第1話 判決、本日も毒なし
朝7時。王城の地下1階、毒見の間。
窓のない石の小部屋で、私は今日も命を懸けている。
大げさではない。王宮毒見役とは、国王陛下のお口に入るものを、陛下より先に口にする仕事だ。料理に毒が入っていれば、倒れるのは私。つまり私は、王国最後の防衛線である。
この職について12年。一度も毒に当たったことはない。
それは私の仕事が完璧だからだ。毒殺をたくらむ不届き者たちも、この毒見役がいる限り手出しはできないと、恐れをなしているに違いない。抑止力というやつだ。
扉が勢いよく開いた。
「お持ちしました、ミレーユさん!」
見習い料理人のティモが、銀の盆を抱えて飛び込んでくる。17歳。そばかすの浮いた頬を真っ赤にして、盆を机に置くなり直立不動になった。
「ご苦労。今朝は何? また私を亡き者にしようとする罠?」
「オムレツです!」
「ガストーネめ。とろとろの半熟で、私の心を折りに来たな」
ティモが、なぜか目を輝かせて帳面に何かを書きつけた。
「……今、何を書いた」
「名言です」
「やめなさい」
「『とろとろの半熟で私の心を折りに来たな』。いただきました」
「返しなさい」
ティモは帳面を背中に隠した。この少年は、3年前に厨房へ入ってきたときから、私の独り言をすべて書き留めている。あの帳面が城の外に流出したら、私は社会的に死ぬ。毒ではなく、帳面で死ぬ。
「ミレーユさんの毒見って、料理の説明がすごく細かいですよね」
「毒見の手順よ。食レポじゃないの」
「しょくれぽ?」
しまった。前世の言葉だ。
「……故郷の言葉。食べたものの味を、細かく報告すること」
ティモの目が、きらりと光った。帳面に、ひときわ大きな字で何かを書きつけている。
嫌な予感がした。
その日の夕方には、厨房で私を「食レポ係」と呼ぶ人間が3人に増えていた。意味を知っている者は、1人もいなかった。
*
私は椅子に座り直し、白い手袋を外した。
それだけで、部屋の空気が変わる。
ティモが口をつぐんで、背筋を伸ばした。私も背筋を伸ばす。ふざけるのは、ここまでだ。
盆の上の白い布を1枚めくった。
「被告人、オムレツ。罪状、毒物混入の疑い」
まず、見る。
焼き目のない、つるりとした黄色の曲面。怪しい。美しすぎるものは、たいてい何かを隠している。前世の工場でもそうだった。見た目が完璧なロットほど、抜き取り検査で異物が出た。
匙の背で押すと、ふるん、と揺れた。
匙を入れる。とろりと、半熟の中身があふれ出した。湯気と一緒に、バターの香りがのぼってくる。
嗅ぐ。
「バター。卵。塩。……それから、舌の先を刺すような香り。容疑者、ヒメオオバの種子。舌にしびれを残す毒です。この香りと、よく似ています」
ティモが、ごくりと唾を飲んだ。
口に入れる。
熱い。舌の上で卵がほどけて、バターのコクが甘さを包み込む。噛む必要がないほどなめらかだ。表面の薄い膜だけが、わずかに歯に当たる。最後に、ぴりっと舌の先を叩くものがあった。
私は目を閉じて、舌の奥で3つ数えた。
1。2。3。
「しかし。ヒメオオバのしびれは、舌の奥に残る。この刺激は、飲み込んだ瞬間に消えました。つまり」
目を開ける。
「挽きたての、胡椒です」
ティモが両手で口を押さえた。
「判決。——無罪。本日も、毒なし」
「む、無罪いただきましたーっ!」
ティモが扉を開け放ち、廊下を駆けていった。突き当たりの厨房から歓声が上がる。鍋を叩く音。口笛。誰かが「ほら見ろ、完全無罪じゃない!」と叫んでいた。
私は手袋をはめ直して、椅子の背にもたれた。
「……はー。今日もうまかった」
料理長のガストーネ、あいつは腹が立つほど料理がうまい。
それにしても、厨房の連中も気の毒だ。毎朝あんなに大騒ぎするのは、生きた心地がしないからだろう。毒見役の判決ひとつで、自分の料理が陛下に届くかどうかが決まるのだ。私の一言に震えながら、毎日鍋を振っている。
恐れられるのは、少し寂しい。
だが、それが防衛線というものだ。
*
毒見が終わっても、料理はすぐには陛下のもとへ運ばれない。
毒の中には、口にしてからしばらく経って効き始めるものがある。だから毒見役は、食べたあと30分、この部屋で様子を見る。私が倒れなければ、料理は3階の陛下の食堂へ運ばれる。
この30分が、暇だ。
脈を測る。指先のしびれを確かめる。手鏡で舌の色を見る。ここまでで3分。残りの27分は、何もすることがない。
だから私は、毎朝この時間に反省会をする。
前世の反省会だ。
私には前世の記憶がある。こことは違う世界で、森本千秋という名前で、食品メーカーの品質保証部に勤めていた。工場の製品に異物が混ざっていないか、味が基準からずれていないかを確かめる係だ。
享年29。死因は、たぶん過労。夜11時の検査室で、レトルトのクリームシチューを試食している最中に倒れた。最後の食事が自社製品の検品。職業意識の高さが、死に様にまで出ている。
神様がいるなら、配属先を決める人事の手際は最悪だと思う。前世で食べ物を確かめる仕事をして死んだ人間を、生まれ変わらせてまた食べ物を確かめる仕事に就けるのだから。せめて部署異動の希望くらい聞いてほしかった。
手鏡の中の舌は、健康なピンク色だった。オムレツのバターで、少しだけ光っていた。
*
30分が経って、私は厨房に顔を出した。
厨房は戦場の後片づけのような騒ぎだった。鍋を洗う者、野菜を刻む者、昼の仕込みを始める者。その真ん中で、パン職人のマルタさんが、小銭の山を数えていた。
「おはよう、ミレーユちゃん。今朝も無罪だったわね」
「おはようございます。……その小銭は何ですか」
「なんでもないわよ」
マルタさんは小銭を前掛けのポケットにざらざらと流し込んだ。45歳。丸い体と丸い顔と、丸い声の持ち主だ。腕は私の太ももくらい太い。
「ところで、今朝の判決は『完全無罪』じゃなかったの?」
「無罪です。胡椒を挽くのが、ほんの少し早かったので」
厨房の奥で、誰かが「ほらな」とつぶやき、別の誰かが舌打ちをした。マルタさんのポケットが、またちゃりんと鳴った。
何かが賭けられている気がする。だが、深入りはしない。厨房の人間関係に口を出すのは、毒見役の職務の範囲外だ。
厨房の一番奥で、熊のような大男が鍋を洗っていた。
料理長のガストーネさんだ。52歳。灰色の口ひげ。無口で、返事はたいてい「ん」の一文字で済ませる。
「ガストーネさん、今朝のオムレツ。火の通りが中心の手前でぴたりと止まっていました。卵の固まり始めるぎりぎりです。腹が立つほど完璧でした」
「ん」
「胡椒は、あと30秒遅く挽けば完全無罪でした」
「ん」
「……私の話、聞いてます?」
「ん」
ガストーネさんは洗い終えた鍋を置いて、壁際へ歩いていった。
厨房の奥の壁には、白い漆喰の上に、炭の線がびっしりと並んでいる。5本ずつ束ねられた線。正の字だ。この国にそんな書き方はないので、私が見習いの頃に何気なく教えたものだった。
壁一面が埋まっている。天井近くまで。隣の壁にもはみ出している。
ガストーネさんは炭を取り、一番新しい列の端に1本の線を書き足した。
1日3食、12年分。1万3千本を超える、「毒なし」の線。
「あの壁ねえ」
マルタさんが、私の隣で壁を見上げた。
「ミレーユちゃんが見習いの頃に、あの人が書き始めたのよ。ほら、あの事件のあと——」
「ん」
ガストーネさんが、ひときわ低い声で言った。
マルタさんは肩をすくめて口を閉じた。
あの事件、と言われても、私には心当たりがない。見習いの頃は、自分のことで手一杯だった。毒物図鑑を丸暗記するのと、厨房の天井を焦がすのとで。
後者については、今も天井に黒い跡が残っている。厨房の人たちは、それを「ミレーユの焦げ跡」と呼ぶ。やめてほしい。
*
昼前、陛下の朝食の皿が厨房に戻ってきた。
給仕が盆を置いていく。布を取ると、白パンが1つと半分、ベーコンが2枚、オムレツが半分以上残っていた。
ハーブティーだけが空だった。
「……今朝も、あんまり召し上がらなかったのね」
マルタさんの丸い声が、少しだけ小さくなった。
ガストーネさんは何も言わなかった。冷めて少ししぼんだオムレツを、黙って見下ろしている。
私が匙を入れたとき、あのオムレツは湯気を立てていた。とろりとあふれて、バターの香りがした。
毒見のあとの30分。3階まで運ぶ時間。そのあいだに、湯気はどこかへ消える。
陛下のお顔を、私はほとんど知らない。最後にきちんと拝見したのは、5年前の戴冠式だ。大広間の一番後ろから、背伸びをして見た。8歳の男の子が、大きすぎる王冠を両手で支えていた。
あの子は今、13歳になっている。
毎朝、あの冷めたオムレツを、ひとりで食べている。
……いや。私が考えることではない。毒見役の仕事は、毒がないことを確かめるところまでだ。その先は、職務の範囲外である。
私は、残ったオムレツから目をそらした。
*
昼12時。昼食の毒見。
ティモが盆を運んでくる。今度は、いつもの勢いがなかった。
「お、お持ちしました……」
「どうしたの。顔色が悪い」
「今日のお昼、新しい魚屋さんの魚なんです。料理長が、ちょっと……首をかしげてて」
布をめくると、白身魚の香草焼きだった。皮目がぱりっと焼けて、香草の緑が鮮やかに散っている。見た目は完璧だ。
私は手袋を外した。
「被告人、白身魚の香草焼き。罪状、毒物混入の疑い」
見る。身の色、白。変色なし。
嗅ぐ。
香草。バター。レモン。
その下に、ほんのかすかに、何かがあった。
香草の香りに隠れて、ほとんど分からないくらいの。
私は、ひと口だけ身をほぐして、口に入れた。
舌の奥で、3つ数える。
1。2。3。
毒ではない。図鑑のどの毒の味とも違う。しびれも、苦みもない。
でも。
「……ティモ」
「はい」
「この魚、いつ獲れたものか聞いてる?」
「今朝獲れたばかりだって、納品書には……」
「嘘ね」
私は、手袋をはめないまま立ち上がった。
「身の奥に、ほんの少しだけ、傷み始めの匂いがある。香草とバターとレモンで、上手に隠してあるけど。少なくとも3日は経ってる」
ティモの顔から血の気が引いた。
私は魚の皿に布をかけ直した。
「判決。——差し戻し。これは陛下の食卓には出せません」
差し戻し。12年間で、数えるほどしか口にしたことのない判決だった。
毒ではない。だから有罪ではない。けれど、陛下にお出しできる品質でもない。前世の言葉で言えば、出荷停止だ。
ティモが震える声で言った。
「で、でも、ミレーユさん。差し戻しになったら、料理長が……」
そのとき、廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてきた。
かつ、かつ、かつ。
城の中で、あんなに正確な歩幅で歩く人間は1人しかいない。
扉の前で足音が止まった。白髪の老紳士が、胸の懐中時計を指先で撫でながら、毒見の間をのぞき込んだ。
侍従長のヘルマン様だった。
「毒見役。昼食の皿が差し戻されたと聞いた」
聞くのが早い。どこで聞いた。この城の壁には耳でも生えているのか。
「はい。魚が傷みかけています」
ヘルマン様は、懐中時計をぱちんと閉じた。
「では、料理長の責任を問わねばならんな」
厨房のほうで、何かが床に落ちる音がした。
*
——同じ頃、3階では。
「陛下。本日の昼食は、魚料理が差し戻しとなりました。代わりの品を急ぎ用意しております」
給仕頭の報告を聞いて、少年は窓の外から目を戻した。
「……差し戻し?」
「はい。毒見役が、魚が傷みかけていると」
少年は、しばらく黙っていた。
「今朝の判決は」
「は?」
「今朝の、オムレツの判決だ」
給仕頭は少し戸惑ってから、答えた。
「無罪、だったそうです。胡椒を挽くのが、少し早かったとか」
「……そうか」
少年は、また窓の外を見た。
ほんの少しだけ、口の端が動いたように見えた。




