第36話 唐揚げは、二度揚げ
焼き林檎の翌朝、客間から1枚の紙が届いた。
侍女が、「陛下にお渡しください」と毒見の間まで持ってきた。毎日、殿下に私の判決の話をしている侍女らしい。宛名は、ユリウス様。差出人の名前はない。ただ、几帳面な少女の字で、短く書いてあった。
今夜の夕食に、伺います
北の典礼法に従って
私は紙を持って、3階の食堂へ駆け上がった。前世と今世の運動不足が、合算で足を殺しにきた。それでも、駆け上がった。
ユリウス様は、暖炉の前で、その紙を3回読んだ。
4回目を読もうとして、ヘルマン様に「陛下、紙が擦り切れます」と止められた。
「……毒見役」
「はい」
「今夜の献立は、何だ」
私は、息を整えながら考えた。
北の典礼法に従って。つまり、殿下の皿は1時間待つ。冷めても、おいしいもの。それでいて、陛下の皿は熱いまま、とびきりおいしいもの。
それから、禁止表の37番。南の国の料理全般。殿下の皿は、北の料理人が作ったものでなければならない。
頭の中の再現表を、端から端までめくった。
「……唐揚げは、いかがでしょう」
「からあげ?」
「鶏を、揚げた料理です。揚げたては、ざくっとして、熱くて、肉汁があふれます。冷めても、おいしいです」
前世のコンビニの唐揚げ弁当は、冷めていた。それでも、私の深夜の主食のひとつだった。
「冷めても、おいしい」
ユリウス様が、繰り返した。
「それにしよう」
*
「二度、揚げる?」
厨房で、ボグダンさんが首をかしげた。
「はい。一度目は低い温度で、中までじっくり熱を入れる。いったん油から上げて、休ませる。二度目は高い温度で、短く。外側だけを、ざくっと仕上げるんです」
「なぜ、一度で済ませないのですか」
「一度で外をざくっとさせようとすると、中が生焼けになるか、外が焦げるかのどちらかなので」
ボグダンさんは、しばらく考えていた。
それから、ぱっと顔を上げた。
「休ませているあいだに、余熱で中まで火が通る。だから、二度目は外だけでいい」
「そうです」
「オルカ!」
ボグダンさんの目が輝いた。料理人というのは、理屈が分かった瞬間に目の色が変わる。
大理石の台のほうから、ルネさんの声が飛んできた。
「二度揚げ、だと? 芸術は、一度で決めるものだ。二度目の筆は、迷いの証だ」
「ルネさん、プリンのときに、カラメルを12回焦がしてましたよね」
「あれは推敲だ」
推敲なら、二度揚げも推敲だと思う。
もっとも、12回やり直したものは、工場では推敲とは呼ばない。手戻りと呼ぶ。3回目でラインが止まり、5回目で課長が飛んできて、12回目には、始末書の束が自分の厚みで立つ。
*
今夜の唐揚げは、北と南の合作になった。
殿下の皿の分は、ボグダンさんが揚げる。禁止表37番を避けるためだ。陛下の皿の分は、ガストーネさんが揚げる。下味も衣も同じ。違うのは、揚げる人だけ。
塩の壺を挟んで、2人の熊が並んだ。
鶏のもも肉を、ひと口より少し大きめに切る。魚醤、すりおろした生姜とにんにく、それから酒で下味をつけて、しばらく置く。
「衣は、粉だけですか」
「小麦粉と……もうひとつ、じゃがいもの粉を混ぜたいんです」
「じゃがいもの、粉?」
「じゃがいもをすりおろして、水にさらすと、底に白い粉が沈むんです。それを乾かして使うと、衣がざくっと軽くなる」
前世で片栗粉と呼んでいたものだ。原料がじゃがいもだと知ったのは、品質保証部の原材料表示の講習だった。役に立つ日が来るとは思っていなかった。
ガストーネさんが、黙ってじゃがいもの山を作業台に積んだ。
ボグダンさんが、黙っておろし金を2つ並べた。
2人の熊が、同時にじゃがいもをすりおろしはじめた。
ごりごりごりごり。
厨房に、すりおろす音だけが響いた。
マルタさんが、黒板にチョークを走らせていた。
【本日の賭け】
先にじゃがいもを10個すりおろすのは
南の熊 2倍
北の熊 2倍
「賭けないでください」
「統計よ」
結果は、同着だった。マルタさんが、胴元の総取りを宣言した。
*
油を熱する。
最初は、低め。鶏を入れると、じゅわじゅわと穏やかな泡が立った。
ガストーネさんが、鶏を網で引き上げる。白っぽい、頼りない色だった。
「……これで、いいのか」
「いいんです。今は、休ませる時間です」
網の上で、鶏が湯気を立てていた。厨房の全員が、その湯気を見つめていた。
ティモが、こっそり手を伸ばした。
「ティモ」
「味見です」
「一度目のは、まだ途中だから」
ティモは、手を引っこめた。代わりに帳面を開いて、「唐揚げ:休ませている」と書いた。
油の温度を上げる。
二度目。鶏を戻した瞬間、ぱちぱちぱちっと、さっきとはまるで違う音が弾けた。泡が細かく激しくなり、衣がみるみる黄金色から濃いきつね色へ変わっていく。
引き上げる。
網の上で、唐揚げがしゃわしゃわと小さな音を立てていた。衣のあちこちがごつごつと立ち上がり、尖っている。
ボグダンさんが、息を呑んだ。
「……一度目と、まるで違う」
手袋を外した。
「被告人、唐揚げ。罪状、毒物混入の疑い」
見る。濃いきつね色。衣、ごつごつと立ち上がり、均一。断面を割ると、肉は白く、透明な肉汁がにじむ。
嗅ぐ。揚げた衣の香ばしさ。生姜、にんにく、魚醤。
含む。
ざくっ。
衣が、歯の下で砕けた。厨房中に聞こえるくらいの音だった。
熱い。ざくざくの衣の下から、熱い肉汁がじゅわっとあふれた。鶏のもも肉の、ぷりっとした弾力。生姜とにんにくが、肉汁の中で香っている。魚醤の塩気が、鶏の甘みを引き立てる。
「はふっ」
熱い。肉汁が、舌の上を焼きながら流れていく。
前世で食べた唐揚げは、たいてい冷めていた。揚げたての唐揚げを食べたのは、いつ以来だろう。たぶん、実家の台所だ。母が揚げているそばから、つまみ食いして怒られた。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
2人の熊が、塩の壺を挟んで、同時にうなずいた。
ティモが、帳面に書いた。「唐揚げ:完全無罪(ガストーネさん、ボグダンさん) 二度揚げ」。
*
夕方。厨房の入口で、毛皮の帽子が揺れた。
「何だ、この匂いは!」
ラドミール大使だった。揚げ物の匂いを、廊下の向こうから嗅ぎつけてきたらしい。
「揚げ物か! 揚げ物は北の男の料理だ! 南に揚げ物などできるのか!」
できます。さっきまで、熊が2頭がかりで揚げていました。
心の中で、大使の毛皮の帽子を揚げ鍋に沈めた。一度目は低い温度で、じっくり。休ませて、二度目は高い温度で、からりと。毛皮だから、衣はよく絡むはずだ。
大使は、作業台の上の唐揚げをひとつ、素手でつまんで口に放りこんだ。
ざくっ。
大使が、止まった。
噛んでいた。黙って、噛んでいた。
飲み込んだ。
もうひとつ、つまんだ。ざくっ。
黙って、噛んでいた。
マルタさんが、黒板の『黙る=すごくうまい』の横に、そっと『7個』と書き足した。
大使は、唐揚げを7つ食べてから、ようやく口を開いた。
「…………ボグダン」
「は」
「北に帰ったら、これを毎日作れ」
「二度揚げですよ、閣下」
「何度でも揚げろ」
大使は、8つ目に手を伸ばしたところで、ガストーネさんに皿を下げられた。
ガストーネさんの「ん」は、「それは陛下の分だ」の「ん」だった。
*
夜。3階の食堂。
暖炉の前の長いテーブル。上座にユリウス様。その右手に私。
左手の席に、エレオノーラ殿下が座っていた。
殿下が自分から「伺います」と書いてきて、この暖炉の前の卓に着くのは、初めてだった。
殿下の脇にヴェラさん。斜め後ろにメルヒオルさん。
暖炉の前に、揚げ鍋が2つ据えられていた。ガストーネさんとボグダンさんが、それぞれの鍋の前に立っている。
「被告人、唐揚げ。罪状、毒物混入の疑い」
私は、卓上で第一審を済ませた。下味をつけた鶏、衣、油。それから30分。ガストーネさんが、一度目を揚げて休ませる。
30分が経って、二度目。
ぱちぱちぱちっ。
食堂に、揚げる音が響いた。殿下が、少しだけ肩を跳ねさせた。
「第二審。……判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
ユリウス様の前に、揚げたての唐揚げが置かれた。しゃわしゃわと、まだ衣が鳴っていた。
ボグダンさんの鍋からも、殿下の分が揚がった。
ヴェラさんが、銀の針を抜いた。刺す。かざす。含む。
3つ数えて、吐き出す。
「可」
蓋がされた。砂時計が、ひっくり返された。
1時間。
ユリウス様は、自分の皿を見下ろしていた。一昨日の昼食会と同じように、フォークを置こうとした。
「陛下」
殿下が、口を開いた。
「どうぞ、召し上がってください。冷めてしまいます」
「だが」
「わたくしは、陛下が冷めたお料理を召し上がるところを、また見たいとは思いません」
ユリウス様は、少し迷ってから、唐揚げをひとつ口に運んだ。
ざくっ。
静かな食堂に、その音が響いた。
殿下の視線が、ユリウス様の口元に向いた。
ユリウス様は、はふ、はふ、と熱さを逃がしながら噛んでいた。肉汁が、唇の端から少しだけ垂れた。ヘルマン様が、そっとナプキンを差し出した。
ざくっ。
2つ目。
殿下の喉が、小さく動いた。
*
砂時計の砂は、まだ半分以上残っていた。
殿下は、蓋をされた自分の皿を見ていた。それから、ユリウス様の皿を見た。それから、また自分の皿を見た。
ユリウス様の皿で、唐揚げが、しゃわ、と最後の音を立てた。
そのとき、ヴェラさんが動いた。
殿下の皿の蓋に、白い手袋の手をかけた。
メルヒオルさんが、半歩前に出た。
「ヴェラ殿」
ヴェラさんは、答えなかった。
蓋を、持ち上げた。
湯気が、ふわりと立った。
殿下の皿の唐揚げは、まだ熱かった。揚がってから、15分も経っていない。衣はまだ、ごつごつと尖っていた。
「ヴェラ殿! 典礼法第7条。毒見ののち、1時間を——」
「毒見は」
ヴェラさんが、メルヒオルさんの言葉を遮った。
ヴェラさんが誰かの言葉を遮るのを、私ははじめて見た。
「毒見は、終わっています」
それだけ言って、ヴェラさんは蓋を小卓に置いた。
砂時計は、そのまま落ち続けていた。
殿下は、湯気の立つ皿を見下ろしていた。それから、ヴェラさんを見上げた。
ヴェラさんは、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、うなずいた。
殿下が、フォークを取った。
唐揚げをひとつ刺して、口に運んだ。
ざくっ。
殿下の目が、まんまるになった。
口元を手で押さえた。はふ、と息が漏れた。噛むたびに、衣の音がした。
「……熱い」
小さな声だった。
殿下の目に、涙が浮かんでいた。熱さのせいなのか、そうでないのか、私には分からなかった。
ユリウス様が、殿下のほうを見ていた。
「熱いだろう」
「……熱いです」
「熱いのが、うまいんだ」
殿下は、口元を押さえたまま、小さくうなずいた。
それから、2つ目を刺した。
ざくっ。
*
メルヒオルさんは、何も言わなかった。
胸元から砂時計を取り出し、それを握りしめていた。顔からは、表情が消えていた。
殿下は、唐揚げを4つ食べた。冷めたものではなく、熱いものを、4つ。
皿の上に、最後の1個が残っていた。殿下はそれを見て、それから、小卓の上の砂時計を見た。砂は、まだ落ちていた。
「……これは、1時間後にいただきます」
殿下は、そう言った。
「冷めても、おいしいと聞きましたので」
ユリウス様が、少しだけ笑った。
「冷めても、うまい。毒見役が、そう言っていた」
「南の毒見役は、何でもおいしいと言うのですね」
「言う。いつも言う」
殿下も、少しだけ笑った。
暖炉の前で、ガストーネさんとボグダンさんが、同時に揚げ鍋の火を落とした。
厨房の黒板には、明日の朝、ティモが書き足すことになる。
殿下、熱い唐揚げを4つ
*
——同じ夜、北の客間の一室では。
メルヒオルは、燭台の下で、手紙を書いていた。
宛名は、北の王都の典礼院だった。
殿下付き毒見役ヴェラ、典礼法第7条に違反
殿下、毒見後1時間を待たずに南の卓で食事
殿下のご様子に、変化あり
メルヒオルは、ペンを止めた。
しばらく、最後の1行を見つめていた。
インクが乾くのを待って、手紙を封じた。
胸元の砂時計を取り出し、ひっくり返した。
砂が落ちきるまで、メルヒオルは、燭台の火を見つめていた。




