第32話 水餃子と焼き餃子
朝、厨房に下りると、煙が充満していた。
「ボグダンさん、火事ですか」
「違います、燻してるんです」
塩の壺の向こう側、北の陣地のかまどの上に、木箱がひとつ載っていた。隙間から、もうもうと煙が漏れている。中には、塩漬けにした蕪が並んでいた。
「大使閣下の、イブリガッコです」
「……作り方、分かったんですか」
「分かりません。燻して、漬ければいいんですよね」
ボグダンさんは、木箱の蓋を開けた。煙の向こうから、真っ黒な蕪が出てきた。
ひとつ取って、かじる。ボグダンさんの顔が、ゆっくりと歪んだ。
「……炭です」
「炭ですね」
「閣下には、これで3回目の失敗だと言わないでください」
3回目だったらしい。
厨房の奥で、ガストーネさんが黙って窓を開けた。
*
昼過ぎ、ボグダンさんが北の料理を作りはじめた。
小麦粉を水でこね、薄くのばして、丸く型で抜く。豚の挽き肉に、刻んだ玉ねぎと香草を混ぜたものを、真ん中にひと匙。半分に折って、縁をつまんで閉じる。閉じたものの両端をくるりと合わせて、小さな帽子のような形にする。
それを、沸き立つ湯に次々と落としていった。
「ピェルカといいます。北では冬のあいだにこれを何百個も作って、雪の中に埋めて凍らせておくんです」
浮かんできたものを、穴あき匙ですくう。器に盛って、溶かしバターと酸っぱい乳をかけ、刻んだディルを散らす。
私は、器を見下ろした。
皮に包まれた、ひと口大の肉の包み。茹でてある。
「……水餃子だ」
「スイギョウザ?」
「故郷にも、似たものがあるんです。皮で肉を包んで、茹でる料理」
ボグダンさんの目が、輝いた。
「南にもあるんですか!」
「南、というか、故郷の……はい。それに、茹でるだけじゃなくて、焼くのもあります」
「焼く?」
厨房の全員が、こちらを向いた。
冬の食堂で陛下に話した、頭の中の再現表を思い出した。たこ焼き、お好み焼き、唐揚げ。その次に並べた、あの名前。
「焼き餃子、というんです。フライパンで底をこんがり焼いて、水を入れて蒸し焼きにする。底はかりっと、上はもちっと。それから、底に薄い羽根がつくんです」
「羽根?」
「羽根です。ぱりぱりの」
ボグダンさんは、しばらく自分のピェルカを見つめていた。
「……皮を、焼く」
北の料理人にとって、それは考えたこともない発想らしかった。
「オルカ。やりましょう」
*
皮は、マルタさんが引き受けた。
「パン屋に皮を任せたら、そりゃもう、薄くていいのを作るわよ」
マルタさんは、腕まくりをして生地をこね始めた。ボグダンさんの皮より、少しだけ水を多く。熱い湯で練って、休ませる。それから、麺棒で、向こうが透けるほど薄くのばした。
「焼くなら、これくらい薄くないとね」
「どうして分かるんですか」
「パン屋の勘よ」
餡は、ボグダンさんが作った。豚の挽き肉に、キャベツと、ねぎと、生姜。それから、私の頼みで、にんにくを少し。
「にんにくを、生で?」
「焼くと、いい匂いになるんです」
包む段になって、問題が起きた。
焼き餃子の包み方は、ピェルカとは違う。半月の形にして、縁に、ひだを寄せていく。前世で見たことはある。やったことはない。
「ひだは、片側だけに。こう、つまんで、寄せて、つまんで、寄せて」
私は、手で空中にひだを作ってみせた。
ガストーネさんが、大きな手で皮を取った。餡を載せ、半分に折る。太い指が、縁をつまみ、寄せ、つまみ、寄せていく。5つのひだが、きれいに並んだ。
ぴしりと、背筋の伸びた餃子だった。
ティモが、真似をして皮を取った。餡を載せすぎて、閉じられなかった。皮が破れて、餡がはみ出した。
「……これ、何ですか」
「被告人、はみ出た何か」
「判決はいいです」
それから、大理石の台のほうから、ルネさんがやってきた。
「ひだ、と言ったね」
「はい」
「ひだは、芸術だ」
嫌な予感がした。
ルネさんは、皮を1枚取り、餡を載せた。長い指が、縁をつまむ。寄せる。つまむ。寄せる。つまむ。寄せる。
手が、止まらなかった。
できあがった餃子には、ひだが14本あった。縁がぎっしりと波打って、もはや餃子というより、小さな扇か、貝殻だった。
ひだの本数は、仕様書で決まっている。少なくとも、私の頭の中の仕様書では5本だ。
心の中で、14本のひだを1本ずつ数えて、うち9本に赤い不良札を下げた。
「どうだね」
「……被告人、ひだの多い何か。判決、執行猶予」
「なぜだ!」
「ひだが多すぎて、縁だけ皮が4枚重ねになってます。焼くと、そこだけ生焼けになります」
「芸術には、過剰さが必要なのだ」
「過剰な芸術は、ただのバ……バランスの悪いひだです」
ルネさんは、14本ひだの餃子をじっと見つめた。それから、黙って7本のひだの餃子を作った。
7本でも、料理長より2本多かった。
*
熱した平鍋に、油をひく。
餃子を、ひだを上にして、円を描くように並べていく。じゅう、と底が焼ける音。
「底に焼き色がついたら、水を入れます。小麦粉を少しだけ溶いた水を」
「小麦粉を?」
「それが、羽根になるんです」
ボグダンさんが、白く濁った水を、鍋の縁から回し入れた。
じゅわあああっ。
大きな音と一緒に、湯気が噴き上がった。すかさず、ガストーネさんが蓋をする。
蓋の下で、ばちばちと油の弾ける音が続いた。
しばらくして、音が変わった。ぱちぱち、という小さな音になる。
「蓋を、取ってください」
蓋を取ると、湯気が晴れた。
鍋の底いっぱいに、薄く白い膜が張っていた。それが、見る見るうちに、縁のほうからきつね色に変わっていく。ぱちぱちと、細かい泡を立てながら。
「……羽根が、できていく」
ティモが、息を呑んだ。
膜が全体にきつね色になったところで、ボグダンさんが大皿を鍋にかぶせた。
「ひっくり返してください」
言い終わる前に、ボグダンさんは鍋ごと大皿を返していた。
鍋を持ち上げる。
大皿の上に、きつね色の円盤が現れた。
薄くぱりぱりの羽根が、餃子を1つにつないでいる。その上に、こんがりと焼けた餃子の底が、きれいな円を描いて並んでいた。
ガストーネさんの5本ひだ。ルネさんの7本ひだ。ティモの、はみ出た何か。
「……できた」
声が、かすれた。
前世の、駅前の町中華。カウンターだけの、油で床がすべる店。ラーメンと半チャーハンと、焼き餃子。仕事帰りに、ひとりで頼んだ定食の、あの円盤だった。
*
たれは、酢と魚醤。そこに、薬草庫の火の実を油で煮出した赤い油を数滴。
手袋を外した。
「被告人、焼き餃子。罪状、毒物混入の疑い」
見る。底、均一なきつね色。羽根、薄く、向こうが見えるほど。上の皮は半透明で、中の餡がうっすら透けている。
嗅ぐ。焼けた小麦。豚の脂。にんにくと生姜。
箸がないので、フォークで羽根ごとひとつ切り離す。
ぱりっ。
羽根が、音を立てて割れた。
たれにつけて、口に入れる。
まず、羽根のぱりぱり。それから、底のかりっとした焼き目。その上の皮は、もっちりと柔らかい。噛んだ瞬間、中から熱い肉汁があふれ出した。豚の甘い脂、キャベツの水気、生姜の香り、にんにくの香ばしさ。酢の酸味が脂を切り、赤い油の辛みが後から追いかけてくる。
「はふっ」
熱い。肉汁が、熱い。
「……舌の奥で、3つ数えます。1、2、3。容疑者、なし」
マルタさんとボグダンさんが、並んで私を見ていた。
「判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
「やったわね!」
「オルカ!」
マルタさんとボグダンさんが、手を打ち合わせた。
南のパン職人と、北の料理人。皮と、餡。
ティモが、再現表の板に駆け寄った。
餃子:完全無罪(マルタさん、ボグダンさん) 羽根つき
ルネさんが、その下に何か書き足そうとして、ティモに止められていた。たぶん、「ひだ:ルネ」と書きたかったのだと思う。
*
夕方、毛皮の帽子が、厨房の入口に現れた。
「ボグダン! 今日の北の料理は何だ!」
「ピェルカと……それから、これです、閣下」
ボグダンさんは、羽根つきの焼き餃子の皿を差し出した。
大使は、皿を見て、眉をひそめた。
「なんだ、これは。ピェルカを焼いたのか。南の真似事か」
「南と北の、合作です」
「合作だと? ピェルカは茹でるものだ。焼くなど、北の男の料理ではない」
北の男、北の男。この人の「北の男」は、たいてい南の料理に手を伸ばす直前に出てくる。
前世の工場にも、「男は黙って塩むすび」が口癖の工場長がいた。机の引き出しは、いつも甘い焼き菓子でいっぱいだった。
そう言いながら、大使はフォークを取っていた。
羽根ごと切り離す。ぱりっ。口に入れる。
大使の動きが、止まった。
厨房の全員が、大使の顔を見ていた。マルタさんが、黒板の前でチョークを構えていた。「薄い」の回数を数える準備だ。
大使は、黙って噛んでいた。
飲み込んだ。
もうひとつ、羽根ごと切り離した。口に入れた。噛んだ。
「…………」
何も言わなかった。
3つ目。4つ目。5つ目。
大皿の上の円盤が、半分なくなったところで、大使はようやくフォークを置いた。
「……うまい」
小さな声だった。
厨房が、静まり返った。
マルタさんが、チョークを持ったまま固まっていた。
「薄い、じゃないんですか」
私が訊くと、大使は帽子を直しながら、そっぽを向いた。
「……薄いと言う暇がなかった」
マルタさんの統計が、はじめて崩れた。
マルタさんは、黒板に1行書き足した。『黙る』=『すごくうまい』。統計は、すぐに立ち直った。
*
王女の夕食に、焼き餃子を出すかどうかで、少しもめた。
禁止表の37番。南の国の料理全般。
「中身は、北のピェルカと同じです。皮も、北と同じ小麦です。焼いただけです」
ボグダンさんが、ヴェラさんの前で言った。
「焼いただけ、なので、北の料理です」
どこかで聞いた理屈だった。私が、ヘルマン様の前で何度も使ってきた種類の理屈だ。
ヴェラさんは、しばらくボグダンさんを見ていた。
それから、銀の針を抜いた。焼き餃子に刺す。かざす。曇りなし。
ひとつ、口に含んだ。
羽根の、ぱりっという小さな音がした。
3つ数えるほどの間。
そこから、さらに、2つ数えるほどの間。
ヴェラさんは、手巾に吐き出した。
「……可」
いつもより、2秒長かった。
私は、数えていた。たぶん、ボグダンさんも数えていた。
皿は、小卓に移された。1時間後に、客間へ運ばれる。
1時間後の焼き餃子は、羽根がしんなりと湿って、もうぱりっとは言わないだろう。それを思うと、少しだけ胸が痛んだ。
*
——同じ夜、王城の客間では。
エレオノーラの前に、1時間待った皿が置かれた。
見たことのない料理だった。ピェルカに似ているけれど、底が茶色く焼けている。皿の縁に、薄い膜のようなものが、しんなりとくっついていた。
「北の料理人と、南の厨房の合作だそうです」
侍女が、小声で言った。
エレオノーラは、フォークでひとつ取った。冷めていた。底の焼き目も、少し湿っている。
口に入れた。
冷めた肉汁が、じわりとにじんだ。北のピェルカの味がした。でも、底のところだけが、少し香ばしかった。
エレオノーラは、もうひとつ取った。
皿の縁に、しんなりした膜の切れ端が残っていた。その端の、ほんの少しだけが、まだ乾いていた。
フォークの先でつまんで、口に入れた。
ぱりっ。
小さな、小さな音がした。
エレオノーラは、しばらく動かなかった。
それから、3つ目を取った。




