第3話 師匠には勝てない
毒見役に休日はない。
陛下は毎日3回お食事を召し上がる。毒見役は1人しかいない。つまり私は、12年間1日も休んでいない。前世の会社でさえ、年に1回くらいは有給休暇を取らせてくれた。取ったことはないけれど。
だから私の自由時間は、昼の毒見と夜の毒見のあいだの、午後の数時間だけだ。
その日の午後、私は城下の南の外れにある小さな石造りの家の前に立っていた。
手には、ガストーネさんが持たせてくれた焼き菓子の包み。窓辺には、乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされている。
扉を叩く前に、中から声がした。
「足音がうるさいよ。入りな」
まだ叩いてもいない。
*
「差し戻しの話、城下まで届いてるよ」
先代の王宮毒見役、アデライデさんは、狭い台所の卓でハーブティーを淹れながら言った。78歳。白髪をきっちりまとめて、背中は少し曲がっている。目だけが、鷹のように鋭い。
私の師匠だ。そして、この世で唯一、私が口喧嘩で勝てない人間でもある。
「さすが、耳が早いですね」
「あんたのところの見習いが、城門で叫んでたって話だよ。城門の衛兵が酒場で話して、酒場の親父が八百屋に話して、八百屋があたしに話した」
ティモ。あの少年の拡声能力は、ついに城壁を越えたらしい。
「12年で、数えるほどしか差し戻してないくせに。ずいぶん偉そうな顔で報告書を出したそうじゃないか」
「偉そうな顔はしてません」
「してたね。あんたは得意になると、鼻の穴が2割広がる」
「広がりません」
「今も広がってるよ」
私は、とっさに鼻を押さえた。
アデライデさんは、ふんと鼻を鳴らしてハーブティーを置いた。カモミールと、少しのミント。
「で、何しに来たんだい。年寄りの顔を見に来るほど暇じゃないだろう」
「ガストーネさんから、焼き菓子を預かってきました」
「ああ、あの熊かい。相変わらず『ん』しか言わないのかい」
「昨日、3回『ん』と言いました」
「多いね。何かいいことでもあったのかい」
アデライデさんは焼き菓子の包みを開けて、1つつまんだ。見る。嗅ぐ。かじる。舌の奥で3つ数えてから、飲み込んだ。
この人は、引退して11年経っても、毒見の手順が抜けない。
「……無罪」
「私の目の前で判決を出さないでください」
「あんたの口上は、あたしが教えたんだよ。文句があるなら返しな」
*
2杯目のハーブティーを注ぎながら、アデライデさんは言った。
「あんた、昔から変わらないね。口上だけは一丁前で、それ以外は全部半人前だ」
「……」
「料理は相変わらずできないんだろう。厨房の天井の焦げ跡、まだ残ってるって聞いたよ」
「……」
「字も汚い。記録帳の字が汚いと、あんたが倒れたときに次の毒見役が読めないって、何べん言ったかね」
「このババ……」
口から、零れた。
アデライデさんの手が、ぴたりと止まった。
「なんだい」
「……ババロアが、食べたいなー、なんて」
「ババロア」
「はい。急に。季節的に」
「季節は春だよ」
「春のババロアは、格別なんです。故郷の、ことわざで」
「あんたの故郷は、孤児院の裏の畑だろう」
「……」
勝てない。
この婆さんには、12年経っても勝てない。
アデライデさんは、しばらく私の顔を見ていた。それから、ふっと笑った。
「ババロアね。今度作ってやろうか」
「え」
「毒入りで」
「毒見役に毒入りの菓子を出さないでください」
「あんたなら見抜けるだろう。王国最後の防衛線なんだから」
なぜその呼び名を知っている。心の中でしか言ったことがないのに。
*
帰り際、私は扉のところで振り返った。
「アデライデさん。ひとつ訊いてもいいですか」
「なんだい」
「厨房の壁の正の字。あれ、私が見習いの頃に、ガストーネさんが書き始めたって聞きました。『あの事件のあと』って。何のことか、覚えてますか」
アデライデさんは、目を細めた。
「あんた、覚えてないのかい」
「覚えてません」
「……まあ、あんたらしいね」
アデライデさんは、それ以上は答えなかった。代わりに、12年間、年に一度は聞かされている言葉を口にした。
「毒見役の仕事は、毒を見つけることじゃないよ」
「……じゃあ、何なんですか。12年聞いてますけど」
「まだ分からないのかい」
「分かってたら聞きません」
「じゃあ、まだ半人前だ」
扉が、ぱたんと閉まった。
この婆さん。いつか絶対に、ババロアで勝ってやる。
*
夕方、城に戻ると、厨房がいつもより静かだった。
夕食の仕込みまでの、短い休憩時間だ。料理人たちは作業台の周りに椅子を寄せて、思い思いに休んでいる。
「ミレーユさん!」
ティモが、帳面を抱えて駆け寄ってきた。
「ぼく、一度だけ見てみたいです。ミレーユさんが料理するところ」
「却下」
「だって、毒見役の人が作った料理なら、絶対に毒が入ってないじゃないですか」
「理屈は合ってる。でも却下」
私は、厨房の壁の一角を指さした。
そこには、黄ばんだ紙が1枚、12年前から貼られている。
【厨房規則 追加】
一、毒見役は、かまどに近づかないこと
一、毒見役は、刃物を持たないこと
一、毒見役は、油の壺に触れないこと
料理長 ガストーネ
「見習い1週間目に、目玉焼きを作ろうとしたの」
私は天井の黒い染みを見上げた。大人の手のひらを4つ並べたくらいの、雲の形の焦げ跡。
「フライパンを火にかけて、卵が新しいかどうか確かめ始めた。窓の光に透かして、水に沈めて。1個じゃ不安だから、2個目も、3個目も」
「……それで」
「4個目の卵を水に沈めたとき、フライパンから煙が出てた。油をひくのを忘れてたの。慌てて手近な壺の中身を注いだら、それが油だった」
「……それで」
「天井まで火柱が立った」
ティモが、帳面に何かを書こうとして、やめた。さすがに名言ではないと判断したらしい。
「味が分かるなら作れる、って思ってたの。前世の、いえ、昔の私は」
「味が分かるのと、作れるのは、別の技術なのよねえ」
マルタさんが、大きな声で笑った。
「うちの亭主もね、酒の味だけは誰よりも分かるのよ。でも1滴も作れやしない」
「それは比べていいものでしょうか」
「似たようなもんよ」
作業台の端で、長い指の男が銀の匙を揺らしていた。白いコック帽を、なぜか斜めにかぶっている。
「味覚と技術は別物だ。優れた批評家が、優れた画家であるとは限らない」
菓子職人のルネさんだ。34歳。陛下のお茶の菓子を一手に任されている。自分のことを「甘味の芸術家」と呼んでいて、周りはあまりそう呼んでいない。
「ミレーユ嬢は批評家だ。そして批評家は、厨房に立つべきではない。天井を見れば分かる」
「ルネさん。そのコック帽、12年間ずっと斜めですけど、それも芸術ですか」
「当然だ。帽子の角度は、菓子の角度に通じる」
「通じません」
「君には分からないだろうね。君の判決は、いつも私の菓子に『執行猶予』をつける」
「泡立てすぎなんです、毎回」
「泡立ては芸術だ」
「過剰な芸術は、ただの泡です」
ルネさんの長い指が、ぴくりと震えた。マルタさんが吹き出した。ティモが、今度こそ帳面に書きつけた。
*
結局、その日の賄いはガストーネさんが作った。
夕食の仕込みで出た野菜の切れ端を、鶏の骨のスープで煮て、最後に溶き卵を流し入れたもの。厨房の片隅の長机に、全員分の器が並んだ。
陛下の食卓には出せない切れ端で作る料理だ。でも、作りたてで、熱い。
私は、器を両手で包んで、ひと口すすった。
玉ねぎが、とろけるほど柔らかい。人参は形が残っていて、噛むとほくりと甘い。溶き卵が、ふわふわと舌の上で広がった。
私は目を閉じて、もうひと口すすった。
「……玉ねぎを切ったのは、ティモね」
「えっ」
「切り口の厚みがばらばら。厚いのと薄いのが混ざってるから、煮えたときの柔らかさがそろってない。でも全部、丁寧に筋まで取ってある」
ティモの顔が赤くなった。
「人参はマルタさん。パン生地を切るときと同じ押し切りだから、断面が少しつぶれてる。その分、煮汁が染みてておいしい」
「あら、ばれた」
「塩はガストーネさん。最初にひとつまみ、最後に味を見てもうひとつまみ。2回に分けて入れてる。12年間、ずっと2回」
ガストーネさんは、黙ってスープをすすっていた。
「それからこの胡椒。挽きたてじゃない。香りが1段弱い。……ルネさん、お茶菓子の仕込みで胡椒を挽きました?」
ルネさんの匙が、止まった。
「……ジンジャークッキーに、ほんの少し。その残りを、ガストーネ氏に渡した」
長机がしんとなった。
それから、マルタさんが吹き出した。
「やだもう、この子ったら! 誰が何を切ったかまで分かるなんて!」
「毒見役ですから。料理に誰が触れたか分かるのは、大事なことです」
私が大真面目に言うと、厨房中が大笑いした。
なぜ笑われたのか、よく分からない。
*
片づけのあと、ティモが私のそばにやってきた。
「ミレーユさん。ひとつ訊いてもいいですか」
「却下」
「まだ何も言ってません」
「嫌な予感がする」
「この前、毒見のあとの30分に、うとうとしてましたよね」
私は固まった。
「……してない」
「してました。盆を下げに行ったとき、見ました。椅子に座ったまま、首がこう、かくんって」
心当たりがないとは言えない。あの日はベーコンがおいしくて、お腹がいっぱいだったのだ。
「そのとき、寝言を言ってたんです」
「寝言」
「『メロンパン』って」
厨房の空気が、止まった。
マルタさんが、パン生地を丸める手を止めた。ルネさんが、匙を揺らす手を止めた。ガストーネさんが、鍋を洗う手を止めた。
「メロンパンって、何ですか?」
「パンって言うからには、パンよね?」
「メロン、というのはあの甘い瓜のことかな」
3方向から質問が飛んできた。
私は困った。メロンパンは前世の食べ物だ。この世界にはない。前世の記憶があることは、誰にも話していない。話したところで、頭の心配をされるだけだ。
「……子供の頃から、ときどき夢に見る食べ物があるの」
嘘ではない。前世の食べ物の夢を、私は今でも見る。
「夢で食べた、パン」
ティモの目が、きらきらと輝いた。
「どんなパンなんですか!」
「また今度ね」
私は、そそくさと厨房を出た。
背中に、4人分の視線が突き刺さっていた。
この厨房の人たちが、「また今度」をそのままにしておく人たちではないことを、私はこのとき、まだ知らなかった。
*
——同じ頃、城下の南の外れでは。
アデライデは、焼き菓子の包みの底に、小さな紙切れが入っているのに気がついた。
大きな、角張った字で、ひと言だけ書いてあった。
『ありがとうございました』
差出人の名前は、なかった。なくても分かる。
老婆は、紙切れを窓辺の薬草の束に挟んで、つぶやいた。
「礼を言う相手が違うよ、熊。……まあ、あの子には、まだ言わないでおきな」




