第35話 いただきますを知らない人
翌朝、暖炉の前に林檎が5つ並んでいた。
「陛下。これは」
「焼く」
ユリウス様は、袖をまくっていた。14歳の王様の細い腕が、暖炉の火に照らされていた。
「焼いて、持っていく。料理人を通さずに」
私は、暖炉の脇に控えていたヘルマン様を見た。ヘルマン様は、懐中時計を握ったまま、天井の一点を見つめていた。昨夜、何かがあったらしい。何があったのかは、聞かないことにした。
「陛下。規定第21条が——」
「第21条は、料理人でない者が、私の料理を火にかけることを禁じている」
ユリウス様は、林檎をひとつ手に取った。
「これは、私の料理ではない。エレオノーラ殿下の料理だ。だから、第21条には当たらない」
私は、口を開けたまま固まった。
ヘルマン様の懐中時計が、ぱちん、と小さく鳴った。
「……陛下。その理屈は、どなたに教わりました」
「毒見役を見ていたら、覚えた」
ヘルマン様が、ゆっくりと私のほうを向いた。眉間のしわが、3本あった。
私は、目をそらした。
この城の規定の穴探し病は、ついに王様の体質になってしまったらしい。感染源は、たぶん私だ。治療法は、たぶんない。
*
1個目の林檎は、炭になった。
暖炉の火の真ん中に直接置いたら、皮がみるみる黒くなり、ぱちぱちと音を立てて裂けた。ユリウス様が慌てて火かき棒で転がし出したときには、もう、林檎の形をした炭だった。
「……炭だ」
「炭ですね」
厨房から様子を見に上がってきていたボグダンさんが、深くうなずいた。
「自分も、イブリガッコで炭を3回作りました。……焼き林檎なら、北でも冬至に食べます。南の料理じゃありません」
炭の先輩がいた。
ガストーネさんが、暖炉の脇に黙って立っていた。料理人なので、陛下の料理には手を出せない。でも、これは陛下の料理ではない。ガストーネさんの大きな手が、何度も伸びかけては、引っこんでいた。
「料理長。どうすればいい」
ユリウス様が、ガストーネさんを見上げた。
ガストーネさんは、しばらく黙っていた。それから暖炉の灰をかき分け、火の端の、熾火だけが赤く光っているところを指さした。
「……ここ」
「ここか」
「芯を、抜く。蜂蜜と、バターを、詰める」
ガストーネさんが、こんなに続けてしゃべるのを聞いたのは久しぶりだった。陛下の前だと、料理長の口数は少しだけ増える。
ユリウス様は、小さな匙で林檎の芯をくりぬいた。くりぬきすぎて、2個目の底に穴が開いた。ガストーネさんが黙って、林檎の皮を詰めて塞いだ。手を出したことになるのかどうかは、ヘルマン様が見なかったことにした。
蜂蜜とバターを詰める。熾火の上に、そっと置く。
「何分だ」
「……ん」
「ヘルマン。何分だ」
「料理長の『ん』を訳しますと、林檎が柔らかくなるまで、でございます」
ヘルマン様が、懐中時計を開いた。
「計っておきます」
*
「……23分でございました」
ヘルマン様が、手帳に書きつけた。料理長の「ん」、林檎の場合は23分。
規定の鬼が、ついに料理長の「ん」に単位をつけた。この調子だと、そのうち王宮料理規定に別表がつく。「料理長の『ん』換算表」。全15種類。改定のたびに、穴を探すのは私だ。
林檎が、焼けた。
皮がしわしわになり、ところどころ裂けて、中から蜂蜜とバターが溶け出していた。甘い匂いが、食堂いっぱいに広がった。
ユリウス様は、焼けた林檎を皿に載せた。2つは焦げすぎて、1つは形が崩れて、ちゃんと残ったのは1つだけだった。
「毒見役。判決を」
私は、手袋を外した。
「被告人、焼き林檎。陛下作。罪状、毒物混入の疑い」
見る。皮、ところどころ焦げあり。裂け目から、琥珀色の蜜。くりぬいた穴の縁が、少しいびつ。
嗅ぐ。焼けた林檎の甘酸っぱさ。蜂蜜。バター。それから、熾火の煙の匂い。
含む。
匙を入れると、果肉がとろりと崩れた。熱い。舌の上で、林檎の酸味と蜂蜜の甘さが溶け合う。バターのこくが、全体をやわらかく包んでいる。焦げた皮のほろ苦さが、最後に少しだけ残った。
前世で、焼き林檎を食べたことはあっただろうか。たぶん、ない。アップルパイなら、コンビニで買ったことがある。でも、これはもっと素朴で、もっと甘い。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決。——無罪。本日も、毒なし」
「完全無罪ではないのか」
「くりぬいた穴が、いびつなので」
ユリウス様は、少し唇を尖らせた。
「いびつなのは、手で作ったからだ」
「はい。だから、無罪です。完全無罪かどうかは、殿下が決めることです」
*
焼き林檎は、客間の前の小卓に置かれた。
ヴェラさんが、銀の針を抜いた。刺す。かざす。含む。3つ数えて、吐き出す。
「可」
蓋がされ、砂時計がひっくり返された。
焼きたての林檎に、蓋をして、1時間。
焼き林檎に対して、これより重い罪があるだろうか。全3巻の毒物図鑑に、今すぐ第4巻を書き足したい。第1項、北の典礼法。症状、料理が冷める。即効性はない。ただし、確実に効く。
ユリウス様は、小卓の前に立っていた。
「……1時間か」
「はい」
ヴェラさんが答えた。
ユリウス様は、小卓の前から動かなかった。
「陛下。お部屋でお待ちになっては」
ヘルマン様が言ったけれど、ユリウス様は首を横に振った。
「渡すのは、私だ。料理人を通さずに、と言われた」
「どなたにでございますか」
「ヘルマンにだ」
ヘルマン様が、黙った。
それから、懐中時計を開いて、ユリウス様の隣に立った。
廊下では、14歳の王様と白髪の侍従長と北の毒見役が、並んで砂時計を見ていた。
私も、少し離れたところに立った。
ヴェラさんは、1時間、一度もこちらを見なかった。ただ、ユリウス様が10分おきに小さく息を吐くたび、白い手袋の指がほんの少しだけ動いた。
*
砂の最後のひと粒が落ちた。
ユリウス様は、皿を両手で持って、客間の扉を叩いた。
扉が開いた。侍女が驚いた顔をして、慌てて道を開けた。扉は、開いたままだった。
窓辺の小さな卓に、エレオノーラ殿下が座っていた。
ユリウス様の姿を見て、殿下が立ち上がった。
「……陛下」
「焼いた」
ユリウス様は、皿を卓の上に置いた。
「料理人を通さずに。1時間、待った。だから、冷めている」
殿下は、皿の上を見下ろした。しわしわの皮。いびつな穴。冷めて、少し固まった蜜。
「……陛下が、これを」
「1個目は、炭になった」
殿下の肩が、ぴくりと動いた。
「4つ失敗した。これが、5個目だ」
殿下は、しばらく黙っていた。
それから、椅子に座り直し、匙を取った。
ひと口、すくった。
口に入れた。
ゆっくりと、噛んでいた。
「……冷めています」
「知っている」
「でも、甘いです」
殿下は、2口目をすくった。3口目。4口目。
皿の上の焼き林檎が、少しずつ減っていった。
最後のひと匙を食べ終えて、殿下は匙を置いた。
皿は、空になっていた。
ユリウス様が、ほっと息を吐いた。
殿下は、空の皿を見下ろしたまま、小さな声で言った。
「こういうときは、判決を出すのでしょう。南の毒見役なら」
「……知っていたのか」
「侍女が、毎日話しますので」
殿下は、顔を上げずに言った。
「完全無罪、です。……冷めていても」
扉の脇で、ヴェラさんが、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
*
その日の昼、厨房の黒板には、大きな字でこう書いてあった。
【本日の賭け】
殿下が焼き林檎を完食する 12倍
→当たり 1名
「ティモ、当てたの」
「はい! 陛下が4回失敗したって聞いたので、5回目は絶対いけると思って」
ティモは、帳面と小銭を抱えて跳ねていた。この少年は、ときどき妙なところで勘が働く。
*
夜。
片付けの済んだ厨房に下りると、かまどの前に、灰色の外套があった。
ヴェラさんだった。
かまどの残り火のそばに、小さな鍋がひとつ。その前に、手袋を外したヴェラさんが立っていた。手には、小さな匙。
私の足音に気づいて、ヴェラさんが振り向いた。
匙を持ったまま、固まっていた。
前世の品質保証部で、夜中に試作品をつまみ食いしているところを課長に見つかった同僚が、ちょうどこんな顔をしていた。
「……違います」
「何も言ってません」
「味見ではありません。温度を、確かめていました」
「舌で?」
「……舌で」
ヴェラさんは、匙を棚に戻した。手袋をはめ直す。表情は戻っていたけれど、耳の先が赤かった。どこかで見たような赤さだった。
私は、作業台の端に腰をかけた。
「座りませんか。今日も、1時間ずつ立ちっぱなしだったでしょう」
ヴェラさんは、しばらく迷っていた。それから、作業台の反対の端に、浅く腰をかけた。
かまどの火が、ぱちりと鳴った。
*
「南の毒見役は」
先に口を開いたのは、ヴェラさんだった。
「毒見を、楽しんでいます」
「楽しんでますね」
「不謹慎です」
はっきりと言われた。
私は、少しだけ笑った。怒る気には、ならなかった。
「ヴェラさん。毒見のあとの待ち時間、何を考えてます?」
「何も。毒の兆候が出ないか、自分の体を見ています」
「私も、最初はそうでした。脈を測って、舌の色を見て。それで3分。残りの27分は、何もすることがなかった」
ヴェラさんが、こちらを見た。
「私の師匠は、その30分、上で陛下が召し上がる料理のことを考えてたそうです。今日のスープは、お口に合うかねえって」
「……毒見役の仕事では、ありません」
「そうかもしれません。でも、師匠は40年それを続けて、去年の冬、私に言いました。毒見役の仕事は、毒を見つけることだけじゃないって」
「では、何なのですか」
「食べる人が、安心して『いただきます』を言えるようにすること。……今の私は、その30分、陛下と蛸の足の数の話をしています」
ヴェラさんの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……陛下が、昨日おっしゃっていた言葉ですね」
「この国の言葉です。……正確には私の故郷の言葉で、陛下がお使いになるようになってから、城中に広まりました。食べる前に言うんです。料理と、作った人に、ありがとうって」
「毒見役が、それを言うのですか」
「言います。陛下と一緒に食べるときは」
ヴェラさんは、しばらく黙っていた。
「毒見役は、食べる人ではありません」
小さな声だった。
「毒見役が料理を味わえば、舌が甘くなります。おいしいと思った料理には、可を出したくなります。そうして、見落とします」
それは、紅蕪のスープの日に聞いた言葉と、ほとんど同じだった。
でも、今の声には、あの日にはなかったものが混ざっていた。
「……見落としたことが、あるんですか」
ヴェラさんの手が、作業台の縁をつかんだ。
長い沈黙だった。
「昔、ひとつだけ」
ヴェラさんは、かまどの火を見ていた。
「私が可と言ったものを、殿下が召し上がりました」
それ以上は、言わなかった。
ヴェラさんは、作業台から立ち上がった。外套の裾を直し、手袋の指をそろえた。
「失礼します」
厨房の扉のところで、ヴェラさんは一度だけ足を止めた。
振り返らずに、言った。
「……焼き林檎は」
「はい」
「温かいうちのほうが、おいしかったと思います」
扉が、閉まった。
私は、作業台に腰かけたまま、しばらく動けなかった。
あの人は、今朝、焼き林檎を口に含んで、3つ数えて、吐き出した。
吐き出す前の3つのあいだに、温かいうちの味を、ちゃんと覚えていたのだ。
*
——同じ夜、王城の客間では。
エレオノーラは、窓辺の卓に、空になった皿を置いたままにしていた。
侍女が下げようとしたのを、止めたのだ。
皿の縁に、冷めて固まった蜜が、少しだけ残っていた。
エレオノーラは、指先でそれをすくって、そっと舐めた。
甘かった。
「……いただきます、と言うのでしたわね」
誰もいない部屋で、小さくつぶやいた。
もう食べ終わったあとだった。言う順番が、逆だった。
エレオノーラは、少しだけ笑った。
それから、ひとりで、両手を合わせてみた。




