第37話 縁談の噂
唐揚げの夜から、エレオノーラ殿下は毎晩、暖炉の前の卓に着くようになった。
北の典礼法に従って、殿下の皿は毒見のあと蓋をされ、砂時計がひっくり返される。そして、だいたい15分ほど経ったところで、ヴェラさんが黙って蓋を取る。
「毒見は、終わっています」
毎晩、同じ一言だった。
メルヒオルさんは毎晩、何か言いかけては口を閉じる。砂時計を握りしめる手の力が、日に日に強くなっていく気がする。そのうち砂時計が割れるのではないかと、私はひそかに心配している。
そして、城の人たちは、こう噂しはじめた。
陛下と北の王女が、毎晩、同じ卓で夕食を共にしている。
*
噂の出どころは、だいたい分かっていた。
「ティモ」
「ぼく、まだ何も言ってません」
「まだ、って何」
「『陛下と殿下が毎晩一緒に夕食』としか言ってません」
「それを、誰に」
「……給仕の人たちと、洗い場の人たちと、門番さんと、鍛冶屋のゴドーさんと、青い鍋亭のハンナさんと」
「ハンナさんにまで」
「昨日、お使いで港に行ったので」
つまり、城下の港まで届いているということだ。ハンナさんの店は、港の人足たちが毎日昼に集まる場所だ。そこで話された噂は、夕方には港じゅうに広まる。
「……ゴドーさんは、何て?」
「『ん』です」
「それは広まらないわね」
ティモは、帳面を抱えて小さくなっていた。
「ぼく、嘘は言ってません」
「嘘は言ってないのよね。それが一番困るの」
*
厨房の黒板は、もはや黒板の範囲に収まっていなかった。
【本日の賭け】
縁談まとまる 2倍
縁談まとまらない 3倍
そもそも縁談ではない 8倍
(北の随員の参加、歓迎)
黒板の下に、紙が何枚も貼り足されていた。賭けた人の名前が、びっしりと書いてある。南の料理人、給仕、洗い場の少年。その下に、見慣れない字で書かれた名前がいくつも続いていた。北の随員たちだ。
「マルタさん。北の人まで賭けてるんですか」
「国際交流よ」
「賭けで交流しないでください」
「統計よ。人数が多いほど、統計は正確になるの」
この胴元は、ついに国境を越えた。
10日ほど前に私が「そもそも縁談ではない」に置いた銅貨1枚は、今や倍率8倍になっている。ほぼ誰も、私と同じほうに賭けていないということだ。
*
昼前、厨房に、毛皮の帽子が飛びこんできた。
「南の毒見役! 聞いたぞ!」
ラドミール大使だった。今日は帽子が、いつもより少し斜めになっていた。急いで来たらしい。
「縁談だそうだな! 殿下と、こちらの陛下の!」
「噂です」
「噂でもよい! めでたいではないか!」
大使は、作業台をばんと叩いた。上に載っていた人参が3本、床に転がった。
「北と南が、縁で結ばれる! 霜塩の件など、いっぺんに吹き飛ぶわ! 交易条約どころか、両国の永遠の友好だ!」
「大使閣下。殿下は15歳で、陛下は14歳です」
「北では、15歳で婚約する王族など珍しくもない!」
大使は、黒板の前にずかずかと歩いていった。
「わしも賭けるぞ。縁談まとまる、に銀貨5枚!」
「閣下、それは外交上……」
ボグダンさんが青い顔で止めようとしたが、大使はもう、マルタさんの手に銀貨を握らせていた。マルタさんは、黙って受け取っていた。胴元は、相手を選ばない。
「それから、わしは仲人を買って出る! 北と南の縁を取り持つ、大役だ!」
大使は、胸を張った。帽子が、もう少し斜めになった。
私は、床に転がった人参を拾いながら、心の中で毒づいていた。
仲人。14歳と15歳の子供に、仲人。
本人たちに一度も訊かないで、大人が勝手に並べて、勝手に盛り上がって、勝手に賭けている。それで縁が結べるなら、前世の私の親戚の伯母さんは、今ごろ国中の縁を取り持っている。
だいたい、この人は、殿下の禁止表が37品目あることを知っているのだろうか。殿下が毎晩何を食べ、何を残し、どんな顔をしているか、一度でも見たことがあるのだろうか。見ていない。この人が見ているのは、唐揚げと親子丼と、自分の皿だけだ。
黙れ、この仲人帽子——
「……なこう、納豆が、食べたいなー」
零れた。
大使が、振り向いた。
「ナットウ?」
「……故郷の、豆の料理です。煮た豆を、藁に包んで、温かいところに置いておくんです。何日か」
「何日も?」
「はい。そうすると、豆が糸を引くようになります」
「糸?」
大使の顔が、みるみる青くなった。
「それは、腐っておるではないか!」
「腐ってはいません。発酵です」
「同じことだ! 南は、親子を煮て、腐った豆を食うのか!」
「おいしいんです」
「……うまいのか」
「とても」
大使は、しばらく黙っていた。帽子の下で、眉が上がったり下がったりしていた。
「……ボグダン」
「閣下、作り方が分かりません」
「まだ何も言っておらん!」
厨房の奥で、ガストーネさんが「……ん」と言った。また面倒が増えたな、の「ん」だった。
ボグダンさんが大使から押しつけられた宿題は、イブリガッコ、スナギモに続いて、3品目になった。
*
午後、侍従長の執務室に呼ばれた。
ヘルマン様は、机の上で懐中時計を開いたまま、眉間に3本のしわを寄せていた。
「毒見役。城下に、妙な噂が流れている」
「存じております」
「陛下と、北の殿下の、縁談の噂だ」
「出どころも、存じております」
ヘルマン様は、懐中時計を閉じた。
「……見習いか」
「見習いです」
ヘルマン様は、深いため息をついた。
「外交上、縁談の事実はない。交易条約の交渉に、そのような話は一切含まれておらん。私から、北の書記官にもそう伝えた」
「メルヒオルさんは、何と」
「北の宮廷儀礼書では、王族の婚約は国王の勅許を要する。噂で婚約が成ることはない、と」
噂を打ち消すのにも、条文がいるらしい。北の書記官は、たぶん朝の挨拶にも条文番号をつけている。「儀礼書第何条により、おはようございます」。砂時計1回分、4分半かけて。
ヘルマン様は、少し間を置いた。
「……それから、『殿下のお体のことを考えれば、南との縁談はあり得ない』とも言っていた」
「お体の、こと?」
「それ以上は、言わなかった」
ヘルマン様は、懐中時計をもう一度開いた。
「毒見役。君は、殿下の食事を、いちばん近くで見ている。何か、気づいていることはあるか」
私は、少し考えた。
37品目の禁止表。毒のない料理に出る「否」。食料庫に移された、琥珀色の油の壺。9年前に条文になった、典礼法第12条。
まだ、何もつながっていなかった。
「……まだ、判決を出せるほどのことは」
「そうか」
ヘルマン様は、それ以上は訊かなかった。
「判決が出たら、真っ先に私に報告したまえ」
「はい」
*
夜。暖炉の前の卓。
30分の待ち時間に、私は、陛下と殿下の会話に耳を澄ませていた。
盗み聞き、と言われればそれまでだ。でも、角を挟んだ隣の席にいるのだから、聞こえてしまうものは仕方ない。
縁談の噂は、たぶん、2人の耳にも入っている。城中が噂しているのだから。
どんな話をしているのだろう。照れているのだろうか。気まずいのだろうか。
私は、勝手に、姉のような気持ちでどきどきしていた。前世でも今世でも、私に弟はいない。いないけれど、いたらこんな気持ちなのかもしれない。
「……人参は」
ユリウス様が、口を開いた。
「どう切るのが、一番うまいと思う」
「人参、ですか」
殿下が、少し首をかしげた。
「北では、輪切りです。紅蕪のスープに入れるときは、細切りにいたします」
「私は、乱切りが好きだ。父上のスープは、乱切りだった」
「乱切り、というのは」
「斜めに、くるくる回しながら切る。形がばらばらになる」
「ばらばらでは、煮え方がそろわないのでは」
「そろわないのがいい。柔らかいのと、少し固いのが、混ざっている」
殿下は、しばらく考えていた。
「……それは、料理人の手抜きではないのですか」
「違う。料理長に訊いた。わざとだそうだ」
暖炉の前で、ガストーネさんの背中がぴくりと動いた。
殿下は、少しだけ身を乗り出した。
「では、北の輪切りは、手抜きではないのですね」
「輪切りは、輪切りでうまいのだろう」
「おいしいです。煮崩れませんもの」
「では、明日は、輪切りと乱切りを両方入れてもらおう」
「……両方?」
「比べればいい」
殿下は、小さくうなずいた。
それから2人は、人参を指何本分の厚さに切るのが一番うまいかについて、30分のあいだ真剣に話し合っていた。
縁談の話は、ひと言も出なかった。
照れてもいなかった。気まずくもなかった。
ただ、人参の話をしていた。
私は、勝手にどきどきしていた自分が、少し恥ずかしくなった。
この2人は、縁談なんかより、もっと大事な話をしている。冷めた料理をひとりで食べてきた子供が2人、同じ卓で、明日の人参の話をしている。
それは、たぶん、友達というものだ。
*
翌朝、厨房の黒板の前で、私はマルタさんに言った。
「『そもそも縁談ではない』に、もう1枚」
「あら。8倍よ。勝負に出るわね」
「勝負じゃありません。判決です」
マルタさんは、黒板の下の紙に、私の名前をもう一度書き足した。
「それで、2人は昨日、何を話してたの」
「人参の切り方です」
「……人参?」
「輪切りと乱切り、どっちがうまいか。30分」
マルタさんは、しばらく黙っていた。
それから、黒板に1行書き足した。
人参:輪切り派 殿下
人参:乱切り派 陛下
(本日の夕食で決着)
「新しい賭けよ」
「賭けないでください」
「統計よ」
*
その日の夕食の煮込みには、輪切りの人参と乱切りの人参が、ちょうど半分ずつ入っていた。
ガストーネさんとボグダンさんが塩の壺を挟んで、どちらの切り方で何本切るかを無言で揃えたらしい。
判決は、引き分けだった。2人とも、相手の切り方の人参を、先に食べたからだ。
マルタさんは、胴元の総取りを宣言した。
*
——同じ夜、侍従長の執務室では。
「ヘルマン」
寝間着の上に上着を羽織ったユリウスが、執務室の扉の前に立っていた。この1週間で、2度目だった。
「陛下。今宵は、何を」
「縁談とは、何だ」
ヘルマンの懐中時計が、止まった気がした。
「……は」
「城中が、そう言っている。私とエレオノーラ殿下が、縁談だと。見習いのティモまで、そう言っていた。縁談とは、何だ」
ヘルマンは、懐中時計を閉じた。開いた。また閉じた。
「……王宮の規定には、縁談の定義はございません」
「そうか」
「一般には、将来、夫婦となるための話し合いのことを申します」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
「では、違う」
「は」
「私とエレオノーラ殿下は、そういう話はしていない。人参の話をしている」
ヘルマンは、何も言えなかった。
ユリウスは、扉に手をかけた。
「明日は、玉ねぎの話をする。北では、玉ねぎを生で食べるそうだ。辛くないのかと訊いたら、明日教えると言われた」
扉が閉まった。
ヘルマンは、長いこと閉じた扉を見ていた。
それから、机の引き出しから擦り切れた手帳を取り出して、新しいページに、几帳面な字で1行書いた。
——陛下、人参の話をなさる。縁談にあらず。
少し考えて、もう1行書き足した。
——先王陛下と王妃様が初めてお笑いになったのも、林檎の焼き加減のことであった。
ヘルマンは、手帳を閉じた。




