第34話 王女の朝ごはん
昼食会の朝、私は客間の前の廊下を通りかかった。
通りかかった、というのは少し嘘だ。ヴェラさんがどうやって王女の朝食を用意しているのか、一度見ておきたかった。前世の品質保証部の癖で、よその工程は気になってしまう。
客間の扉の脇に、小卓が置いてあった。
その上に、蓋をした器が3つ並んでいた。それから、砂時計がひとつ。
小卓の前に、ヴェラさんが立っていた。両手を体の前で組んで、まっすぐ砂時計を見ている。
私に気づいて、ヴェラさんがほんの少しだけ顔を向けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけ言って、ヴェラさんはまた砂時計に目を戻した。
器の蓋の隙間から、湯気は出ていなかった。もう、だいぶ前に毒見を終えたのだろう。砂は、残り4分の1ほどだった。
「毎朝、こうしてるんですか」
「はい」
「ここで、1時間?」
「はい」
「立ったまま?」
「はい」
1日3回。1回1時間。立ったまま、砂時計の前で。
前世の工場でこんな工程を見つけたら、監査の初日に赤で丸をつける。待ち時間、1日3時間。立ち作業。そのあいだに起きることは、料理が冷めることだけ。
北の典礼法を書いた人を、一度ここに立たせてみたい。もちろん、砂時計つきで。
この人は何年も、毎日これを続けてきたのだろう。
私の30分は、暖炉の前で、話をする時間になった。この人の1時間は、廊下で、砂を見る時間のままだ。
砂の最後のひと粒が落ちた。
ヴェラさんは、器を盆に載せ、扉を叩いた。中から侍女の声がして、扉が開く。その隙間から、ほんの一瞬だけ、部屋の中が見えた。
窓辺の小さな卓に、王女がひとりで座っていた。
背筋を伸ばして。膝の上に、両手を置いて。
去年の夏、3階の食堂で見た光景と、同じ形だった。
扉が、閉まった。
*
昼食会は、3階の食堂で開かれた。
暖炉の前の長いテーブル。上座にユリウス様。その右手の、角を挟んだ席に私。
テーブルを挟んで、私の向かい側。ユリウス様の左手の席に、エレオノーラ殿下。その脇にヴェラさん。
ヘルマン様は陛下の、メルヒオルさんは殿下の斜め後ろに立っていた。ラドミール大使は、テーブルの中ほどに座り、すでにパンを2つ食べていた。
暖炉の前には、2つの鍋が並んでいた。ガストーネさんの大鍋と、ボグダンさんの鉄鍋。春野菜と鶏の煮込みを、2人で半分ずつ作ったのだ。北の鍋は紅蕪で少し赤く、南の鍋は人参で少し黄色い。殿下の皿には、北の鍋の分だけがよそわれる。禁止表の37番を避けるための、ヘルマン様の段取りだった。
厨房の黒板は、今朝、私が出てくるときにはもう書き換えられていた。
【本日の賭け】
殿下が完食する 12倍
殿下が半分食べる 4倍
殿下がひと口だけ 1.5倍
昼食会は、まだ始まったばかりだった。
*
「被告人、春野菜と鶏の煮込み。罪状、毒物混入の疑い」
私は、卓上で手袋を外した。
見る、嗅ぐ、含む。北の鍋と、南の鍋。どちらも、熱い。鶏がほろりと崩れ、春の若いキャベツが甘い。北の鍋には酢と酸っぱい乳、南の鍋にはバターとローリエ。
「判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
向かいで、ヴェラさんが針を抜いた。刺す。かざす。含む。3つ数えて、吐き出す。
「可」
ユリウス様の前に、湯気の立つ煮込みが置かれた。
エレオノーラ殿下の前の皿は、ヴェラさんの手で脇の小卓に移された。蓋がされ、砂時計がひっくり返された。
これから、1時間。
テーブルの上に、少しだけ気まずい沈黙が流れた。
ラドミール大使だけが、自分の皿にかぶりついていた。大使には、北の典礼法の1時間は関係ないらしい。毒見役もいないので、待つ理由がない。
「うむ! 北の鍋はうまい! 南の鍋は薄い!」
交互に食べていた。大使は、この1時間のあいだにおかわりを3回した。「薄い」は4回だった。
ユリウス様は、自分の皿を見下ろしていた。湯気が、ゆっくりと立ちのぼっている。
それから、隣の席を見た。殿下の前には、何もない。
ユリウス様が、匙を置いた。
「ヘルマン」
「は」
「私も、1時間待つ」
食堂が、静まり返った。
大使の匙が、口の手前で止まった。
「陛下。それでは、陛下のお料理が冷めてしまいます」
「冷めてもよい」
ユリウス様は、蓋をされた殿下の皿のほうを見た。
「ひとりで食べるのは、嫌だ。……すぐそばに人がいるのに、ひとりで食べるのは、もっと嫌だ」
ヘルマン様の懐中時計が、止まった気がした。
去年の秋、この暖炉の前で、ユリウス様は同じことを言った。30分、私もここで待つ、と。
あのときの30分は、ひとりで食べたくなかった陛下ご自身のためだった。
今日の1時間は、隣の席の誰かのためだった。
*
エレオノーラ殿下が、顔を上げた。
「……陛下」
声が、硬かった。
「わたくしに、同情なさっておいでですか」
「同情?」
「北の典礼法のせいで、わたくしが冷めた料理を食べるのを、哀れに思っておいでなのでしょう。それで、陛下までご自分の料理を冷まされる。……そのようなお気遣いは、要りません」
殿下の声に、薄い氷の膜が張っていた。茶会のときと同じだった。
ユリウス様は、少し考えるように黙った。
「哀れには、思っていない」
「では、なぜ」
「私が、そうしたいからだ」
ユリウス様は、まっすぐに殿下を見た。
「冷めた料理を、ひとりで食べたことがある。5年間。だから、それがどういうものか、知っている。……知っているから、今日は、そうしたくない」
殿下は、何も言わなかった。
膝の上の両手が、ほんの少しだけ握りしめられたのが見えた。
*
1時間は、長い。
毒見役として、私はそれをよく知っている。30分でさえ、最初の頃は長かった。
だから、話をすることにした。この卓の30分が、いつもそうしてきたように。
「陛下。殿下に、蛸の話をなさいませんか」
ユリウス様が、こちらを見た。それから、隣の殿下を見た。
「……蛸を、知っているか」
「たこ?」
「足が8本ある、海の生き物だ。この前、南の港から届いた。私が注文した」
殿下は、怪訝な顔をした。
「8本?」
「8本だ。数えた。マルタという者が、3回数えた」
「……それを、どうなさったのです」
「食べた。丸く焼いて」
「丸く?」
ユリウス様は、たこ焼きの話を始めた。
鉄板に28個の穴があること。29個目は失敗で平たいこと。串で、くいっと90度ずつ返すこと。ヘルマンが、懐中時計で拍子を取ったこと。熱くて、舌を焼いたこと。
話しているうちに、ユリウス様の声が、少しずつ速くなっていった。
殿下は、最初は黙って聞いていた。
けれど、だんだん身を乗り出してきた。
「……侍従長が、拍子を?」
「40秒ごとに、90度だ」
殿下が、ちらりとヘルマン様を見た。ヘルマン様は、懐中時計を握ったまま、天井の一点を見つめていた。
殿下の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
すぐに、きゅっと引き結ばれた。
*
話の途中で、メルヒオルさんが小さく咳払いをした。
「殿下。食事の席で、そのような益体もないお話は」
メルヒオルさんは、胸元の砂時計を指で撫でていた。
「北の典礼法、第18条。王族の食卓での会話は、国事と天候に限ること」
殿下の口元が、また引き結ばれた。
この人は、子供の会話にまで条文を持ちこむのか。殿下が、ようやく少しだけ身を乗り出したところだったのに。
前髪をきっちり整えて、砂時計をぶら下げて、条文で子供の口を閉じさせる。この砂時計男——
「……すな、砂肝が、食べたいなー」
零れた。
メルヒオルさんが、こちらを見た。
「スナギモ?」
「……鶏の、胃袋の一部です。こりこりしていて、焼くとおいしいんです」
大使が、ばっと顔を上げた。
「胃袋だと! 南では、鶏の胃袋を食うのか!」
「食べます。塩で焼いて」
「北でも食う! 北の男は、鶏の胃袋が大好物だ! ボグダン、スナギモを焼け!」
暖炉の前で、ボグダンさんが困った顔をした。ガストーネさんが、黙って首を横に振った。今日の鶏は、もう胃袋を外してある。
メルヒオルさんは、無表情のまま、革表紙の手帳に何かを書きつけた。
殿下が、口元を押さえていた。肩が、小さく震えていた。
大使が「スナギモ、スナギモ」と繰り返すたびに、肩の震えが大きくなった。
ユリウス様が、殿下のほうを見て、少しだけ目を丸くした。
殿下は、すぐに手を下ろして、背筋を伸ばした。何事もなかったような顔をしていた。
ただ、耳の先が、少しだけ赤かった。
*
砂時計の、最後のひと粒が落ちた。
ヴェラさんが、小卓から殿下の皿を運んできた。蓋を取る。湯気は、立たなかった。表面の脂が、白く固まりかけていた。
ユリウス様の皿も、とっくに冷めていた。
同じ卓で。同じ料理を。同じ温度で。
ユリウス様は、両手を合わせた。
「いただきます」
殿下が、その手を見た。
「……それは」
「この国の、新しい言葉だ。食べる前に言う。料理と作った者に礼を言う言葉だと、毒見役に教わった」
殿下は、しばらくユリウス様の手を見ていた。
それから、何も言わずに匙を取った。
手は、合わせなかった。
でも、いつもより、少しだけ多く食べた。
ひと口。ふた口。み口。冷めた煮込みを、黙って口に運んでいた。ユリウス様も、黙って冷めた煮込みを食べていた。
殿下の皿の北の煮込みは、冷めて、酢が少し尖っていた。陛下の皿の南の煮込みは、冷めて、バターが少し固まっていた。
それでも、2人は食べていた。
*
食事のあと、ユリウス様が殿下に言った。
「明日の朝、ここで一緒に朝食を取らないか。暖炉の前で。熱いまま」
殿下は、ゆっくりと首を横に振った。
「お断りいたします」
「なぜだ」
「わたくしは、北の王女です。北の典礼法を破るわけにはまいりません」
殿下は、立ち上がって、完璧な角度でお辞儀をした。
「それに、陛下にまた、冷めたお料理を召し上がらせるわけにはまいりません」
それだけ言って、殿下は食堂を出ていった。ヴェラさんが、その後ろに続いた。
扉が閉まる直前、ヴェラさんが一度だけ振り返った。
ユリウス様を見た。それから、私を見た。
何か言いたそうな顔をしていた。でも、何も言わなかった。
*
厨房に下りると、マルタさんが黒板の前で腕を組んでいた。
「で、殿下は?」
「4分の1くらい、食べました」
「ひと口でも、半分でもないじゃない」
マルタさんは、黒板の3行を全部、横線で消した。
「誰も当たってないわ。『4分の1』の欄を作っておくべきだったわね。統計の詰めが甘かったわ。……でも、いつもより食べたのね」
「はい」
「じゃあ、今日は胴元の負けでいいわ」
*
——同じ夜、侍従長の執務室では。
「ヘルマン」
ユリウスは、執務室の扉の前に立っていた。寝間着の上に、上着を羽織っている。
「陛下。このような時間に」
「教えてほしいことがある」
ヘルマンは、懐中時計を閉じた。
「何なりと」
「人を、食事に招くには、どうすればいい。断られたあとで」
ヘルマンは、しばらく黙っていた。
「……王宮の規定には、他国の王女を朝食に招く手順の定めは、ございません」
「そうか」
「ですが」
ヘルマンは、机の引き出しから、古い手帳を1冊取り出した。表紙が擦り切れている。
「先王陛下は、王妃様を初めて朝食にお招きしたとき、一度断られております」
「父上が?」
「はい。2度目は狩りの朝に、焚き火で焼いた林檎をご自分でお持ちになりました。料理人を通さずに」
ユリウスは、目を瞬かせた。
「……それで」
「王妃様は、林檎を召し上がりました。熱すぎて、舌を焼かれたそうです」
ヘルマンは、手帳を閉じた。
「先王陛下は、それを見て、お笑いになった。王妃様も、お笑いになった。……以上が、私の知る唯一の前例でございます」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「分かった。ありがとう、ヘルマン」
扉が閉まった。
ヘルマンは、手帳をもう一度開いた。
擦り切れたページの隅に、先王の字で、短い走り書きがあった。
——林檎は、熱いうちに。




