第31話 紅蕪のスープ
翌朝、厨房の棚の一番奥を見に行くと、琥珀色の油の壺は消えていた。
前に並べてあった壺を2つどけても、ない。棚の裏も覗いた。ない。
「ガストーネさん。ここにあった油の壺、どこにやりました?」
鍋を磨いていたガストーネさんは、手を止めずに答えた。
「食料庫」
「どうしてですか」
「ん」
それだけだった。
理由を言わない「ん」。12年聞いてきた中でも、いちばん扉の固い「ん」だった。
食料庫の鍵は、料理長しか持っていない。毒見役が管理しているのは、薬草庫のほうだ。
手順を、また飛ばされた。今度は、私のせいではなく。
保管場所を無断で変えるのは、前世なら是正処置の対象だ。変更届の理由の欄に「ん」と書いて通る職場など、どこにもない。
この厨房を除けば。
*
昼前、厨房の入口に、見慣れない男が立っていた。
がっしりした体つきに、短く刈った赤茶色の髪。腕まくりした前腕に、火傷の跡がいくつもある。背中に、大きな布の包みを背負っていた。
「ヴォルスカ使節団の料理人、ボグダンです。今日から、厨房の半分をお借りします」
はきはきした声だった。大使ほど大きくはない。ちょうどいい大きさの声だった。
厨房の空気が、ぴんと張りつめた。
ガストーネさんが、鍋を磨く手を止めた。
ボグダンさんが、背中の包みを下ろした。中から使いこまれた鉄鍋と包丁が3本、それに何かの根菜がごろごろと出てきた。
2人の料理人が、作業台を挟んで向かい合った。
片や、灰色の口ひげの熊。片や、赤茶色の髪の若い熊。
厨房の熊が、2頭になった。鍛冶場のゴドーさんを入れると、城の熊は3頭だ。
誰も、何も言わなかった。
マルタさんが、黒板にそっとチョークを走らせていた。
【本日の賭け】
厨房の縄張り 南が7割 2倍
厨房の縄張り 半分ずつ 3倍
厨房の縄張り 北が7割 10倍
どちらかが包丁を抜く 20倍
「最後の、賭けないでください」
「統計よ」
ガストーネさんが、ゆっくりと作業台の端まで歩いていった。それから作業台の真ん中に、塩の壺をひとつ、ことりと置いた。
「ん」
ここから、こっち。そういう意味らしかった。
ボグダンさんは、塩の壺を見て、ガストーネさんを見た。
それから、にかっと笑った。
「オルカ」
北の言葉だった。あとで聞いたら、「よし」とか「いいね」とか、そういう意味らしい。
ボグダンさんは、塩の壺のこちら側に、自分の鉄鍋を置いた。
ちょうど、半分だった。
マルタさんが、黒板の「半分ずつ」に丸をつけた。
「つまらないわね」
「平和でいいじゃないですか」
*
ボグダンさんは、手早かった。
包みから出てきた根菜は、紅蕪だった。この国ではあまり見ない。拳くらいの大きさで、皮をむくと、中まで濃い赤紫色をしている。包丁を入れると、まな板が血のように赤く染まった。
ティモが、樽の陰から出てきかけて、また戻った。
「血、ですか」
「蕪よ。ボルシ……いえ、北の蕪」
危なかった。前世の料理の名前を、そのまま口にしかけた。
紅蕪を細く切る。玉ねぎ、人参、キャベツ。牛のすね肉を煮出したスープに、全部を入れて煮込んでいく。途中で、酢をひと回し。
「酢を入れると、色が抜けないんです」
ボグダンさんが、私のほうを見て言った。
「南の毒見役さん、ですよね。噂は聞いてます。判決が長い人」
「……北まで届いてるんですか」
「使節団の中で。大使が、毎晩話してますから。『南の毒見役が、親子を煮た』って。それと、ティモくんの帳面の写しも。随員が北の言葉に訳して、回し読みしてます」
「……ティモ」
樽の陰で、帳面がぱたんと閉じる音がした。
親子は煮ていない。煮たのはガストーネさんで、しかも赤の他人だ。
鍋の中が、深い赤に染まっていった。湯気に、甘酸っぱい匂いが混ざる。
ボグダンさんは、黒くて重そうなパンを切り分けた。断面は茶色で、目が詰まっている。それから、薄く切った燻製の魚。
最後に、器によそったスープの真ん中に、白いものを匙でぽとりと落とした。
「酸っぱい乳です。北では、これがないと紅蕪のスープになりません」
赤いスープの真ん中に、白い雲がひとつ浮かんでいた。その上に、刻んだ香草が散らしてある。
「南の舌に、食べてもらいたくて」
ボグダンさんは、器を私の前に置いた。
「判決、出してもらえますか」
*
手袋を外した。
「被告人、紅蕪のスープ。罪状、毒物混入の疑い」
ボグダンさんが、背筋を伸ばした。厨房の全員が、作業台の周りに集まってきた。ガストーネさんは、塩の壺のこちら側で、腕を組んでいた。
見る。深い赤紫。底まで透けない濃さ。表面に、牛の脂が小さな粒になって浮いている。真ん中の白い乳が、縁から少しずつ赤に溶け出している。
嗅ぐ。紅蕪の、土の甘い匂い。酢の酸っぱさ。牛の骨と肉。それから、香草。これは、ディルだ。
「容疑者、血赤茸。煮ると汁が赤く染まる毒茸です。しかし、血赤茸の汁は鉄のような匂いがする。この赤は、土と甘みの匂い。紅蕪の赤です」
含む。
熱い。
まず、甘い。紅蕪の、根菜らしいやさしい甘み。それを、酢の酸味がすぐに追いかけてくる。甘くて、酸っぱくて、その奥に牛のスープの旨みがどっしりと座っている。
匙で、白い乳を崩して混ぜる。スープが淡い桃色に変わった。もうひと口。酸っぱい乳のまろやかさが、酢の尖りを丸くする。キャベツがくたりと甘く、すね肉は筋までほろりとほどけた。
前世で、一度だけ食べたことがある。会社の近くにあった、小さなロシア料理の店。冬の寒い夜に、ボルシチを頼んだ。赤いスープに、白いサワークリーム。
あの夜は、ひとりだった。
黒パンをちぎって、スープに浸す。酸っぱくて、重くて、噛むほどに麦の香りがする。前世のライ麦パンより、もっと野性的な味だ。燻製の魚は、樫ではなく、もっと甘い木で燻してあった。脂がのって、塩がきつい。スープの酸味と合わせると、ちょうどよかった。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3」
ボグダンさんが、息を止めていた。
「判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
ボグダンさんの顔が、ぱっと明るくなった。
「オルカ!」
両手を突き上げて叫んだ。厨房に、拍手が起きた。マルタさんが「北の料理に完全無罪、初!」と黒板に書き足した。
ガストーネさんが、塩の壺のこちら側から、黙って手を伸ばした。
ボグダンさんが、何も言わずに、ガストーネさんの分をよそった。
ガストーネさんは、ひと匙すすって、しばらく黙っていた。
「……ん」
ボグダンさんが、私を見た。
「今の『ん』は、どういう意味ですか」
「『うまい、だが酢がひと回し多い』の『ん』です」
ボグダンさんは、しばらくガストーネさんの顔を見ていた。それから、大きくうなずいた。
「……自分も、そう思ってました。今日の酢は、南の酢だったので」
ガストーネさんが、うなずいた。
2人の熊が、塩の壺を挟んで、同時にうなずいた。
マルタさんが、黒板の「どちらかが包丁を抜く 20倍」を、そっと消した。
*
昼過ぎ、厨房の入口に、灰色の外套が現れた。
ヴェラさんだった。
王女の昼食を検めに来たのだ。ボグダンさんが、王女の分の紅蕪のスープを、小さな鍋に取り分けていた。
ヴェラさんは、鍋の前に立った。腰の筒から銀の針を抜き、スープに浸す。引き上げて、かざす。曇りなし。
匙で、ひと口だけ含む。
3つ数えるほどの間。
手巾に、吐き出す。
「可」
それだけだった。
さっき、私が同じスープに費やした言葉は、たぶん200字を超えていた。
ヴェラさんは、鍋に蓋をして、脇の小卓に移した。そこから1時間、鍋は待つことになる。
「あの」
私は、思わず声をかけていた。
「ヴェラさんは、このスープ、どう思いました?」
ヴェラさんは、私のほうを見た。
「毒はありません」
「そうじゃなくて。味です。おいしかったとか、酸っぱかったとか」
「毒見役は、味わってはなりません」
まっすぐな声だった。
「毒見は、味を見るものではありません。毒を見るものです。味を見れば、舌が鈍ります。舌が鈍れば、毒を見落とします」
今日いちばん長い文だった。
最長記録が、また更新された。
「南の毒見役は、料理を味わいすぎです」
そう言い残して、ヴェラさんは厨房を出ていった。
残された私は、手の中の匙を見下ろした。
味わいすぎ。
前世の品質保証部で、官能検査の講習を受けたことがある。味を見る人間は、好き嫌いを持ちこんではいけない。おいしいと思った瞬間、判断が甘くなる。講師はそう言っていた。
ヴェラさんの言っていることは、間違っていない。
間違っていない、けれど。
*
「おお、ここか!」
大きな声と一緒に、毛皮の帽子が厨房に入ってきた。
ラドミール大使だった。昨日宣言したとおり、検分に来たらしい。
「ボグダン! 紅蕪のスープはできたか! 南の連中に、北の男の味を見せてやれ!」
大使は、ボグダンさんが差し出した器をひったくるように受け取り、ひと口すすった。
「これだ! これぞ北の味! 南の薄い料理とは、腹の座り方が違う!」
そう叫びながら、大使の目は、作業台の端に置かれた別の器に向いていた。今朝の賄いの残りの、親子丼だった。
「……で、あれは何だ」
「今朝の賄いの、残りです」
「残りか。南の料理は、残りまで薄いのだろうな」
大使は、紅蕪のスープを左手に持ったまま、右手で親子丼の器を引き寄せた。
交互に食べはじめた。
スープ。親子丼。スープ。親子丼。北の味と南の味を、ひとりで行ったり来たりしている。
「どっちなんですか」
「どっちも薄い!」
どっちも完食していた。
この人の胃袋には、国境がない。しかも、底もない。毛皮の帽子の下で、いつも何かを食べている。この胃袋大使——
「……いぶ、いぶりがっこが、食べたいなー」
零れた。
大使が、親子丼の匙を止めた。
「イブリガッコ?」
「……故郷の、漬物です。大根を、燻して漬けるんです」
「燻す?」
大使の目が、きらりと光った。
「燻すのか! 南にも、燻す料理があるのか!」
「ありま……ありました。故郷の、北のほうで」
「北のほう!」
大使は、ボグダンさんのほうを振り返った。
「ボグダン、イブリガッコを作れ! 燻した漬物だ! 北の男の漬物だ!」
「材料が分かりません、閣下」
「南の毒見役に聞け!」
ボグダンさんが、困った顔で私を見た。
私も、困った顔でボグダンさんを見た。いぶりがっこの作り方なんて、知るわけがない。前世の私が知っていたのは、スーパーの漬物売り場の、袋の裏の原材料表示だけだ。
厨房の奥で、ガストーネさんが「……ん」と言った。
面倒なことになったな、の「ん」だった。
*
1時間後。王女の昼食が、客間へ運ばれていった。
小卓の上で1時間待った紅蕪のスープだった。私は、廊下ですれ違った。
鍋の蓋の隙間から、湯気は出ていなかった。
厨房に戻ると、ボグダンさんが、空になった自分の鉄鍋を洗っていた。
「殿下は、今日のスープ、召し上がりましたか」
ボグダンさんは、少しだけ手を止めた。
「……さあ。自分は、殿下が食べているところを、見たことがないので」
「一度も?」
「一度も。北の城では、料理人は王族の食卓に近づけません。作って、毒見役に渡して、それで終わりです」
ボグダンさんは、鉄鍋を拭きながら、ぽつりと言った。
「紅蕪のスープは、熱いうちが命なんです。冷めると、酢が尖って、乳が分離する。……でも、殿下が召し上がるのは、いつも冷めたものです。熱い紅蕪のスープを、殿下は、たぶん一度も食べたことがない」
厨房が、少し静かになった。
ガストーネさんが、塩の壺の向こう側から、ボグダンさんを見ていた。
知っている顔だった。
5年間、冷めたスープを3階に送り続けた料理長の顔だった。
「……ん」
ガストーネさんはそれだけ言って、ボグダンさんの鉄鍋の隣に自分の大鍋を並べて置いた。
ボグダンさんは、少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「オルカ」
*
——同じ夜、誰もいない厨房では。
灯りの落ちた厨房に、灰色の外套の女がひとり、立っていた。
作業台の上に、小さな鍋がひとつ残っていた。ボグダンが、明日の賄い用に取り分けておいた紅蕪のスープだ。かまどの残り火の脇に置かれていて、まだ、ほんのりと温かかった。
ヴェラは、しばらく鍋を見下ろしていた。
それから、手袋を外した。
棚から小さな匙を取り、スープをひとすくいした。
針は、使わなかった。
口に含む。
3つ数えるほどの間。
ヴェラは、手巾を取り出しかけて、止めた。
そのまま、飲み込んだ。
温かいものが、喉を通って、胸の奥へ落ちていった。
ヴェラは、匙を洗って棚に戻し、手袋をはめ直した。
誰にも見られていないことを確かめてから、厨房を出ていった。
壁際の黒板に、マルタの字で書かれた一行が、月明かりに白く浮かんでいた。
北の料理に完全無罪、初!




