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毒見役に転生した私、12年間一度も毒に当たらないので、ただの食レポ係だと思われています  作者: 中原九尾
第二部 本日、北より客あり

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第31話 紅蕪のスープ

 翌朝、厨房の棚の一番奥を見に行くと、琥珀色の油の壺は消えていた。


 前に並べてあった壺を2つどけても、ない。棚の裏も覗いた。ない。


「ガストーネさん。ここにあった油の壺、どこにやりました?」


 鍋を磨いていたガストーネさんは、手を止めずに答えた。


「食料庫」


「どうしてですか」


「ん」


 それだけだった。


 理由を言わない「ん」。12年聞いてきた中でも、いちばん扉の固い「ん」だった。


 食料庫の鍵は、料理長しか持っていない。毒見役が管理しているのは、薬草庫のほうだ。


 手順を、また飛ばされた。今度は、私のせいではなく。


 保管場所を無断で変えるのは、前世なら是正処置の対象だ。変更届の理由の欄に「ん」と書いて通る職場など、どこにもない。


 この厨房を除けば。


   *


 昼前、厨房の入口に、見慣れない男が立っていた。


 がっしりした体つきに、短く刈った赤茶色の髪。腕まくりした前腕に、火傷の跡がいくつもある。背中に、大きな布の包みを背負っていた。


「ヴォルスカ使節団の料理人、ボグダンです。今日から、厨房の半分をお借りします」


 はきはきした声だった。大使ほど大きくはない。ちょうどいい大きさの声だった。


 厨房の空気が、ぴんと張りつめた。


 ガストーネさんが、鍋を磨く手を止めた。


 ボグダンさんが、背中の包みを下ろした。中から使いこまれた鉄鍋と包丁が3本、それに何かの根菜がごろごろと出てきた。


 2人の料理人が、作業台を挟んで向かい合った。


 片や、灰色の口ひげの熊。片や、赤茶色の髪の若い熊。


 厨房の熊が、2頭になった。鍛冶場のゴドーさんを入れると、城の熊は3頭だ。


 誰も、何も言わなかった。


 マルタさんが、黒板にそっとチョークを走らせていた。


 【本日の賭け】

  厨房の縄張り 南が7割 2倍

  厨房の縄張り 半分ずつ 3倍

  厨房の縄張り 北が7割 10倍

  どちらかが包丁を抜く 20倍


「最後の、賭けないでください」


「統計よ」


 ガストーネさんが、ゆっくりと作業台の端まで歩いていった。それから作業台の真ん中に、塩の壺をひとつ、ことりと置いた。


「ん」


 ここから、こっち。そういう意味らしかった。


 ボグダンさんは、塩の壺を見て、ガストーネさんを見た。


 それから、にかっと笑った。


「オルカ」


 北の言葉だった。あとで聞いたら、「よし」とか「いいね」とか、そういう意味らしい。


 ボグダンさんは、塩の壺のこちら側に、自分の鉄鍋を置いた。


 ちょうど、半分だった。


 マルタさんが、黒板の「半分ずつ」に丸をつけた。


「つまらないわね」


「平和でいいじゃないですか」


   *


 ボグダンさんは、手早かった。


 包みから出てきた根菜は、紅蕪だった。この国ではあまり見ない。拳くらいの大きさで、皮をむくと、中まで濃い赤紫色をしている。包丁を入れると、まな板が血のように赤く染まった。


 ティモが、樽の陰から出てきかけて、また戻った。


「血、ですか」


「蕪よ。ボルシ……いえ、北の蕪」


 危なかった。前世の料理の名前を、そのまま口にしかけた。


 紅蕪を細く切る。玉ねぎ、人参、キャベツ。牛のすね肉を煮出したスープに、全部を入れて煮込んでいく。途中で、酢をひと回し。


「酢を入れると、色が抜けないんです」


 ボグダンさんが、私のほうを見て言った。


「南の毒見役さん、ですよね。噂は聞いてます。判決が長い人」


「……北まで届いてるんですか」


「使節団の中で。大使が、毎晩話してますから。『南の毒見役が、親子を煮た』って。それと、ティモくんの帳面の写しも。随員が北の言葉に訳して、回し読みしてます」


「……ティモ」


 樽の陰で、帳面がぱたんと閉じる音がした。


 親子は煮ていない。煮たのはガストーネさんで、しかも赤の他人だ。


 鍋の中が、深い赤に染まっていった。湯気に、甘酸っぱい匂いが混ざる。


 ボグダンさんは、黒くて重そうなパンを切り分けた。断面は茶色で、目が詰まっている。それから、薄く切った燻製の魚。


 最後に、器によそったスープの真ん中に、白いものを匙でぽとりと落とした。


「酸っぱい乳です。北では、これがないと紅蕪のスープになりません」


 赤いスープの真ん中に、白い雲がひとつ浮かんでいた。その上に、刻んだ香草が散らしてある。


「南の舌に、食べてもらいたくて」


 ボグダンさんは、器を私の前に置いた。


「判決、出してもらえますか」


   *


 手袋を外した。


「被告人、紅蕪のスープ。罪状、毒物混入の疑い」


 ボグダンさんが、背筋を伸ばした。厨房の全員が、作業台の周りに集まってきた。ガストーネさんは、塩の壺のこちら側で、腕を組んでいた。


 見る。深い赤紫。底まで透けない濃さ。表面に、牛の脂が小さな粒になって浮いている。真ん中の白い乳が、縁から少しずつ赤に溶け出している。


 嗅ぐ。紅蕪の、土の甘い匂い。酢の酸っぱさ。牛の骨と肉。それから、香草。これは、ディルだ。


「容疑者、血赤茸。煮ると汁が赤く染まる毒茸です。しかし、血赤茸の汁は鉄のような匂いがする。この赤は、土と甘みの匂い。紅蕪の赤です」


 含む。


 熱い。


 まず、甘い。紅蕪の、根菜らしいやさしい甘み。それを、酢の酸味がすぐに追いかけてくる。甘くて、酸っぱくて、その奥に牛のスープの旨みがどっしりと座っている。


 匙で、白い乳を崩して混ぜる。スープが淡い桃色に変わった。もうひと口。酸っぱい乳のまろやかさが、酢の尖りを丸くする。キャベツがくたりと甘く、すね肉は筋までほろりとほどけた。


 前世で、一度だけ食べたことがある。会社の近くにあった、小さなロシア料理の店。冬の寒い夜に、ボルシチを頼んだ。赤いスープに、白いサワークリーム。


 あの夜は、ひとりだった。


 黒パンをちぎって、スープに浸す。酸っぱくて、重くて、噛むほどに麦の香りがする。前世のライ麦パンより、もっと野性的な味だ。燻製の魚は、樫ではなく、もっと甘い木で燻してあった。脂がのって、塩がきつい。スープの酸味と合わせると、ちょうどよかった。


「舌の奥で3つ数えます。1、2、3」


 ボグダンさんが、息を止めていた。


「判決。——完全無罪。本日も、毒なし」


 ボグダンさんの顔が、ぱっと明るくなった。


「オルカ!」


 両手を突き上げて叫んだ。厨房に、拍手が起きた。マルタさんが「北の料理に完全無罪、初!」と黒板に書き足した。


 ガストーネさんが、塩の壺のこちら側から、黙って手を伸ばした。


 ボグダンさんが、何も言わずに、ガストーネさんの分をよそった。


 ガストーネさんは、ひと匙すすって、しばらく黙っていた。


「……ん」


 ボグダンさんが、私を見た。


「今の『ん』は、どういう意味ですか」


「『うまい、だが酢がひと回し多い』の『ん』です」


 ボグダンさんは、しばらくガストーネさんの顔を見ていた。それから、大きくうなずいた。


「……自分も、そう思ってました。今日の酢は、南の酢だったので」


 ガストーネさんが、うなずいた。


 2人の熊が、塩の壺を挟んで、同時にうなずいた。


 マルタさんが、黒板の「どちらかが包丁を抜く 20倍」を、そっと消した。


   *


 昼過ぎ、厨房の入口に、灰色の外套が現れた。


 ヴェラさんだった。


 王女の昼食を検めに来たのだ。ボグダンさんが、王女の分の紅蕪のスープを、小さな鍋に取り分けていた。


 ヴェラさんは、鍋の前に立った。腰の筒から銀の針を抜き、スープに浸す。引き上げて、かざす。曇りなし。


 匙で、ひと口だけ含む。


 3つ数えるほどの間。


 手巾に、吐き出す。


「可」


 それだけだった。


 さっき、私が同じスープに費やした言葉は、たぶん200字を超えていた。


 ヴェラさんは、鍋に蓋をして、脇の小卓に移した。そこから1時間、鍋は待つことになる。


「あの」


 私は、思わず声をかけていた。


「ヴェラさんは、このスープ、どう思いました?」


 ヴェラさんは、私のほうを見た。


「毒はありません」


「そうじゃなくて。味です。おいしかったとか、酸っぱかったとか」


「毒見役は、味わってはなりません」


 まっすぐな声だった。


「毒見は、味を見るものではありません。毒を見るものです。味を見れば、舌が鈍ります。舌が鈍れば、毒を見落とします」


 今日いちばん長い文だった。


 最長記録が、また更新された。


「南の毒見役は、料理を味わいすぎです」


 そう言い残して、ヴェラさんは厨房を出ていった。


 残された私は、手の中の匙を見下ろした。


 味わいすぎ。


 前世の品質保証部で、官能検査の講習を受けたことがある。味を見る人間は、好き嫌いを持ちこんではいけない。おいしいと思った瞬間、判断が甘くなる。講師はそう言っていた。


 ヴェラさんの言っていることは、間違っていない。


 間違っていない、けれど。


   *


「おお、ここか!」


 大きな声と一緒に、毛皮の帽子が厨房に入ってきた。


 ラドミール大使だった。昨日宣言したとおり、検分に来たらしい。


「ボグダン! 紅蕪のスープはできたか! 南の連中に、北の男の味を見せてやれ!」


 大使は、ボグダンさんが差し出した器をひったくるように受け取り、ひと口すすった。


「これだ! これぞ北の味! 南の薄い料理とは、腹の座り方が違う!」


 そう叫びながら、大使の目は、作業台の端に置かれた別の器に向いていた。今朝の賄いの残りの、親子丼だった。


「……で、あれは何だ」


「今朝の賄いの、残りです」


「残りか。南の料理は、残りまで薄いのだろうな」


 大使は、紅蕪のスープを左手に持ったまま、右手で親子丼の器を引き寄せた。


 交互に食べはじめた。


 スープ。親子丼。スープ。親子丼。北の味と南の味を、ひとりで行ったり来たりしている。


「どっちなんですか」


「どっちも薄い!」


 どっちも完食していた。


 この人の胃袋には、国境がない。しかも、底もない。毛皮の帽子の下で、いつも何かを食べている。この胃袋大使——


「……いぶ、いぶりがっこが、食べたいなー」


 零れた。


 大使が、親子丼の匙を止めた。


「イブリガッコ?」


「……故郷の、漬物です。大根を、燻して漬けるんです」


「燻す?」


 大使の目が、きらりと光った。


「燻すのか! 南にも、燻す料理があるのか!」


「ありま……ありました。故郷の、北のほうで」


「北のほう!」


 大使は、ボグダンさんのほうを振り返った。


「ボグダン、イブリガッコを作れ! 燻した漬物だ! 北の男の漬物だ!」


「材料が分かりません、閣下」


「南の毒見役に聞け!」


 ボグダンさんが、困った顔で私を見た。


 私も、困った顔でボグダンさんを見た。いぶりがっこの作り方なんて、知るわけがない。前世の私が知っていたのは、スーパーの漬物売り場の、袋の裏の原材料表示だけだ。


 厨房の奥で、ガストーネさんが「……ん」と言った。


 面倒なことになったな、の「ん」だった。


   *


 1時間後。王女の昼食が、客間へ運ばれていった。


 小卓の上で1時間待った紅蕪のスープだった。私は、廊下ですれ違った。


 鍋の蓋の隙間から、湯気は出ていなかった。


 厨房に戻ると、ボグダンさんが、空になった自分の鉄鍋を洗っていた。


「殿下は、今日のスープ、召し上がりましたか」


 ボグダンさんは、少しだけ手を止めた。


「……さあ。自分は、殿下が食べているところを、見たことがないので」


「一度も?」


「一度も。北の城では、料理人は王族の食卓に近づけません。作って、毒見役に渡して、それで終わりです」


 ボグダンさんは、鉄鍋を拭きながら、ぽつりと言った。


「紅蕪のスープは、熱いうちが命なんです。冷めると、酢が尖って、乳が分離する。……でも、殿下が召し上がるのは、いつも冷めたものです。熱い紅蕪のスープを、殿下は、たぶん一度も食べたことがない」


 厨房が、少し静かになった。


 ガストーネさんが、塩の壺の向こう側から、ボグダンさんを見ていた。


 知っている顔だった。


 5年間、冷めたスープを3階に送り続けた料理長の顔だった。


「……ん」


 ガストーネさんはそれだけ言って、ボグダンさんの鉄鍋の隣に自分の大鍋を並べて置いた。


 ボグダンさんは、少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「オルカ」


   *


 ——同じ夜、誰もいない厨房では。


 灯りの落ちた厨房に、灰色の外套の女がひとり、立っていた。


 作業台の上に、小さな鍋がひとつ残っていた。ボグダンが、明日の賄い用に取り分けておいた紅蕪のスープだ。かまどの残り火の脇に置かれていて、まだ、ほんのりと温かかった。


 ヴェラは、しばらく鍋を見下ろしていた。


 それから、手袋を外した。


 棚から小さな匙を取り、スープをひとすくいした。


 針は、使わなかった。


 口に含む。


 3つ数えるほどの間。


 ヴェラは、手巾を取り出しかけて、止めた。


 そのまま、飲み込んだ。


 温かいものが、喉を通って、胸の奥へ落ちていった。


 ヴェラは、匙を洗って棚に戻し、手袋をはめ直した。


 誰にも見られていないことを確かめてから、厨房を出ていった。


 壁際の黒板に、マルタの字で書かれた一行が、月明かりに白く浮かんでいた。


 北の料理に完全無罪、初!

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