第29話 可か、否か
歓迎の晩餐会は、使節団が着いた翌々日の夜に開かれた。
年に3回に減った晩餐会とは別の、臨時の宴だ。大広間に長い卓が3列。着飾った貴族たちが100人近く。正面の高い席に、ユリウス様とエレオノーラ殿下が並んで座っている。
並んで、というのが問題だった。
「並んでるわ」
「並んでますね」
「縁談ね」
「まだ何も決まってません」
厨房の扉の陰で、マルタさんとティモがひそひそと話していた。2人とも、なぜか給仕の手伝いという名目で大広間の裏に来ている。マルタさんの手には、小さな黒板が握られていた。持ち運び用らしい。
【本日の賭け】
南の判決 文字数 40字以上 1.5倍
南の判決 文字数 20字以下 10倍
北の判決 「否」が出る 5倍
「20字以下、10倍って」
「あんたが短くできるわけないでしょ」
マルタさんの統計は、いつも私の心を正確に刺してくる。
*
壇上には、卓が2つ並べられていた。
右が、私の卓。左が、ヴェラさんの卓。
晩餐会では、毒見役が大広間の壇上で、客の目の前でもう一度料理を確かめる。公開毒見という古い儀式だ。今夜はそれが、南と北の2人で行われる。
出番を待つあいだ、私は隣のヴェラさんに小声で話しかけた。
「緊張しますね。100人の前って」
「しません」
「北でも、こういう公開の毒見はあるんですか」
「あります」
「やっぱり、1人でやるんですか」
「はい」
「判決は、いつも一文字なんですか」
「はい」
「……一文字以外は、言わないんですか」
「言いません」
会話の文字数で、すでに私の圧勝だった。うれしくない。
ヴェラさんは、白い手袋をはめた手を体の前で組み、まっすぐ前を見ていた。腰に、細長い革の筒を下げている。中に、銀の針が入っているらしい。
この人、緊張しないどころか、瞬きすら少ない気がする。
*
「前菜、燻製鱒の油漬けと、春の若菜」
給仕が、2つの卓に同じ皿を置いた。
大広間が、しんと静まった。100人の視線が壇上に集まる。
私は、手袋を外した。
「被告人、燻製鱒の油漬け。罪状、毒物混入の疑い」
どこかの卓で、誰かが「出た」とつぶやいた。いつもの反応だ。
見る。鱒の身の橙色、鮮やか。油の色は琥珀。若菜は張りがあって、切り口が新しい。
嗅ぐ。燻した樫の香り。鱒の脂。それから、油の香り。オリーブとは違う。もっと香ばしくて、ほのかに甘い、木の実のような油だ。
「容疑者、毒芹。若菜に紛れやすい毒草です。しかし、若菜の茎の断面に、毒芹特有の紫の筋なし」
含む。鱒の身がねっとりと舌に貼りつき、燻煙の香りが鼻へ抜けた。油が身の塩気をやわらげ、若菜のほろ苦さが最後をすっと締める。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。判決。——無罪。本日も、毒なし」
拍手が起きた。
裏の扉の陰で、マルタさんが指を折って数えているのが見えた。たぶん、40字を軽く超えている。
次は、北の番だった。
ヴェラさんは、腰の筒から銀の針を抜いた。細い。縫い針より少し長いくらいだ。それを、鱒の身に音もなく刺した。
3つ数えるほどの間。
引き抜いて、針先を灯りにかざす。銀は、ある種の毒に触れると黒く曇る。前世でも、昔の人は銀の食器で毒を見分けようとしたと聞いたことがある。
針は、曇っていなかった。
ヴェラさんは、匙で鱒をひとかけらだけ口に含んだ。表情は、まったく変わらない。3つ数えるほどの間、口の中に留めて、それから手巾にそっと吐き出した。
飲み込まないのだ。
ヴェラさんは、手巾をたたんで、まっすぐ前を向いた。
「否」
大広間が、ざわめいた。
私は、思わず隣を見た。
「否?」
ヴェラさんは、私のほうを見なかった。
「毒はありません」
今夜、ヴェラさんの口から出た中で、一番長い文だった。
「毒はない。でも、否?」
「禁止表にあります。殿下の皿からは、下げます」
最長記録は、10秒で更新された。
給仕が、王女の前から燻製鱒の皿を下げていった。ユリウス様の皿は、そのまま残った。
裏の扉の陰で、マルタさんが黒板の「北の判決 『否』が出る 5倍」を指でつついて、何か叫んでいた。あとで聞いたら、「誰も賭けてないじゃない!」だったらしい。
*
料理が進むにつれて、大広間の空気が変わっていった。
スープ。魚。肉。皿が2つの卓に置かれるたびに、私が長い判決を述べ、ヴェラさんが一文字を言う。
「被告人、春豆のポタージュ。見ます、淡い緑、裏ごし均一。嗅ぎます、豆の青い甘さ、バター、ほんの少しのミント。含みます……舌の奥で3つ数えます。判決。——無罪。本日も、毒なし」
「可」
「被告人、白身魚の香草焼き……判決。——無罪。本日も、毒なし」
「可」
客席が、だんだん面白がりはじめた。
私の判決が終わると、どこかの卓の若い貴族が、小声で「可」と真似をする。それを聞いたラドミール大使が「可!」と大声で続け、北の随員が慌てて袖を引いた。それを聞いた隣の夫人が、くすくす笑う。別の卓では、年配の伯爵が「やはり南の口上のほうが味が分かる」と言い、向かいの男爵が「いや、北の一文字には品がある」と言い返している。
判決の、聞き比べになっていた。
前世の社内品評会にも、こういう審査員がいた。試食はひと口で済ませて、袋の文字の大きさで点をつける役員。新商品の味より、包装の色について長く話す。
伯爵と男爵の皿の白身魚を、心の中で、全部パセリに差し替えた。口上を味わいたい人には、飾りの草で十分だ。
毒見は、聞き比べるものではない。そう言いたかった。言える立場ではなかった。私の判決を楽しみに晩餐会に来る人たちがいることを、私はこの1年で、さすがに知ってしまった。
「被告人、仔羊のロースト、カシスのソース」
去年の夏の晩餐会と同じ料理だった。ガストーネさんが、わざと選んだのかもしれない。
私は手袋を外したまま、少しだけ迷った。
短くしてみようか。
マルタさんの黒板の「20字以下、10倍」が、頭をよぎった。北の毒見役の隣で、いつもの長い判決を続けるのが、なんとなく悔しかった。
「被告人、仔羊。判決——」
そこで、止まった。
見ていない。嗅いでいない。含んでいない。
手順を飛ばして、判決は出せない。
「……失礼しました。見ます」
薄紅色の断面。カシスの深い紫。去年、ベラドンナを疑った色だ。
「嗅ぎます。赤ワイン、肉汁、カシスの酸味、ローズマリー。含みます」
ナイフを入れ、口に運ぶ。肉汁があふれ、カシスの酸味が脂を切っていく。
「舌の奥で3つ数えます。1、2、3。容疑者、ベラドンナ。去年もここで疑いました。今年も、カシスです。判決。——完全無罪。本日も、毒なし」
客席から、去年を覚えている人たちの笑い声が起きた。
裏の扉の陰で、マルタさんが「ほらね」という顔をしていた。
隣で、ヴェラさんが針を抜いた。仔羊に刺す。引き抜く。かざす。
それから、カシスのソースを、ほんのひと匙だけ口に含んだ。
3つ数えるより、ほんの少しだけ長く、ヴェラさんはそのまま動かなかった。
気のせいかもしれない。瞬きひとつ分ほどの違いだった。
「可」
ヴェラさんは、手巾にソースを吐き出した。
表情は、最後まで変わらなかった。
*
壇上から、正面の高い席がよく見えた。
ユリウス様の前には、湯気の立つ仔羊が置かれていた。私の第二審が終わってすぐに運ばれたものだ。陛下の料理は、この冬から、熱いまま届くようになった。
隣のエレオノーラ殿下の前には、まだ何も置かれていなかった。
北の典礼法では、毒見のあと1時間待ってからでなければ、王族の口に料理を入れてはならない。だから王女の皿は、壇上の脇の小卓に並べられて、ずっと待っている。前菜も、スープも、魚も。1時間経ったものから順に、殿下の前に運ばれる。
殿下の前に、ようやく、1時間前に毒見を終えたポタージュが置かれた。
湯気は、もう立っていなかった。表面に、薄い膜が張っていた。
見覚えのある膜だった。
去年の夏、私が初めて3階まで盆を運んだ夜。冷めたポタージュの上に張っていた、あの膜と同じだった。
殿下は、膜を匙でそっと押しのけて、ひと口だけ飲んだ。
それから、匙を置いた。
ユリウス様が、隣の皿を見ていた。
「……冷めているだろう」
小さな声だった。壇上の私には、かろうじて聞こえた。
殿下は、前を向いたまま答えた。
「冷めているのが、当たり前です。温かい料理は、毒を隠しますので」
「誰が、そう言った」
「北の典礼法に、そう書いてあります」
ユリウス様は、少し黙った。
「……私も、そう思っていた」
殿下が、この夜初めてユリウス様のほうを見た。
「思っていた?」
「去年までは。料理は、冷めているものだと」
殿下は、何か言いかけた。
そのとき、大広間の真ん中で、大きな声が上がった。
「被告人、仔羊!」
ラドミール大使だった。毛皮の帽子をかぶったまま、ナイフとフォークを高く掲げている。
「罪状、うますぎる! 判決、おかわり!」
大広間が、どっと沸いた。大使は満足げにうなずいて、皿を給仕に突き出した。
南の料理を薄いとけなしていた人が、南の判決を真似して、おかわりをしている。
この人は、口と胃袋が別々の国に仕えているのではないか。
正面の高い席で、エレオノーラ殿下が、口元を手で押さえていた。
笑ったのか、驚いたのか、壇上からは分からなかった。
殿下はすぐに手を下ろして、冷めたポタージュに目を落とした。
*
晩餐会のあと、厨房の裏で、マルタさんが黒板を消していた。
「文字数、数えた?」
「数えなかったわ。数えるまでもなかったもの。最短でも52字。あんた、一度短くしかけてやめたでしょ」
「手順を飛ばせなかったんです」
「知ってるわよ。だから、10倍に賭けた人は1人もいなかった」
マルタさんは、黒板を脇に抱えた。
「でも、『否』は誰も当てなかったわね。北の毒見役が南の料理に『否』を出すなんて、誰も思わなかったもの。『否』の分は、胴元の総取りよ」
総取りなのに、マルタさんの顔は浮かなかった。
「……あの王女様、今日、ほとんど食べてないわね」
「はい」
「1時間も待たされたら、パンだって固くなるわ」
パン職人の言葉は、重かった。
私は、晩餐会の最初の前菜を思い出していた。
燻製鱒の油漬け。毒はなかった。それでも、北の毒見役は「否」と言った。禁止表にあるから。
禁止表には、何が書いてあるのだろう。
なぜ、毒のない料理が、禁止されているのだろう。
香ばしい、木の実のような油の香りが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
*
——同じ夜、大広間の脇の小部屋では。
ヴェラは、ひとりで砂時計を見ていた。
壇上での毒見は、もう終わっている。けれど、最後の菓子の皿が殿下の前に運ばれるまで、あと40分ある。北の典礼法では、毒見役は1時間、その場を離れてはならない。
小部屋の外から、片付けの音と、笑い声が聞こえていた。南の厨房の人たちの声だった。
砂が、細く落ちていく。
ヴェラは、手袋をはめた手を膝の上で組んだまま、動かなかった。
口の中には、まだカシスの酸味がかすかに残っていた。
吐き出したはずだった。
それでも、残っていた。
ヴェラは、目を閉じた。
残り、39分。




