第33話 第3条と典礼法第12条
ことの始まりは、1枚の招待状だった。
交易条約の下打ち合わせを兼ねて、両国の代表が昼食を共にする。ユリウス様の発案だった。場所は3階の食堂。暖炉の前の、あの長いテーブル。
「同じ卓で、同じものを食べる」
ユリウス様は、招待状を書きながらそう言った。
「それが、一番話が早い。私は、この冬にそれを学んだ」
ヘルマン様は、懐中時計を開いて閉じて、何も言わなかった。たぶん、感動していた。
問題は、招待状が北の客間に届いた1時間後に起きた。
北の書記官、メルヒオルさんから、返書が届いたのだ。
【返書】
北の典礼法、第12条により、殿下のお食事は冷ましてからお出しすること
北の典礼法、第7条により、毒見ののち1時間を待つこと
以上が守られる場合に限り、殿下はご出席になる
ヘルマン様の眉間のしわが、3本になった。
「……侍従長と書記官で、話をつける」
そういうわけで、私は今、侍従長の執務室の隅に立っている。
隣には、ヴェラさんがいる。
毒見役が2人、立会人として呼ばれたのだ。何に立ち会うのかは、聞かされていない。ただ、ろくでもないことになる予感だけは、最初からしていた。
*
机を挟んで、ヘルマン様とメルヒオルさんが向かい合っていた。
ヘルマン様の前には、王宮料理規定の原本。分厚い革表紙。
メルヒオルさんの前には、北の典礼法。こちらも分厚い革表紙。
ヘルマン様が、懐中時計を机の上に置いた。
メルヒオルさんが、胸元から細い鎖を引き出した。先に、小さな砂時計がついていた。それを、机の上に置いた。
懐中時計と、砂時計。
始まる前から、もう何かが始まっていた。
「では」
ヘルマン様が、口を開いた。
「王宮料理規定、第8条の2。毒見役は、陛下の食卓において、陛下と同卓にて最終の毒見を行う。同卓の昼食会では、我が国の毒見役が、卓上にて最終の毒見をいたします」
「北の典礼法、第7条」
メルヒオルさんが、間を置かずに返した。
「王族の食事は、毒見ののち1時間を待ってからお出しすること。卓上で毒見をなさるなら、そこから1時間、殿下は皿を前にお待ちになることになります」
「1時間?」
「1時間です」
「その間、陛下に、食べずにお待ちいただけと?」
「陛下のお皿は、陛下の規定でお出しになればよろしい。殿下のお皿は、殿下の典礼法でお出しします」
ヘルマン様の懐中時計が、かち、と鳴った。
メルヒオルさんの砂時計の砂が、さらりと落ちた。
私は、隅で腕を組んでいた。
これは、前世で見たことがある。品質保証部と、取引先の品質保証部の、仕様のすり合わせ会議だ。お互いの社内規格を一歩も譲らず、条項番号だけが飛び交う。終わるころには、誰も何を決めたかったのか覚えていない。
*
「では、第12条についてです」
ヘルマン様が、原本のページをめくった。
「王族の食事は冷ましてから出すこと。その理由を、伺いたい」
「熱い料理は、毒を隠します」
メルヒオルさんは、すらすらと答えた。
「熱は、匂いを強めます。強い匂いは、毒の匂いを覆います。また、熱い料理は、毒見役が口に含んでいられる時間を短くします。冷めた料理であれば、毒見役は落ち着いて確かめられる。北の典礼法の、古くからの考えです」
筋が通っている。通っているから、厄介だった。
前世でも、冷やして官能検査をする品目はあった。温度が高いと、においの判定がぶれるからだ。
「我が国では、熱いまま陛下にお出しして、問題は起きておりません」
「問題が起きておらぬことは、問題が起きぬことの証明にはなりません」
ヘルマン様の眉が、ぴくりと動いた。
あれは、ヘルマン様自身の台詞だ。白雫の話のときに、私に向かって言った言葉と、ほとんど同じだった。
「……王宮料理規定、第9条の2。毒見ののち、料理の運搬は2名以上で行う」
「北の典礼法、第9条。毒見ののち、料理は毒見役の目の届く場所に置くこと」
「第12条の2。料理人は、毒見役の定める手順で手を清めたときに限り、素手で料理に触れてよい」
「第15条。料理人は、王族の食卓に近づいてはならない」
「第21条。料理人でない者が、陛下の料理を火にかけてはならない」
「第5条。毒見役は、毒見の料理を飲み込んではならない」
条文が、机の上を飛び交った。
かち。さらり。かち。さらり。
懐中時計と砂時計が、交互に鳴っていた。
私の頭の中では、もう別の何かが実況を始めていた。
侍従長、第9条の2で運搬から攻める。書記官、第9条で受け流す。侍従長、素手の条文で揺さぶる。書記官、料理人の立ち位置で返す。侍従長、火の条文。書記官、まさかの毒見役の条文で切り返した。
隣のヴェラさんを見た。
ヴェラさんは、まっすぐ前を見ていた。瞬きが、いつもより少しだけ多い気がした。
たぶん、この人も心の中で何かを実況している。
*
1時間が過ぎた。
メルヒオルさんの砂時計は、13回ひっくり返された。ヘルマン様の懐中時計は、4回開け閉めされた。
何も、決まっていなかった。
1時間煮込んで、鍋の中身はひと匙も減っていない。浮いてきたのは、灰汁だけだ。前世なら、この会議の議事録は1行で済む。「次回、継続審議」。
「……休憩を、5分」
ヘルマン様が言った。
「典礼法では、休憩は砂時計1回分と定められております」
「それは、何分だ」
「4分半です」
「では、4分半」
2人は同時に立ち上がり、同時に窓の外を見て、4分半ぴったりで同時に座った。そのあいだ、誰も口をきかなかった。ヴェラさんも、私も。
途中で給仕頭がお茶を運んできたが、部屋の空気をひと目見るなり、何も言わずに盆を置いて出ていった。賢明な判断だった。
扉の隙間から覗いていたティモが、あとで帳面を見せてくれた。『侍従長と書記官の会話:翻訳不能(2件目)』。
「……第3条」
ヘルマン様が、原本のページを指で叩いた。
「陛下のお食事に使ってよい食材の一覧。この一覧に載っていない食材は、陛下の食卓に上がらない。北の殿下の禁止表と、考え方は同じだ。であれば、禁止表に載っておらず、北の料理人が作った料理は、殿下の食卓に上がってよいはずだ」
「典礼法、第12条」
メルヒオルさんは、表情を変えずに言った。
「禁止表に載っていない料理であっても、冷ましてからお出しすること。第12条は、禁止表とは別の条文です」
「古くからの考え、と言われたな。では、それが第12条として条文になったのは、いつだ」
メルヒオルさんの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……9年前です」
「9年前?」
「北の典礼法は、何度も改められております。第12条は、そのうちのひとつです」
「何があって、改められた」
「殿下の御身に関わることゆえ、申し上げられません」
ヘルマン様は、しばらくメルヒオルさんを見ていた。
私は、隣を見た。
ヴェラさんの、白い手袋の指が、ほんの少しだけ握りしめられていた。
9年前。
王女は今、15歳だ。9年前なら、6歳。
6歳の子供のために、料理を冷ます条文が増えた。毒見のあとの1時間も、37品目の禁止表も、もしかすると、そのときから始まったのかもしれない。
何かがあったのだ。9年前に。
*
2人の規定オタクは、まだ睨み合っていた。
ヘルマン様が原本を開く。メルヒオルさんが典礼法を開く。2人が、同時に。
「第——」
「第——」
同じ音で始まって、同時に止まった。
どっちもどっちの石頭だ。規定の中から一歩も出てこない石頭が、机を挟んで2つ並んでいる。
石頭が、2つ。
「……石焼き芋が、食べたいなー」
零れた。
2人が、同時にこちらを向いた。
「石焼き?」
「……故郷の、芋の料理です。石を焼いて、その熱で芋をじっくり焼くんです。石が2つあると、よく焼けるので」
なぜ石の数の話をしたのか、自分でも分からなかった。
ヘルマン様が、眉間のしわを1本増やした。
メルヒオルさんが、無表情のまま、革表紙の手帳に何かを書きつけた。たぶん、また「南の毒見役:」で始まる何かだ。
ヴェラさんは、まっすぐ前を見たまま、一度だけ瞬きをした。
口の端が、ほんの少しだけ動いたように見えた。
気のせいかもしれない。
*
結局、話はこう決まった。
陛下の皿は、南の規定どおり。卓上で私が最終の毒見をして、熱いままお出しする。
殿下の皿は、北の典礼法どおり。ヴェラさんが毒見をして、1時間待ち、冷ましてからお出しする。
同じ卓で。同じ料理を。違う温度で。
「痛み分けだな」
ヘルマン様が、懐中時計を閉じた。
「痛み分けですね」
メルヒオルさんが、砂時計を胸元にしまった。
2人は、同時に立ち上がり、同時に30度だけ頭を下げた。
執務室を出る直前、メルヒオルさんが振り返った。
「侍従長殿。ひとつ、お願いがございます」
「何か」
「南の厨房で使っておられる油の一覧を、いただけませんでしょうか。北の典礼法では、殿下のお食事に使われうる油を、すべて把握しておく決まりがございますので」
ヘルマン様は、少し考えてからうなずいた。
「料理長に、書かせよう」
「恐れ入ります」
メルヒオルさんは、もう一度30度だけ頭を下げて、出ていった。
隣で、ヴェラさんが、ほんの一瞬だけメルヒオルさんの背中を見ていた。
*
廊下に出ると、ヴェラさんが私の少し前を歩いていた。
灰色の外套の背中が、まっすぐだった。
「ヴェラさん」
呼び止めると、ヴェラさんは足を止めた。振り返らなかった。
「9年前に、何があったんですか」
ヴェラさんは、しばらく黙っていた。
「……典礼法第12条は、9年前に加えられました」
それは、さっき聞いた。
「それだけです」
「それだけ、じゃないですよね」
ヴェラさんは、何も答えなかった。
ただ、白い手袋をはめた手を、体の前でぎゅっと組んだ。
「確認しました」
それだけ言って、ヴェラさんは歩いていった。
何を確認したのか、今日も分からなかった。
でも、ひとつだけ分かったことがある。
あの人は、9年前のことを、知っている。
*
——同じ夜、北の客間では。
メルヒオルは、燭台の下で1枚の紙を広げていた。
夕方、南の料理長から届いたものだった。大きな角張った字で、厨房で使う油が並べてある。
バター
豚の脂
牛の脂
オリーブの油
菜種の油
木の実の油(食料庫。殿下の滞在中は使わない)
最後の行の、括弧の中の字だけが、ほかより少し小さかった。
メルヒオルは、その行を指でなぞった。
それから、紙をきちんと4つに折り、典礼法の革表紙の間に挟んだ。
胸元の砂時計を取り出し、ひっくり返した。
砂が、さらさらと落ちはじめた。




