第2話 差し戻し
厨房の空気が、凍っていた。
ヘルマン様が、作業台の前に立っている。61歳。銀の懐中時計を胸に下げ、眉間には常にしわが1本。王城の予算と規定を一手に預かる侍従長だ。
その向かいで、ガストーネさんが頭を下げていた。熊のような背中が、今日は少しだけ小さく見えた。
「王宮料理規定、第4条」
ヘルマン様は、懐中時計を開きながら言った。
「『食材の検品は、料理長の責務とする』。傷んだ魚が陛下の食卓に上がりかけた。料理長、これは君の責任だ」
「ん」
「減俸は免れん。場合によっては、職を退いてもらうことになる」
「ん」
ガストーネさんは、頭を下げたまま動かなかった。
この人は、言い訳というものをしない。12年間、一度も聞いたことがない。
マルタさんが何か言いかけて、口を押さえた。ティモは泣きそうな顔で帳面を抱きしめていた。菓子職人のルネさんは、菓子の型を磨く手を止めていた。
その沈黙を破ったのは、厨房の入り口からの拍手だった。
ぱち、ぱち、ぱち。
「いやはや、大変なことになりましたな」
入ってきたのは、派手な紫の上着を着た中年の男だった。指に宝石の指輪を3つ。後頭部の髪が、前に向かってやや無理のある流れ方をしている。
そして、香水の匂いがきつい。
鼻が死ぬ。毒見役の鼻に対する明確な攻撃だ。正式に抗議したい。
「ベルトラン伯爵」
ヘルマン様が、わずかに眉を上げた。
「王城の食材の仕入れ先を見直したのは、評議会の予算担当である私の提案でしてね。新しい魚屋は、前の業者より3割も安い。その魚が傷んでいたとなれば、責任を感じずにはいられない」
伯爵は、胸に手を当てて首を振った。
「——と、言いたいところですが。新鮮な魚を仕入れても、料理人の保管が悪ければ傷みます。そうでしょう、料理長殿? そろそろ引退を考えられてはいかがかな。年を取ると、鼻も目も鈍りますからな」
ガストーネさんは、何も言わなかった。
伯爵の目が、今度は私に向いた。
「おや。そちらは噂の毒見役殿ですね。12年間一度も毒が出ない、あの」
「はい」
「毒の出ない毒見役が、魚の鮮度で手柄を立てたわけだ。いやあ、立派な試食係ですな」
厨房の誰かが息を呑んだ。
私は、にっこりと笑った。
「おそれいります、伯爵様」
口では、そう言った。
心の中では、伯爵の顔面を王国毒物図鑑の第3巻で3回殴っていた。全3巻のうち、一番分厚い巻だ。挿絵の多い、毒茸の巻で。
この男、人間としてロット不良ではないのか。出荷前の検品で弾かれるべきだった。誰だ、この人を通したのは。前世の工場なら、ラインを止めて全数回収の案件だ。
「毒見役」
ヘルマン様が、懐中時計を閉じた。
「差し戻しの判断は、正しかった。だが、料理長の処分は規定どおりに行う。明日の朝、決定を伝える」
「——お待ちください」
口が、勝手に動いていた。
「明日の朝まで、時間をいただけませんか。魚が傷んだ原因を、調べます」
「原因は、料理長の検品の不備だ」
「それを、確かめさせてください」
ヘルマン様が、じっと私を見た。
「……毒見役の職務の範囲外だ」
「毒見役は、陛下のお口に入るものを確かめる役目です。魚が陛下のお口に入る前に、どこで傷んだのか。それも、確かめる範囲だと考えます」
ヘルマン様の眉間のしわが、1本から2本になった。
「明日の朝、7時半。私の執務室に来たまえ」
*
その日の午後、私は魚の木箱の前にしゃがみ込んでいた。
「ミレーユさん、何してるんですか」
「なぜなぜ分析」
「なぜなぜ?」
「前世の、いえ、故郷の呪文よ。問題が起きたら『なぜ』を5回繰り返すの。そうすると、本当の原因にたどり着く」
ティモが帳面を開いた。書かなくていい。
なぜ1回目。なぜ魚が傷んだのか。
獲れてから時間が経っていたからだ。舌で分かる。身の奥の匂いは、3日目のものだった。
なぜ2回目。なぜ時間が経っていたのか。
私は木箱の底に手を入れた。敷き詰められた氷は、すっかり溶けて水になっていた。その水を指先につけて、なめた。
「……しょっぱい」
「えっ、なめたんですか」
「海水じゃない。塩を溶かした水。氷が溶けたあとに、塩水を足してる。港から運んできた箱に見せかけるために」
ティモが青ざめた。
なぜ3回目。なぜそんな細工をしたのか。
私は納品書を広げた。『本日早朝水揚げ 北の港より』。字が妙にきれいだ。最初から書き直したような、きれいさだった。
「ティモ。今朝、魚屋が来たのは何時?」
「朝の6時です。ぼく、受け取りました」
「北の港から王都までは、馬車で半日かかる。夜通し走っても、朝6時に着くなら、獲ったのは前の日の昼。『本日早朝水揚げ』は、ありえない」
私は、城門の衛兵の詰所へ向かった。
衛兵は、出入りした荷車をすべて帳面に記録している。前世で言えば、入荷記録だ。衛兵の兄さんは、私を見るなり顔をほころばせた。
「あ、毒見役さん。今朝のオムレツ、無罪だったそうですね」
「なぜ知ってるの」
「ティモが、門のところまで叫んでましたから」
あの少年は、城中に何を広めているのか。
帳面をめくると、魚屋の荷車は確かに朝6時に入っていた。そしてその3日前の夕方にも、同じ荷車が、南の街道の門を通っていた。
「南の街道?」
「ええ。南の港のほうから戻ってきたみたいでしたよ」
なぜ4回目。なぜ、北ではなく南の港なのか。
南の港は遠い。その分、魚が安い。3日前に安い魚を仕入れ、北の港の新鮮な魚だと偽って、城に高く売っていた。
なぜ5回目。なぜ、そんな業者が城に出入りしていたのか。
答えは、香水の匂いと一緒に思い出せた。
*
翌朝7時。朝の毒見を終えて、私は3分で手袋をはめ直した。
「判決。——無罪。本日も、毒なし」
「む、無罪いただきましたっ!」
ティモが駆けていく。私は、その背中を追い越す勢いで階段を上がった。
7時半、侍従長の執務室。
ヘルマン様は、書類の山の向こうで懐中時計を開いていた。
「時間どおりだな、毒見役」
「こちらを」
私は1枚の紙を、机の上に置いた。昨夜、蝋燭を2本使って書き上げたものだ。
【是正報告書】
件名:昼食用白身魚の品質不良について
発生日:春の月、20日
現象:納品された魚が、獲れてから3日経過していた
原因1:納品業者が南の港で仕入れた魚を、北の港の当日水揚げと偽っていた
原因2:輸送中に溶けた氷の代わりに、塩水を足して鮮度を偽装していた
原因3:納品書の記載を前提に検品を行う手順のため、偽装を見抜けなかった
根拠:城門の荷車記録、木箱の塩水、魚の身の匂い(毒見役による官能検査)
是正処置:当該業者との取引を停止し、以前の業者に戻す
再発防止策:納品時に城門の記録と納品書を突き合わせる。魚は毒見役が受け入れ時に確認する
報告者:王宮毒見役 ミレーユ
ヘルマン様は、報告書を2回読んだ。
それから、懐中時計を閉じた。
「……王宮料理規定、第4条。『食材の検品は、料理長の責務とする』」
「はい。ですが、第4条の検品は、納品書の記載が正しいことを前提にしています。納品書そのものが偽りなら、検品の前提が崩れます」
「前提が崩れようと、規定は規定だ」
「では同じく第4条の但し書き。『ただし、納品業者の故意による不正があった場合は、この限りでない』」
ヘルマン様の手が、止まった。
「……よく覚えているな」
「毒物図鑑を3巻丸暗記した人間に、規定集の1冊くらい何でもありません」
ヘルマン様は、しばらく報告書を見つめていた。
「だが、再発防止策が気に入らん。魚の受け入れ時に毒見役が確認する? 毒見役の職務を勝手に増やすな。規定の改定には評議会の承認が要る。手続きに、最低でもひと月」
この石頭。
規定と懐中時計でできた石頭。頭を割ったら、中から条文がこぼれ落ちてくるに違いない。
「この石頭……」
しまった。
ヘルマン様の懐中時計の、秒針が止まった気がした。
「……石窯パンが、今朝、焼きたてでとてもおいしかったです」
「石窯パン」
「はい。マルタさんの。石窯の。パンです」
ヘルマン様は、長いこと私を見ていた。
それから、小さく咳払いをした。
「……規定の改定を待つ間、毒見役が『自主的に』魚を確認することを、止める規定はない」
「はい」
「業者の件は、私から評議会に報告する」
「はい」
「料理長の処分は、取り消す」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。差し戻しを判断したのは私です。この件で責任を問われるなら、それは私に」
「毒見役」
ヘルマン様が、報告書を引き出しにしまいながら言った。
「石窯パンの話は、報告書に書かなくてよい」
*
執務室を出たところで、紫の上着と鉢合わせした。
香水が鼻を殴った。
「毒見役殿」
ベルトラン伯爵は、笑顔を浮かべていた。目だけが笑っていなかった。
「魚屋の件、侍従長から聞きましたよ。いやはや、たいした鼻をお持ちだ。……毒見役というのは、ずいぶんと出しゃばる役職なのですな」
「陛下のお口に入るものを確かめるのが、仕事ですので」
「覚えておきましょう」
伯爵は、耳元に顔を寄せた。
「私はね、覚えたことは忘れない性分でして」
香水の匂いと一緒に、紫の上着が遠ざかっていった。
私は、その背中に向かって心の中で塩をまいた。3回。いや、塩ではもったいない。南の港の塩水で十分だ。
*
厨房に戻ると、全員が私を待っていた。
「ミレーユちゃん!」
マルタさんが飛びついてきた。粉まみれの腕で抱きしめられ、制服の背中に白い手形が2つついた。
「聞いたわよ! 料理長、お咎めなしだって!」
「ティモ。まさか、もう城中に」
「門のところまで叫んできました!」
この少年の拡声能力は、王国の伝令網より速い。
厨房の奥で、ガストーネさんがかまどの前に立っていた。
私に背を向けたまま、何かを焼いていた。やがて、白い皿を1枚、作業台の上に置いた。
白身魚の香草焼きだった。
皮目がぱりっと焼けて、香草の緑が散っている。昨日と同じ料理。でも、魚の身が違う。透き通るように白い。
「以前の魚屋さん、今朝のうちに来てくれたの」
マルタさんが小声で教えてくれた。
ガストーネさんは、何も言わなかった。皿の横に、フォークを1本置いた。
「ん」
それだけだった。
この人は、言葉の代わりに料理で話す。12年かけて、ようやく覚えた。
私は、反射的に手袋を外していた。
「被告人、白身魚の香草焼き」
「ミレーユさん、それ、陛下のじゃないですよ!」
「黙ってて、ティモ。毒見役の舌は、出されたものを確かめずにはいられないの」
見る。身の断面、真っ白。透明感あり。
嗅ぐ。香草。バター。レモン。その下に、潮の香り。傷みの匂いは、どこにもない。
口に入れる。
皮が、ぱりっと鳴った。身はふっくらとして、噛むと甘い脂がにじむ。香草とレモンが、その脂をすっと切っていく。昨日の魚は、香草で何かを隠していた。今日の魚は、香草が魚を引き立てている。
舌の奥で、3つ数えた。
「判決」
厨房中が、息を止めた。
「——完全無罪」
厨房が、爆発した。
ティモが飛び上がり、ルネさんがコック帽を放り投げ、料理人たちが鍋を打ち鳴らした。マルタさんが「はい、配当!」と叫んで、前掛けのポケットから小銭をばらまき始めた。
「やっぱり賭けてるじゃないですか!」
「なんのことかしら」
ガストーネさんは、騒ぎに背を向けて鍋を洗い始めた。
その耳の先が、少しだけ赤かった。
*
——同じ頃、3階では。
「魚の件、毒見役が原因を突き止めたそうです。業者の偽装だったとか。料理長はお咎めなしに」
給仕頭の報告を聞いて、少年は顔を上げた。
「毒見役の名は」
「は?」
「名前だ」
「……ミレーユ、と申します」
少年は、その名前を一度だけ、口の中で繰り返した。




