスを持ったまま固まっていた。伯爵は、顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。
陛下が声を上げて笑うのを、この5年、誰も見たことがなかったのだ。
*
結局、ルネさんの白薔薇は「泡立て過剰。執行猶予」になった。陛下の笑いの余韻の中で、私は完全に手加減を忘れていた。
宴が終わった廊下で、ヘルマン様が待っていた。
「毒見役」
「……はい」
「失言については、記録に残す」
「はい」
当然だ。王宮の晩餐会で、伯爵にハゲと言った。首が飛んでもおかしくない。前世の会社なら、始末書では済まない。懲戒委員会だ。
ヘルマン様は、懐中時計を開いた。
閉じた。
開いた。
「……陛下が声を上げてお笑いになったのは」
ヘルマン様は、時計の文字盤を見たまま言った。
「5年ぶりだ」
懐中時計が、ぱちんと閉じた。
「ハーゲンの実の件は、記録には『季節の話題』と書いておく」
ヘルマン様は、規則正しい足音で廊下の向こうへ消えていった。
かつ、かつ、かつ。
いつもより、ほんの少しだけ歩幅が軽い気がした。
*
厨房に戻ると、全員がこちらを見ていた。
「ミレーユさん! ハーゲンの実って何ですか!」
「ティモ、それは門のところで叫ばないで」
「もう叫んできました!」
遅かった。
マルタさんが、黒板の前で頭を抱えていた。
「白薔薇の執行猶予、1.2倍……当てた人、ほぼ全員……胴元の大損よ……」
「知りません」
ルネさんは作業台に突っ伏していた。立ち直るまで3日かかると思う。
厨房の奥で、ガストーネさんがかまどの前に立っていた。やがて白い皿を1枚、無言で作業台に置いた。
仔羊の端切れを焼き直したものだった。カシスのソースが、少しだけかかっている。湯気が立っていた。
「……ん」
私は、フォークを手に取った。
大広間の壇上で食べたときより、少しだけ焼き色が濃い。ソースも少し煮詰まっている。でも、熱い。
壇上の仔羊は、完全無罪だった。でも、冷めかけていた。
厨房の仔羊は、熱かった。
*
——同じ頃、3階の寝室では。
「給仕頭」
「はい、陛下」
「ハーゲンの実とは、何だ」
「……存じ上げません」
少年は、寝台の上で天井を見上げた。
「明日、毒見役に訊いておけ」
「かしこまりました」
給仕頭が扉を閉めたあとも、しばらく、暗い寝室から小さな笑い声が漏れていた。




